↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
流体なる隣人たち -諸邦スライム巡見録  作者: Ono


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
12/14

第十一章 黒い潮

旅先:ケアノス海洋国家、外洋航路・黒潮海域。王国歴二四九年。


 ***


 実を言うと私は船が嫌いだ。これは本書の中で隠してきた事実だが、ここで正直に告白しておきたいと思う。

 旅人の友である馬は好きだ。モック・ラビィも許容できる。狼橇はユールハーゲンで体験して悪くないと思った。雲海粘体の背に乗って空を飛ぶことは、恐怖と陶酔の混合として経験できた。しかし船だけは今に至ってなお、どうにもならない。

 幼い頃、父に連れられて港町に行き、湾内の小舟に乗った。穏やかな内湾であったが私は港を離れて間もなく限界に達した。以来、どこへ旅立つにしても水上の移動を極力避けて生きてきた。二十六歳の年にケアノス海洋国家への調査を計画した時、船に乗ることを覚悟しながらも、できる限り小さな船で、できる限り短い時間で、という条件を頭の中に並べた。


 そして私は外洋に出た。目的は港町近郊に棲む草原性スライムだったのだが、この旅で思わぬ出会いを果たすこととなる。また思った通りの困難にも出会った。往復十四日の航海、そのうちの七日間、私は船酔いに苦しんだ。残りの七日間も、苦しんでいない時間より苦しんでいる時間のほうが長かった。

 これは私にとって重要な記録である。黒い潮の観察記録と並行して、私の胃の状態の記述も混在することをご了承いただきたい。


 ***


 ⋄ケアノス海洋国家


 海と共に生きることを選び続けた人々の集合が、国という形を持っているのがケアノスだ。農地は少なく、鉱山はなく、森林も豊かではない。しかし海がある。漁業、交易、造船。これらがケアノスの経済を支えており、国民の大部分が海と何らかの形で関わって生きている。

 首都と呼ぶべき場所は港町テュルスで、ここから複数の航路が延びている。乗船の前日、私は入出港する船を眺めながら港で情報を集め、その中で「黒い潮」に関する話をいくつか聞いた。主に市場と酒場で、しかも聞く相手によって内容が大きく違ったために、私は当時それをスライムだとは考えていなかった。


 老いた漁師は「あれは海神様だ。触れるな。呼ぶな。関わるな」と厳しく言った。若い水夫は「ただの黒い水の塊さ。船が乗り上げると怖いけど、転覆したなんて話は聞いたことねえしな」と肩を竦めた。酒場の主人は「お客さん、そんな話を聞いてどうすんだい」と面倒そうに言って厨房に引っ込んだ。

 港の組合事務所で紹介してもらった船長はテーナという中年の女性。背が高く、肩が男顔負けに広く、潮焼けした肌が眩しい。

「あんた船酔いは大丈夫かい」

「大丈夫とは言えません。おそらく迷惑をおかけします」

「は! いいね。正直な人間は扱いやすい」

 彼女の豪快さに、不安と信頼の両方を感じたのを覚えている。


 ***


 ⋄出港


 出港の朝は晴れていた。港を出るまでの待機時間は良かった。穏やかな水面が船の動きで揺らぐ様、ペラギオンのよく通る鳴き声、帆が風を受けてはためく音。これは悪くない、と私は思った。

 しかし外洋に出た瞬間、波の態度が明らかに変わった。

 内湾の波は規則的で小さいが、外洋の波は不規則で大きく、複数の方向から一斉に襲いくる。船がそれに合わせて傾き、戻り、また傾く。身体が一方向に傾こうとするのに、視界は水平を保とうとする。その矛盾がまず目の奥にきて、次に胸の中で不快感が膨らみ、最終的に胃から酸っぱいものがのぼってくるのだ。

 私はすぐに甲板の縁に張りついた。揺れる甲板を物ともせずテーナが歩いてきて、水の入った革袋を投げ寄越してくれた。その軽い衝撃ですら胃にきて礼を言えずにいる私に、彼女は「船酔いは恥じゃない。ただし落ちるんじゃないよ」と言って去った。それがケアノス流の慰めの言葉らしかった。


 ***


 ⋄三日目


 消化に良く吐きやすいものを食べては嘔吐しを繰り返す中で身体が少しずつ慣れてきた。慣れたというのはつまり、船酔いしなくなったのではなく、「苦しみに慣れた」ということである。波は相変わらずくるし、穏やかな間は魔物の襲撃で船が揺れる。胃は相変わらず私が陸にいないことを抗議しているが、それでも甲板に出て立っていられる程度には落ち着いてきた。


 水夫の一人が声をかけてきた。シメオンという名の、当時の私よりやや年下と思われる青年だった。

「よう、ちっとはマシになったかい」

「ええまあ、外に出られる程度には」

「じゃあ、あれを見てみな。あんた王都の学者さんなんだろ」

 彼はそう言って彼が船の左舷側を指差す。

 通常の海水は青の強い濃紺だが、左舷の少し先から水の色が違う区画が始まっていた。墨を薄めたような黒が強く出た色だ。明確な境界線があるわけではなく、通常の海水の色が徐々に変化し、ある地点から先はっきりと黒みを帯びている。その境界は波の動きとは別の揺らぎを見せた。

「あれが……港で聞いた、『黒い潮』ですか」

「そうさ。今日は近いな。いつもはもっと遠くを流れてるのに」

 どこまで繋がっているのかもよく分からない。見えている部分だけで、私が乗る船の十倍以上はある。見えない部分はもっと大きいかもしれない。


 ***


 ⋄黒い潮の観察


 私はその不定形にスライムと似たものを感じ、観察記録帳を取り出して書き始めた。腹の中で胃液がまだ暴れていたが、書くという行為が意識を別の場所に向けてくれたようだ。これは後に気づいたことだが、激しい好奇心は船酔いの特効薬ではないものの、症状を一時的に意識の外に押し出す効果がある。

 通称を黒い潮、暫定学名については後述するが、まず視覚的な観察から整理して述べる。

 体表は黒一色ではなく、正確には極めて濃い藍色と言うべきかもしれない。光の当たり方によって深みのある藍からほとんど黒に近い色まで変化する。表面は滑らかに見えた。波の動きが内側まで浸透していないような、水の中でもそれ独自の表面張力を持っているような印象だ。

 波の流れとは独立した動きが全体にある。ゆっくりと一定の方向性を持って移動しており、それは必ずしも波の方向と一致しない。時に縁の部分が伸びたり縮んだりした。これは後年聖都エルロイで見た聖なる群れの動きと構造的には似ているが、スケールが桁違いであった。

 陸地のスライムと違って個体境界が明確でない。通常のスライムには「ここまでが個体、ここからは別個体」という境界を引けるが、黒い潮にはそれが見当たらないのだ。海面に露出して見える全体が一つの大きな個体なのか、あるいは境界のない群体なのか、船からの観察では判断できなかった。


 気づけばテーナが後ろにきていた。

「あれは毎回同じ場所にいるんですか?」

「同じ場所ってのは陸地の感覚さ。あんたら風に言えば、同じ海域にはいるよ。でも形がいつも違う。大きくなったり小さくなったり、季節でも変わって見える。春は大きくて、冬は小さい」

「一年中いるんですね」

「少なくともあたしが船長になって以来、テュルスへの海路で見なかったことはない。二十年以上だ。先代も同じことを言ってたっけな」

 海に潜り、海中から観察できたらと強く思った。ずっと思っている。しかし海面の下は強力な魔物が跋扈する魔界であり、あの黒い潮の下部がどうなっているのか調査することは不可能だ。結論から言うなら黒い潮の正体は本書を執筆している今も謎である。


 ***


 ⋄船員は海神と崇める


 その日の夕食、船員たちと食卓を囲みながら黒い潮にまつわる話を聞いた。乗組員全員がそれぞれの見方を持っているようだ。最年長の航海士トーロスという六十代の男は、はっきりと「海神だ」と言った。

「海神というのは、ケアノスの宗教的な意味合いで?」

「宗教ではない、事実だ。海には神がいる。その一つがあれだ。嵐も凪も神の心次第。俺たちが海で生きていられるのは、あれが許しているからだ」

 ある年齢以上の者たちは黒い潮に対して海への信仰にも似た感情を抱くようで、年配の男たちはトーロスの言葉に深く頷いた。

「この航路を通う船を、あれは覚えてるんだ。初めて出くわした船には警戒する。認めた船には近づかない」

「覚えていると、どうやって確認するんですか?」

 長年の経験だとトーロスは言い、それ以上の説明はなかった。積年の経験からくる確信は往々にして言語化を拒む。今にして思い返せば「経験」とは微細な論理の積み重ねであると分かるが、当時の私は年寄りの迷信だと内心で受け流していた。


 若い水夫のシメオンは少し違う見方をしていた。

「海神ってのは昔の言い方さ。あれはでけえ生き物だ。そこらの魔物よりは賢いかもしれない。でも神ってことはない。俺らを認めてるってより、単に近づいたら危ないと分かってるから近づかないんだ」

「慣れた船にこそ近づきそうなものだと私は思ってしまいますが」

「それだ。俺は前の船で乗り上げたことがある。姐御と違ってここらに慣れてない船長だった。五年前くらいだったかな、夜間航行の時に気づかずにあいつの縁に入ったんだ」

「襲われたりは?」

「ねえな。ただ船底を何かが擦った感触があって、船が傾いた。でも転覆しなかったし、座礁もしなかった。船はゆっくり押し戻されたんだ。あれが押し戻したのか、波の力でそうなったのかは分かんねえ」

 引き取るようにトーロスが続けた。

「テュルスの古い記録にも複数『黒い潮』に船が乗り上げた記録が残っている。そして転覆した例はない。嵐で転覆した船はある。別の魔物に襲撃されて沈んだ船も。しかしあれのせいで沈んだ話は、聞いたことがない」


 ***


 ⋄押される


 深夜、それは起きた。

 私は船室で眠っていた。いや、眠れてはいなかったのだが、とにかく横になって目を閉じていた。身体が船の揺れに合わせて左右に傾くのを感じながら、意識の半分だけを眠りに委ねていた。すると身体ではなく船が傾いた。

 粘性のある何かに押されるような感覚だ。同時に船底から低い振動がきた。衝撃ではなく振動。

 甲板で声があがり、私は壁に手をつきながら慎重に甲板のほうへ向かう。外に出ると船員たちが左舷側に集まっていた。ランタンの光が水面をうっすらと照らし、船の周囲の海水が夜の闇よりも黒くなっているのが見えた。


 風がない。テーナが落ち着いた声で指示を出している。帆の角度を変えろ、舵を右に、ゆっくりだ。船員たちは指示に従い、誰も叫ばなかった。訓練された動きだと思いながら、私は縁に掴まって黒い潮を見ていた。

 船が逆方向にそっと戻り始めた。トーロスが私の隣にくる。

「乗り上げたんでしょうか?」

「いや、押されているだけだ。今夜はこっちに進んではいかんらしい」

 黒い水の縁が船底に沿って、波とは違う微細な動きを見せていた。


 テーナが船を確認し、船員に怪我がないことを確かめてから告げる。

「潮目がおかしい。航路を変えるよ。各自持ち場へ」

 これは後日テュルスに着いてから知ったことだが、一日後の距離で嵐が発生していたという。年配の乗組員たちは「海神の加護だ」と言い、シメオンたち若者は「嵐から逃げてきたのとぶつかったんだろ」と笑っていた。


 ***


 ⋄翌朝のテーナ


 乗組員の話は聞いた。船長はどう思っているのか、朝になってテーナに尋ねる。

「昨夜のあれは、意図的な動きでしょうか」

「さあね。ただ二十年で、似たようなことが三度あったよ。三度とも、乗り上げはせずに押し戻された。転覆しない程度にね。それが事実だ。なぜそうなるかは、あたしには分からない」

「単純な物理現象……海流や波の作用で説明できますか」

「できるかもしれないが、あたしは学者じゃない。海の民は経験を説明するもんじゃない」

「トーロスさんは『海神が許している』と言っていました。テーナさんはどう思いますか」

「ああ、トーロスは長年この海を渡ってきた。その経験から出てくる言葉を、あたしは否定しない。『海神』って言葉が何を意味するかは人それぞれだ。あたしは『海神』という語を使わないが、あれが単なる物体だとも思っていないし、シメオンたちが言うのもあいつらにとっての事実さ」

「では何だと思いますか」

「質問が多いねえ、学者さんは。強いて言うなら、古いものだ。この海より古いかもしれないし、そうでないかもしれない。何にせよ、この海に長くいるものだ。あたしらより長くね」


 ***


 ⋄個体境界の問題


 観察に使える時間と精神的余裕が増し、より詳細な記録が取れるようになった。

 黒い潮の最大の特徴は個体境界の不存在だ。前述したように、通常のスライムはどんなに大きくても、あるいは分散していても、何らかの形で「ここまでがこの個体」という境界を持つ。生命核の存在がその境界を規定することが多く、核を失えば個体としての同一性が失われる。

 しかし黒い潮には明確な境界がない。縁はあるが、それは海水との接触面であり、個体の限界を示すものではなく、内部がどこまで続いているかは船上からでは確認できない。深さについても根拠のないまま想像するしかない。縁の形は常に変化しており、一部が伸びて一部が縮む。分裂しているのか、移動しているのか、単に変形しているのかの区別もつきにくい。


 シメオンが観察中の私に近づいてきて記録帳を覗き込んだ。

「あれが一匹なのか、それとも全部別々なのかってのは、おっさん連中もよく議論してるよ。酒の肴に」

「えーと、トーロスさんたちのことですか」

「そ。俺より上の世代の船乗り。俺はよく分かんねえけど。一匹でも全部別々でも、どっちでも同じじゃないか?」

「一個体か複数個体かは大きな問題だと思います」

「ふぅん。でもさ、一匹だとしたら、すごく大きい一匹だ。全部別々だとしたら、すごく密集した群れだ。どっちにしても、あれはあれだろ」

 私はこの哲学的なのか無思慮なのか曖昧な問いについてしばらく考えた。

「群体の場合、個体の境界が失われる程度に密集していれば、一個体と群体の区別は実用上意味がなくなる、ということでしょうか」

「難しく言いすぎてよく分かんねえや」

 シメオンは笑いながら持ち場に戻っていった。


 彼の言葉はある意味で本質を突いていた。一個体か群体かという分類は観察者にとっての問題であり、対象にとっては無意味だ。黒い潮は、ただあるがままにそこにある。


 ***


 ⋄海と生命の境界


 夜、私は甲板で長い時間を過ごすようになっていた。船室にこもっているよりも風に当たっているほうが幾分か気分が良い。夜の外洋の空気を吸いながらであれば穏やかに立っていられた。

 月光が海面に反射し、波の動きが光の揺らぎとして視覚化される。そして黒い潮の縁が月光の中で微妙に異なる光り方をしていた。海水が光を煌びやかに反射するのに対し、黒い潮の表面は光をほんのり吸収しているような、内側に光を沈めるような見え方だった。


 夜間用の双眼鏡を手で弄りながらトーロスが囁く。

「あんたは海神に何を感じるんだ。学者は目に見えるものしか信じないと聞くが」

「目に見えないものを感じることも、信じることもあります。ただそれを何と呼ぶか、学者は慎重になりますね」

 黒い潮に何を感じるか。まずは大きさを感じた。あれがどこまで続いているかを考えると、理解が追いつかないほどの壮大さがある。それから、テーナの言葉を借りれば古さを感じる。あれがどのくらい前からここにいるのかを考えると、時間の感覚が崩れる。

「……一番は、無関心、かもしれない。あれが私たちに特別な関心を持っているようには見えませんでした。私たちが海を横断することも、嵐がくることも、魚が泳ぐことも、同じ重みで受け取っているような」

「神というのはそういうものだろう。人間より大きく、古く、無関心だ。しかしそこにいる。もしくは、そこに在る」

 神学者が聞けば異議を唱えるかもしれない定義だが、海洋で生きる者の経験からくる言葉として、私にはとても誠実に聞こえた。


 ***


 ⋄甲板の小型スライム


 出港から一週間、甲板に小さな何かが蠢いていることに気づいた。船首近くの縁の内側、水が時々飛沫として飛んでくる場所に、小さな粘体が張りついていた。拳大で色は半透明、やや薄い青は空の色を反射しているようだ。こちらは黒い潮とは違ってはっきりと個体を認識できる、ごく標準的なスライムであった。

 甲板を掃除していたシメオンが私に気づく。

「なんだ、スライム見たことないのか?」

「いえ、それどころかスライムを専門に研究しているのですが。今日まで姿を見なかったように思います」

「ビルジに隠れてたんだろ。黒い潮が出ると甲板に上がってくるんだ」

「黒い潮に反応するんですか」

「たぶん。仲間なんじゃない?」

 そう言って彼は無関心に掃除を続け、時折モップに絡んでくる別の個体を蹴っ飛ばして退けていた。


 甲板の小型個体は平地に多数生息するスライムに近似している。甲板の表面を這い、木材の隙間や飛沫の湿気のある場所に集まる。複数個体が接触するとしばらく合体したような状態になり、また分離する。分離後に両方の個体が独立して活動を続けるため、融合ではなく一時的な接触だと判断できる。

 興味深いのは、接触してから分離するまで色が黒くなることであった。黒い潮と同じ風味の色だ。これは黒い潮の一部なのか、それとも黒い潮に惹かれるだけの別種なのか。

 もし前者なら、黒い潮は分裂によって小型個体を生成する能力を持つことになり、その逆――これら小型個体が集合して大型個体を形成する――も理論上は可能ということになる。これは「個体境界がない」という特徴の別の面かもしれない。大きくなることも小さくなることも、本質的な変化ではなく状態の一時的な変化だ。


 ***


 ⋄接近


 海図の中で最もテュルス寄りの黒い潮出没海域を通る時、私は甲板で待ち構えていた。船一隻分ほどの距離を並走する形で、黒い潮が右舷側に広がっている。

 テーナが舵を握りながら、右舷側をちらりと見た。

「今日は近いねえ」

「警告でしょうか」

「いや、問題ない。これくらいなら通れる」

 私は右舷の縁に立って、できる限り身を乗り出して観察した。トーロスに予備の双眼鏡を借りて覗くと、黒い潮の表面の構造がより詳細に分かる。

 完全に均一な黒ではない。部分によって濃淡がある。濃い部分は動きが活発で、薄い部分は動きが緩やかだ。これは密度の差だろうか。あるいは機能の差か。最も濃い部分が「中心」に当たるとすれば、薄い部分が「縁」であり、個体の辺縁部ということになる。


 しかし中心という概念が適用できるかどうか自体が未だ疑問だ。中心を持つということは、中心から遠い場所と近い場所があるということで、それは空間的な階層を意味する。しかし黒い潮の規模では、中心は複数あるかもしれないし、移動するかもしれない。


 双眼鏡から視線を外すと、広大な海原が眼前にある。ふと途方もないことを考えた。

 個体境界がないとは、始まりと終わりがないということかもしれない。海そのものが一つの大きな生命だとすれば。あるいは、そう見えるほど古く大きく深いものが、ここに在る。


 ***


 ⋄入港の朝


 二週間で遠くにテュルスの港が見えてきた。ずいぶん慣れたとはいえ、さすがに陸が恋しくて堪らなかった。緑が見える。大地に接した建物が見える。十四日ぶりの陸の匂いが香る気がした。土と煙と、それから人の生活の匂いだ。

 甲板の小型スライムたちはいつの間にか姿が見えなくなっており、シメオンに尋ねると「船底に戻ったんだろ」とあしらわれた。


 入港し、橋がかけられると、テーナが私の肩を叩いた。

「どうだった、海の旅は」

「揺れましたね……思ったよりは、酔いませんでした」

「あれで? どんな想像をしてたんだい」

 豪快に笑いながら、彼女は「海に慣れちまったからには、しばらく陸でも揺れるだろうさ」と不吉なことを言う。そして痛いほど強く背中を叩いて私を港に押し出した。それが彼女の、あるいは船乗りの送り方であるらしい。


 私は陸に降り、固い地面の感触を確認する。振り向いた海は静かに凪いで、空と海面の青は思いのほか明瞭に分かれている。黒い潮はこの港からは見えない。もっと外洋にいるのだ。


 ***


 ⋄後記


 学者の性分として、黒い潮についての学術的な記述を試みたいと思う。しかし冒頭に告白した通り、私の観察環境は決して理想的なものではなかった。船酔い、夜間視察の限界、距離の制約、海の危険性。これらを正直に断った上で記す。

 黒い潮、暫定的にAbyssotheca pelagica(外洋無境界群体)と称する。明確な個体境界を持たない点で既知のスライム分類との一致が難しく、新たな分類体系の構築が必要かもしれず、あるいは「スライムである」とは認められない可能性も高い。

 規模は観察された範囲で少なくとも数平方キロメートルに及ぶ可能性があり、内部深度は不明。表面活性と移動が確認され、季節変動もある。

 船舶への危険度は低い。乗り上げた場合に転覆を招いたという記録は書面でも口伝でも存在しない。押し戻しの現象が意図的な行為か物理的な偶然かは現時点では判断できないが、船に損害をもたらすことはなかった。


 個体境界の不存在については二つの解釈が可能だ。一つは極めて大きな単一個体であり、生命核が広域に分散している。もう一つは、個体としての分化を行わない原始的な群体であり、分化の代わりに連続性を維持する。どちらが正確かを確認する手段を私は持っていない。

 なお船底のビルジに棲みつく小型個体については船員も詳細を認識しておらず、不明点が多い。陸棲の亜種が船に入り込んだ可能性もあれば、黒い潮からの飛沫が独立した活性を持つ微細個体として機能している可能性まであり、今後の研究が必要だろう。


 ***


最終章への案内

私の旅は二四三年、大学卒業と共に始まり、二六三年現在も続いている。しかし本書としてはひとまず旅を終え、王都に帰った日常を最後に記述する。帰路の雑感、そして「スライムとは何か」という疑問への、答えともつかない考察である。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。