幕間 灰空の便り
夕映王国の治安維持を担う組織、夕輝士団。
その本拠地である夕映王城・天守閣の真上には、今にも雨を降らせそうな、重く厚い雲が垂れ込めていた。
玄関ホールの壁際に設けられた、巨大な掲示板。
一際目を引くのは、国家を揺るがす特級危険人物――通称“伍刃”の手配書だ。
そして、その隣には“要監視対象”の一覧が、ひっそりと貼り出されている。
『赤銅ノ鬼:桜岳孤児院・桜木憐可』
“鬼人”の項目に記された名前。
そこには既に、冷たい朱色の検印が押されていた。
◇
朱子隊隊長・赤司康志は、デスクの上に置かれた一枚の報告書へ、静かに目を通していた。
朱子隊の平隊士、大鳥陽南に先日下された、結火山に点在する村々の視察。
それは、総団長・日向から直々に与えられた任務だったが――。
(……日向総団長の思惑通り、というわけですね)
康志は複雑な心境で、小さく息を吐いた。
陽南の母である大鳥瑞希は、かつて自分の上司だった。
隊長としても、知人の娘を案じる者としても、胸が痛む。
「失礼しまーす!」
元気な声とともに、ドアが開く。
ノックもそこそこに入ってきたのは、陽南の同期であり、友人でもある稲隈真保。
要領が良く、若くして部隊長への昇進が決まったばかりの、優秀な雷術士だ。
「赤司隊長、おはようございます! 特に用は無いんですけど、隊長に会いたくて来ちゃいました!」
「おはようございます、稲隈さん。君はいつも元気ですね」
「それはもう、隊長の顔を見たら元気を通り越してメロメロですよ!」
隠そうともしない熱視線に、康志は苦笑を返す。
「……あれ? その報告書って、ひぃちゃんですか?」
ひょいと真保が手元を覗き込んでくる。
報告書の文字を目にするなり、ぱっと笑みを深めた。
「へぇー! 半覚醒した鬼人“赤銅ノ鬼”の討伐!? しかも珍しく、街の器物破損はゼロ! すごいじゃないですか、ひぃちゃん!」
「……そうですね」
「良かったですね、隊長。奥さんの仇を討ってもらえて!」
「…………」
真保は感心したように、報告書を読み進めている。
康志は無言で立ち上がり、窓から灰色の空を仰いだ。
いくら妖鬼の血を引くとはいえ、まだ十二歳の少女が、わざわざ要監視対象として危険視されていた理由。
それは、建国神話にも記された、妖神の力が最も増すと伝えられる朔月――新月の夜に。
かつて鬼人の少女・桜木憐可が理性を失い、人を襲ったことがあったからだ。
(もう、七年も経つんですね……)
当時、暴走した鬼人の少女を止めるため、現場へ赴いていた医務官が一人、殉職した。
――康志の亡き妻、赤司唯。
「……稲隈さん。そういう言い方をしてはいけませんよ。仕事と私事は別物です」
静かに口を開いた康志の顔には、すでにいつも通りの穏やかな微笑が戻っていた。
「それに、仇などとは思っていませんよ。あれは妻の不注意であり、向こうも理性を失った無意識下での自己防衛――つまり、ただの事故ですからね」
何より、あの幼い少女は、事件当時の凄惨な出来事を何一つ覚えていなかった。
だからこそ夕輝士団は、少女を罪に問うのではなく、定期的な監視という処置を取っていたのだ。
「ま、この話はここまでにしましょう」
いつも通り、柔らかな言葉遣いで。
だが、有無を言わせない空気を滲ませる。
「はーい。変なこと言ってごめんなさーい」
その意図は伝わったようで、真保が首をすくめた。
「なんか今日はお疲れみたいですし、また来ますね。今度は美味しい紅茶も用意しまーす!」
「ありがとうございます。楽しみにしていますね」
軽やかな足取りで退室していく部下を見送り、康志は小さく息を吐き出した。
(稲隈さんのように、目的のために情を割り切れるしたたかさも、この組織には必要なのですが……)
世の中は、時に理不尽だ。
陽南のように真っ直ぐすぎる者よりも、真保のように少しひねくれ、要領よく立ち回れる者の方が、得をして出世するようにできている。
熱血で直情的な陽南のことだ。
幼い鬼人の少女に自ら手を下したことで、どれほど心を痛めているだろうか。
(私も少々、親気取りが過ぎるのかもしれませんね……)
妻を亡くし、息子も生まれてすぐに病死してしまった。
もし我が子が生きていれば、ちょうど陽南や三明と同じ年頃だった。
そのせいか、どうにも他人事とは思えないのだ。
(“隊長”ではなく、あくまで“友人”として──)
康志は小さく微笑み、デスクの引き出しを開けた。
便箋と万年筆を取り出すと、ペン先にインクを浸す。
今頃、元総団長でありながら下手を打ち、指名手配されてしまった男――三明の父・レオナルドとともに東燿地方へ出かけている瑞希へ向けて、静かに手紙を書き始めた。
『瑞希さん――貴方の娘さんは、今日も真っ直ぐに、己の正義を貫いていますよ』
静まり返った隊長室で。
カリカリとペン先が紙を滑る音だけが、優しく響いていた。




