⑨ 鬼の哭く夜*
リィン……リィーン……。
「ん……」
微かに聞こえる、澄んだ音色。
しかし覚醒には至らず、陽南は寝返りを打った。
「──ミッちゃん」
柔らかな、甘い声が響く。
「大好き、だよ」
瞬間──耳をつんざく雷鳴が、すぐそばで轟いた。
弾かれるように目を開け、陽南が目の当たりにしたのは。
もがく三明の首筋に牙を突き立てる、“人喰い鬼”の姿だった。
「──三明っ!」
咄嗟に枕元の双刀を掴み、鞘ごと叩き付ける。
相手が怯んだ一瞬に、ぐったりとした身体を引き寄せた。
「三明っ、返事して!」
「ぁ……ねご……」
掠れた声。
とりあえず、意識はあるようだ。
手探りでランプを灯すと、照らし出された姿に陽南は息を呑んだ。
「憐可……ちゃん?」
ゆっくりと起き上がった彼女に、愛らしい少女の面影はない。
瞳は真紅に輝き、犬歯の発達した口元は赤く染まっている。
「邪魔しないでよ、ヒナお姉ちゃん?」
鋭い鉤爪に付いた血を舐めながら、憐可は残忍な笑みを浮かべた。
「憐可ちゃん、目を覚まして!」
「私は、ちゃんと起きてるよ?」
「……憐チャン」
上体を起こす三明を支えた手が、ぬるりと滑る。
陽南は急いで手拭いを取り出し、赤黒く染まった右肩をぎゅっと押さえ付けた。
「ホントはおれを喰うの、イヤなんだろ。だから、鈴が欲しいって……」
「うん。でもね──」
憐可の首元で、赤銅色の鈴が揺れた。
澄んだ音色が、今はただ不気味に響く。
「やっぱり、食べたいの。食べれば、あなたは永遠に私のものになる」
鮮血のように赤い双眸が、狂気を帯びて光った。
「《ヒナお姉ちゃんに取られちゃうことも、ないんだから!》」
ビリビリと辺りを震わせる、鬼の咆哮。
思わず怯んだ隙に、憐可が迫り来る。
(っ、駄目──!)
再び雷鳴が轟いた。
少女の目が眩んだ、その瞬間。
「三明、逃げるのよ!」
三明の光術で、閃光には慣れている。
咄嗟に視線を逸らし、枕元の愛刀を掴み取った。
「あぁ……っ」
普段の俊敏さには及ばないものの、三明はふらつきながらも部屋を飛び出していく。
その背中を見送ると、陽南は双刀を抜き、朱く燃える刃を構えた。
「私の獲物、逃がさないっ!」
「そうは、させないわ!」
迫り来る鉤爪をどうにか受け止める。
だが、力は互角。
押し返すには至らない。
「憐可ちゃん、落ち着いて! 今ならまだ間に合うわ!」
「ふふ……もう、手遅れだよ」
先程までの残忍さは消え、自嘲と悲哀を含んだ笑みが浮かぶ。
「そんな──うっ!?」
一瞬の隙を突かれ、陽南は壁へと弾き飛ばされた。
急いで起き上がり身構えるが、既に彼女の姿はない。
「っ、憐可ちゃん!」
陽南も慌てて部屋を飛び出し、その後を追った。
◇
廊下を疾走した先に、二の腕に切り傷を負った将大がいた。
座り込んだ三明を庇うように立ち、割れた窓を茫然と眺めている。
「っ、将大君! 憐可ちゃんは!?」
「……外、出てった」
振り返った将大の顔は青ざめ、今にも泣き出しそうだった。
「ヒナねーちゃん。憐可がミッちゃんを噛んだって──本当か?」
「……うん」
将大の唇が、かすかに震える。
「“桜血鬼”の牙には、毒があって……その毒で獲物を殺してから、食べるんだ」
(毒……!?)
足元が崩れていくような衝撃。
「そんな……じゃあ、三明は──!?」
「分かんない、けど……オイラと先生で、なんとかしてみる。だから」
将大は歯を食いしばり、真っ直ぐに陽南を見上げた。
「レンカを、止めてくれ……!」
一瞬、言葉に詰まる。
真紅に光る双眸。
鋭く発達した牙と爪。
妖鬼“桜血鬼”として覚醒しつつある少女を、夕輝士団として追うことの意味。
頭では分かっていても、心が認めたくないと拒んでいる。
「……三明」
──でも。
「死ぬんじゃ、ないわよ」
意を決して呟き、陽南は踵を返した。
「……あぁ」
耳に届く、微かな声。
陽南は唇を噛み締めると、脇目も振らず廊下を駆け出した。
◇
傘を差すのももどかしく、土砂降りの雨の中をひたすら走った。
「憐可ちゃんっ! いたら返事して!」
叫んでも、雷鳴にかき消される。
「どこにいるの、憐可ちゃんっ!」
ふと、叩き付ける雨音の合間から、何かが聞こえた気がした。
考えるより早く、身体が動く。
孤児院の裏手。
野菜や香草が植えられた、小さな畑の端。
「憐可ちゃんっ!」
「……ヒナ、お姉ちゃん」
大木の下に、口元を赤く染めた憐可がいた。
その傍らには、陽南たちが先日戦った妖鬼──仔売鬼の死骸が転がっている。
「マサ君から、聞いたでしょ?」
「えぇ……三明が、死ぬかもって」
「“死ぬ”んだよ。呪毒だから、薬は効かないの」
静かな声だった。
その言葉が、雨音よりも重く胸に沈んでいく。
(……そんな)
それでも陽南は、三明への思いを頭の隅へ押しやった。
今は、目の前の少女を見なければ。
「今は……あいつのことは、どうでもいいのよ」
素直じゃないのは、百も承知だ。
「あなたはもう、元の憐可ちゃんには戻れないの?」
「そうだよ。愛する人を食べたら最後──真の“人喰い鬼”になるの」
激しい雨が、木の葉を叩く。
その音を聞きながら、陽南は黙って憐可を見つめた。
人として生活が出来なくなる以上、残された選択肢は二つ。
一つは、人里離れた山奥でひっそりと暮らすこと。
そして、もう一つは――。
「ヒナお姉ちゃん」
憐可が、静かに顔を上げた。
「前に、もしもの時は私を止めてくれるって言ったよね」
「……うん」
次に何を言われるのか、陽南には分かっていた。
分かってしまうからこそ、胸が締め付けられる。
「じゃあ……私を、殺して下さい」
「っ……」
雨と血に濡れた頬を、雫がとめどなく伝っていく。
「ごめんなさい……自分で死ぬのは、怖いの。私は弱いから、死にたくないって思っちゃう。でもこのままじゃ、私──」
「…………」
過ちは、正せる。
しかしそれは、人としての理性があってこそいえることだ。
「だから、お願い。ヒナお姉ちゃん」
「…………」
夕映王国の治安維持組織、夕輝士団の一員として。
そして、彼女と約束を交わした友として。
──今、ここで選ぶべき道は。
「……救ってあげられなくて、ごめんなさい」
陽南は、震える手で双刀を構えた。
炎を纏った一対の刃が、暗闇の中で赤々と燃え上がる。
「ううん」
憐可は、穏やかに微笑む。
「私、ずっと孤児院に閉じ篭もってたから……ヒナお姉ちゃんやミッちゃんと過ごした数日間が、今までで一番楽しかった」
「…………」
「どうも、ありがとう。……ごめんなさい」
風を切る音と共に、紅い飛沫が飛び散った。
小さな花が綻ぶように、可憐な笑顔。
「……私と、ミッちゃんの分まで……幸せ、に……」
少女は首元の鈴を掴み、長い鉤爪で紐を引き千切る。
「っ──!」
紐を差し出す憐可の手が、力を失う。
だらりと下がった指先から、鈴が転がり落ちた。
リィン、と。
透き通るような音色が、雨の中に溶けていく。
「どうして……どうしてっ……!!」
陽南はその場にしゃがみこみ、両手で鈴を握り締めた。
降り続く雨の中。
答える声は、どこにもなかった。




