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第6話 魔女の事を少しは理解しました

 苦痛はありませんでした。

 あるのは、深い悲しみと虚しさ。そして自分と世界を憎む感情でした。


 教会裏にひっそりと建つ、私が借りている古い小屋の扉。その軋む扉を内側から閉め、サビついた鍵を下ろした瞬間のことです。

 全身の神経を張り詰めていた社畜アドレナリンの糸が、プツン、と音を立てて切れました。


 彼女から身代わりとして引き受けてきた呪いや怪我のダメージが、リボ払いとなって押し寄せてくると覚悟し、私はあらかじめ丸めたタオルを口に咥えて床にうずくまっていました。

 しかし、五分経っても、十分経っても、骨が砕けるような激痛も、肉が焼けるような熱も、一向に訪れません。


 代わりにやってきたのは、泥のように冷たくて重い、どす黒い奔流でした。

 胃の底から、冷たい何かが食道を逆流してきます。

 息が、吸えません。

 肺の粘膜が凍りついたようにひきつり、心臓が握り潰されるような圧迫感。


 私の両目から、私自身の意志とは全く無関係に、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ち始めました。

 ささくれ立ったフローリングに爪を立ててしまいます。

 息ができない。痛くない。これなら痛い方がずっとマシでした。

 これが、あの子の抱えていたもの?……考えちゃ駄目、頭がおかしくなりそうです。


(痛みがなかった理由……アビゲイルさんは、肉体的な苦痛すら感じないほど、心が……)


 その事実に気付いた瞬間、視界がぐにゃりとねじれました。

 木目の床が溶け落ち、かすかに灯っていたランタンの光が濁っていきます。

 平衡感覚が失われ、深い水底へと引きずり込まれるような浮遊感の後。

 気がつけば、私は見知らぬ部屋に立っていました。


 ……いいえ、立っているのは私ではなく、身代わりのスキルが幻視として見せてくる彼女の記憶でした。


 かつては豪奢《ごうしゃ》だったであろう洋館の一室。

 精巧な意匠の施された壁紙は剥がれ落ち、豪快にひしゃげたシャンデリアの残骸が、どす黒く変色した床に転がっています。

 濃い鉄の匂いが、閉鎖された空間の空気を重く沈ませていました。

 呼吸をするたびに、血と、焦げた肉の生臭さが肺を満たし、思わずえずきそうになります。


 そこには、足の踏み場もないほどに、無数の死体が転がっていました。


 異様な光景でした。

 うつ伏せに倒れ伏す者、仰向けのまま虚空を見つめている者、半身が消し飛んでいる者。

 彼らが身にまとっている装備は様々でした。ある者は粗末な革の鎧を、ある者は見事な細工の施された銀の甲冑を、ある者は強力な魔法陣が刻まれたローブを纏っています。

 しかし、その顔立ちは不自然なノイズが入っていますが、

 どれも不気味なほどに、完全に同一人物だったのです。


 昨日も殺した。今日も殺した。明日もまた殺す。

 何百回、何千回と繰り返されただけの、果てのない単純作業。

 死にも、命にも、もはや何の価値もない。

 他者の存在に対する、圧倒的なまでの無関心。

 ただ息をしているだけの透明な虚無が、彼女の芯にこびりついていました。


 そんな色のない世界の中で。

 ふと、視界の端に色彩が飛び込んできました。

 血の海と泥だらけの洋館の中に入ってきた女の子です。

 近づいていくと、それは私と同じ年齢のような、みすぼらしい衣服を着た女の子でした。

 周囲の均一化された死体とは違う、亜麻色の柔らかそうな髪の毛。

 泥にまみれた頬。

 彼女は、洋館のすぐそばに咲いていた、数少ない名もなき白い花を器用に指先で編み込んでいました。


『……あ、おねえちゃん』


 アビゲイルさんが近づくと、女の子は顔を上げました。

 その瞳には、アビゲイルさんに対する恐怖が微塵もありませんでした。

 世界中が歩く自然災害として彼女を恐れ、視界に入ることすら避けるというのに。その子だけは、ぽかぽかとした陽だまりのような微笑みを浮かべていたのです。


『みてみて。おねえちゃんに、にあうとおもって、つくったの』


 差し出されたのは、不格好な花冠でした。

 白い花びらには赤い血の飛沫がぽつぽつと飛んでいましたが、女の子の小さな両手は、それを宝物のように掲げていました。

 アビゲイルさんの胸の奥で何かが鳴りました。

 ピクリとも動かなかった感情の針が、ほんの少しだけ揺れたのです。

 彼女はゆっくりと膝をつき、その小さな手から花冠を受け取ろうと、白い指先を伸ばしました。


 そして、花びらの柔らかさや女の子の体温を感じた直後……


 パンッ。


 乾いた、とても小さな音がしました。

 熟れすぎた果実が弾けるような、ひどくあっけない音。

 私の視界が、べったりとした赤に染まりました。

 女の子の首から上が、消失していました。

 花冠を持っていた小さな手はそのままの姿勢で硬直し、どさりと泥の上に崩れ落ちました。


 生ぬるい液体が、アビゲイルさんの頬を伝います。

 白い花冠は血の海に落ち、あっという間に赤黒く染まっていきました。

 理解が、追いつきません。

 瞬きを一つする間に、目の前の温かい命が、ただの肉塊に変わったのです。


『いやぁ、傑作だよねぇ。まさか本当に、あんな小娘の玩具に気を取られるなんてさ。』


 鼓膜にねっとりと絡みつくような、ひどく酷薄な笑い声が背後から響きました。

 ゆっくりと振り返るアビゲイルさんの視界に映ったのは、真新しいミスリルの鎧を着た一人の青年でした。


 その顔には、まるですりガラス越しに見ているような不自然なノイズがかかり、輪郭がひどくぼやけていました。

 けれど、そのモザイクの奥に浮かぶ無機質な骨格や特徴のないパーツの配置は、今まさに足元に転がっている無数の死体たちと、気味が悪いほどよく似ているように見えました。


『いやぁ、驚いた。何千回試しても絶対に入れなかった君の精神障壁に、こんな小娘の玩具一つで隙間ができるなんてね。』

『これでやっと、長かったゲームもクリアだ。君の規格外の魔力は、俺が有効活用してあげるからさ』


 青年が指を鳴らすと、女の子の死体の首元から、黒い泥のようなものが這い出し、アビゲイルさんの首元に絡みつきました。

 それが、呪いの発動でした。

 精神を縛り、意識を深海へと引きずり込む高位の束縛術式。

 彼は、物理的に彼女を殺すことを諦め、精神を破壊して魔力だけを搾取する手段に出たのです。


『さようなら。アビゲイル・モディカ……。』


 青年の声とともに、アビゲイルさんの視界から急速に色が奪われていきます。

 赤黒い血も、鉛色の空も、すべてが濃淡のないモノクロームへと変貌していく。

 その中で、最後まで鮮明だったのは、泥の中に転がる赤く染まった花冠だけでした。


 何で。

 どうして。

 私、何か悪いことをした?

 これまで世界のために尽くしてきたつもりだったのに…。


 ……ああ、そっか。こんな世界なんて……


 胸を内側から掻き毟るような悲哀。

 すべてを無に帰してしまいたいという、煮えたぎるような憎悪。

 そして、それすらも塗り潰していく、圧倒的な虚無。

 意識が完全に闇に飲まれる直前、アビゲイルさんの心は、静かに、そして完全に壊れました。



 ***



「……っ、かはっ……!」


 肺に無理やり空気を吸い込み、私は跳ね起きるようにして床に手をつきました。

 自分の頬を触る。生温かい血の感触はない。首もある。冷や汗でぐしょ濡れになっているだけです。


 胃液が込み上げ、私は床に突っ伏して何度かえずいてしまいました。

 脳裏に、弾け飛んだ少女の頭と、赤く染まった花冠がこびりついて離れません……。

 アビゲイルさんは、あの地獄を一人で。


 ……やめましょう。


 それ以上思考を進めれば、私の精神まであの泥の中に引きずり込まれそうです。

 私はガタガタと震える両手で自分の頬を思い切り張り飛ばしました。


 朝一番でギルドに行かないとですね。

 彼女が不安になってパニックを起こす前に迎えに行かないとですから。


「……日々の疲れは、良質な睡眠で、リセット、です……」


 きしむベッドに這い上がり、毛布を頭まで被ります。

 目を閉じれば、今にもあの血の匂いが蘇ってきそうで怖いですが、それでも私は 眠らなければなりません。


 窓の外では、夜風が教会の尖塔を不気味に鳴らす音が、ひどく冷たく響いていました。




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