第7話 平和な日常
氷のように冷たい水が、頭上から背中へと伝い落ちていきます。
肌が粟立つ感覚に奥歯を噛み締めながら、私はシャワーの蛇口をひねりました。
水滴がタイルを叩く音だけが、狭い浴室に反響しています。
昨夜、身代わりの幻視で見た血の海と、弾け飛んだ少女の頭部の映像が、まぶたの裏にこびりついて離れませんでした。
息を吸い込むと、配管から漂う錆の匂いが、あの生臭い血の匂いと重なって吐き気を催します。
私は濡れた両手で、自分の両頬をパンッと強く叩きました。
水音に混じって、小気味良い音が響きます。
(大丈夫です。私のメンタルは、三日連続の徹夜と理不尽なクレーム対応で鍛え抜かれていますから)
震える唇を無理やり引き上げ、鏡の中の自分に向かって業務用の笑顔を作ります。
ここは職場ではありませんが、労働者の朝は自己管理から始まります。
修道服に袖を通し、布地のシワを丁寧に伸ばしていくうちに、胸の奥で燻っていた重い泥のような感覚が、薄い膜で覆われていくのがわかりました。
社畜アドレナリン。これさえあれば、どれほど精神がすり減っていようと、今日という一日を業務として乗り切ることができます。
教会の礼拝堂は、まだ夜明け前の青暗い空気に満ちていました。
石畳に膝をつき、祭壇に向かって両手を組みます。
神様への祈りは、この世界での私の大切な日課です。
どうか今日も、痛みが少なく、つつがなく業務を遂行できますように。
そして、私が出会った不器用で傷ついた人たちが、少しでも安らぎを得られますように。
石畳を蹴る靴音を響かせ、早足で向かった先は冒険者ギルドです。
まだ人通りの少ない裏路地を抜け、分厚い扉を押し開けました。
ギルドの中は、昨晩の酒と煙草の匂いが微かに沈殿していますが、今はまだコーヒー豆を挽いた匂いが充満しています。
カウンターの奥で、カンテラの灯りを頼りに羊皮紙の束を整理していた受付のアンナさんが、ギィという扉の音に顔を上げました。
「おはようございます、アンナさん。昨日は無理を言って申し訳ありませんでした」
私が深く頭を下げると、アンナさんはペンを置き、カウンター越しに身を乗り出してきました。
茶色のミディアムボブの髪が揺れ、彼女の瞳が私の顔から足元まで、何か怪我でもしていないかと値踏みするように素早く動きます。
「マリーちゃん、おはよう。……早くに迎えにきてくれてありがとうね」
アンナさんの声は表向きは朗らかですが、カウンターの下に隠れた右手が、チャキ、チャキと金属質の何かを無意識に弾くような音を立てているのが聞こえました。
「お手数おかけして申し訳ありません。あの子は事情があって行く当てがなかったので……」
「はぁ……まぁおとなしく部屋で過ごしてくれてたみたいだし?私たちに直接の被害はなかったわ」
アンナさんは声をひそめ、2階の宿泊部屋を親指で指し示しました。
「あの子、きっと一睡もしてないわよ。何度か様子見に行ったけど……。正直、マリーちゃんが来るのがあと三十分遅かったら、何するかわからない雰囲気あったけどね……。」
それを聞いて、私は胸が締め付けられる思いでした。
見知らぬ場所で、一人ぼっちで朝を迎えさせるなんて。
アビゲイルさんの過去を少し知った今となっては、どれほどのストレスだったことでしょう。
アンナさんが金属を弾く音が一瞬だけピタリと止まり、彼女の瞳の奥に、どろりとした暗い色が滲みました。
「……マリーちゃん。私はね、もう二度と、大切な子が理不尽な暴力に巻き込まれるのを見たくないの。だから、あの得体の知れない魔女が少しでもマリーちゃんに害をなすようなら、私が……」
「大丈夫です、アンナさん!」
(あの人は、そんな人ではないでしょうから……)
私は慌てて両手を振りました。アンナさんは本当に面倒見が良く、私のことを実の妹のように心配してくれます。
ですが、アビゲイルさんは少しコミュニケーションが苦手なだけで、根はとても寂しがり屋のいい子なのです。
「ご心配おかけしてすみません。すぐにお迎えに行ってきますね」
私が頭を下げて2階の宿泊部屋へ向かうと、背後から「気を付けてね」という少し重たい声が追いかけてきました。
コンコン、と個室の扉をノックしようと手を上げた瞬間。
内側から勢いよく扉が開かれました。
「マリー」
名前を呼ばれると同時に、私の視界が黒い髪で覆い尽くされました。
首元に冷たい額が押し付けられ、細い腕が私の背中に回り、呼吸が詰まるほどの強い力で抱きしめられます。
鼻先に静かで冷たい香りが漂いました。
「アビゲイルさん、おはようございます。……お待たせしてごめんなさい」
彼女の顔を覗き込むと、常に開ききっている真っ黒な瞳の周りに、うっすらと隈ができていました。
アンナさんの言う通り、本当に一睡もできなかったようです。慣れない環境でずっと緊張していたのでしょう。
「……ん。おとなしく、待ってたよ」
「ええ、偉いですね。すごく頑張りましたね」
私は少し背伸びをして、彼女の長い黒髪をゆっくりと撫でました。
アビゲイルさんの身体から発散されていた、黒い靄のような空気が、私の手のひらが触れるたびに、すうっと霧散していくのがわかります。
彼女は私の修道服の襟元に顔を埋め、深く、長く息を吸い込みました。まるで私の匂いを肺の底まで刻み込もうとするような呼吸でした。
「さて、アビゲイルさん。今日はこれから、私が働く救護院に行きます」
「……救護院。マリーの、お仕事」
「はい。ですが、救護院には怪我をされた方や、病気で弱っている方がたくさんいます」
私は彼女の肩から手を離し、光をすべて吸い込むような瞳を真っすぐ見つめました。
「アビゲイルさんのその……独特の威圧感 を漏らしてしまうと、患者さんたちがびっくりしてしまいますから、絶対に抑えてくださいね。お約束ですよ?」
私が人差し指を立てて念を押すと、アビゲイルさんは数秒間、その黒い瞳で私の指先を見つめた後、こくりと小さく頷きました。
「わかった。マリーが言うなら、息、止めてるよ」
「い、息はしてくださいね!? 普通にしていてくれれば大丈夫ですから!」
***
街の外れにある救護院。そこが今日の私の職場です。
扉を開けると、消毒用の強い薬草の匂いと、膿の混じったような体臭、そして絶え間ない咳の音が壁を反響して押し寄せてきます。
「シスター・マリー! ごめんね、今日も忙しいけどよろしくね……!」
すり減った麻の服を着た職員の言葉に、私は即座に駆け出しました。
アビゲイルさんは私の背後から、音もなく影のようについてきます。
粗末な木製のベッドには、高熱でうなされる人、農作業で刃物を足に落として血を流している人など、様々な患者が横たわっていました。
私は次々とベッドを回り、包帯を替え、水を含ませた布で汗を拭い、必要な箇所には基礎的な治癒魔法を施していきます。
「大丈夫ですよ。もう少しで楽になりますからね」
痛みに呻く青年の手を握り、私は声をかけました。
社畜アドレナリンの力で集中力を極限まで高めているため、処置の無駄がなく、短時間で多くの患者を診ることができます。
少年の呼吸が次第に落ち着いていくのを見届け、額の汗を手の甲で拭いました。
ふと視線を感じて振り返ると、病室の隅に立つアビゲイルさんと目が合いました。
彼女は両腕をだらりと下げたまま、ピクリとも動かず、ただ私の手元だけをじっと見つめていました。
その瞳の奥には、周囲の患者たちの苦しみや呻き声に対する関心が一切ありません。
まるで、この空間には私と彼女しか存在していないかのような、異様なほどの集中力。
私が他の患者に微笑みかけたり、手を握ったりするたびに、アビゲイルさんの周囲の空気が、ミシッ、と微かな音を立てて軋むのがわかりました。
慌てて私が「アビゲイルさん、漏れてますよ!」と小声で注意すると、彼女はハッとしたように口を真一文字に結び、本当に呼吸を止めて空気を抑え込もうとします。
顔がわずかに青ざめていく彼女を見て、私は急いで処置を終わらせるしかありませんでした。
***
陽が傾き始めた頃。
休む間もなくすべての業務を終え、私は救護院の裏口で院長から本日の報酬を受け取りました。
「いつもすまないね、マリー。寄付金が減っていて、今日はこれだけで……」
「とんでもありません。お気になさらないでください」
手のひらに乗せられたのは、くすんだ銅貨が数枚。
指先で転がせばすぐに数え終わってしまうほどの金額です。
院長が申し訳なさそうに頭を下げて去っていくのを見送り、私は小さな革袋に銅貨をしまいました。
背後から、アビゲイルさんが私の手元を覗き込んできました。
「……マリー。これだけ?」
「はい。これだけです」
「なんで……?あんなに、たくさん血を触って、汗かいてたのに。これっぽっち」
彼女の声は平坦でしたが、どこか納得がいかないような響きが混じっていました。
黒い瞳が、私の革袋と私の顔を交互に見つめてきます。
「いいんです。私はシスターですから、お金に色目を使ってはいけないのです。神様からの教えでもありますし」
私が胸を張って答えると、アビゲイルさんはこてんと首を傾げました。
「そうなんだ。……マリーは、すごいね」
「そんなことありませんよ。……そういえば、アビゲイルさんはここに来る前、どんなお仕事をされていたんですか?」
歩き出しながら何気なく尋ねた私の言葉に、アビゲイルさんの足がピタリと止まりました。
彼女の視線が空の彼方をさまよい、長いまつ毛がゆっくりと伏せられます。
「……人を、助けてた……のかな?今となっては……よくわからない」
その声には、一切の感情がこもっていませんでした。
昨夜の悪夢で聞いた、あの何百回、何千回と繰り返されただけの単純作業という言葉が、不意に私の脳裏をかすめました。無数の同じ顔をした死体。血の海。
私は首を振り、嫌な想像を振り払います。
「お金は、いっぱいあったよ。誰も、私のことなんて見てなかったんだろうけど」
アビゲイルさんの口からこぼれたのは、ひどく虚ろな響きでした。
人を助ける仕事。勇者かなんかのパーティメンバーだったんでしょうか。
私は足を止め、振り返って彼女の両手を優しく包み込みました。
冷たい彼女の指先が、ビクッと跳ねます。
「やっぱり、アビゲイルさんは優しい方なんですね」
「え……?」
「人を助けるお仕事をずっと頑張ってきたんでしょう? お金がたくさんあったということは、それだけたくさんの人を救ってきた証拠です。誰も見ていなかったなんてこと、絶対にありません。少なくとも、神様はちゃんと見ていらっしゃいます」
私の言葉に、アビゲイルさんの黒い瞳がわずかに見開かれました。
彼女の喉の奥から、ヒュッと息を吸い込む小さな音が漏れます。
「信じて、くれるんだ……」
「もちろんです。アビゲイルさんのこと、私は信じていますよ」
私が微笑みかけると、アビゲイルさんは私の手を握り返してきました。
その力はひどく弱々しく、まるでガラス細工に触れるかのように慎重でした。
彼女の冷たかった指先に、ほんの少しだけ温かい熱が宿っていくのがわかります。
そのまま、彼女は一歩踏み出し、私の肩にコツンと頭を預けてきました。
「帰りましょうか……」
「……うん。マリーの隣、あったかい」
今日は呪いや重症の患者がいなかったため、身代わりスキルを使うことなく済みました。
体のどこにも痛みがないことが、こんなにも心が軽いなんて。
心地よい疲労感に包まれながら、私はアビゲイルさんと肩を寄せ合い、教会裏の古い部屋へと続く石畳の道を歩いていきます。




