第8話 空を割る劇場の幕 グラン・ギニョール
隙間風が容赦なく入り込む古い室内で、私は一本の細いろうそくの火を頼りに、羊皮紙の束と睨み合っていました。
羽ペンが音を立てるたび、私の口から細い息が漏れ、頼りない炎が大きく揺さぶられます。
使い古された机の上に並べたのは、今日、救護院でいただいた数枚の銅貨です。指先で一つ一つ数え直すと、硬質な音が虚しく響きました。
薄汚れた硬貨の表面を親指でなぞりながら、脳内で素早く数字を組み立てます。
食費、修道服の石鹸代、ろうそくの補充、そして冬に向けた薪の備え。
どう計算をやり直しても、羊皮紙の端に書き付けた支出の合計額が、手元の銅貨の枚数を大きく上回っていました。
(……もっと効率の良い副業を探さなければ、今月末には確実にショートしますね)
指先でこめかみを揉みほぐしていると、背後から音もなく伸びてきた白い手が、机の上の銅貨をチリンと弾きました。
弾かれた銅貨が机の端から落ちそうになったため、私が慌てて受け止めると、頭上から平坦な声が降ってきました。
「お金? 私がいっぱい持ってくるよ。誰の首を持っていけばいい?」
振り返ると、アビゲイルさんが首を傾げながら私を見下ろしていました。
常に開ききっている黒い瞳には、一切の感情が読み取れません。
彼女の長い黒髪が、ろうそくの火を遮って私の手元に濃い影を落としています。
「アビゲイルさんが、討伐クエスト(アルバイト)を……?」
私は弾かれたように立ち上がり、彼女の両手を握りしめました。
ひんやりとした彼女の指先が、私の体温に触れてわずかにビクッと跳ねます。
誰の首、という物騒な表現は気になりますが、冒険者の間では強力な魔物の首を部位破壊して持ち帰ることをそう呼ぶと聞いたことがあります。
まさか、居候の身であることを気にして、自ら働きに出ようとしてくれるなんて。
「偉いです、アビゲイルさん! でも、ギルドに登録していないと報酬が中抜きされてしまうのでは……?」
「……とうばつ?……うん、討伐。すぐ近くに、ちょうどいいのがいるから」
アビゲイルさんは私の手を握り返すと、虚ろな瞳のまま外の暗闇へと視線を向けました。
「直接、もらうから。マリーも一緒に行く?」
「ぜひ同行させてください、交渉事なら多少はお手伝いできるかもしれません」
(直契約ですね! それはフリーランスの理想形ですね)
私が鼻息を荒くして頷くと、アビゲイルさんは微かに唇の端を上げました。
そのまま彼女に手を引かれ、小屋の外に出ます。
夜の冷気が頬を刺す中、アビゲイルさんは空いている方の手を軽く振りました。
「すぐ終わるから。見てて」
その言葉の直後。
私の視界が、ぐにゃりと捻じ曲がりました。
足裏から地面の感触が唐突に消失し、無重力空間に放り出されたかのような強烈な浮遊感が全身を襲います。
胃袋が喉元までせり上がり、三半規管が狂う悪寒。
上下左右の概念が砕け散り、脳みそを掻き乱されるような吐き気に、声すらまともに出すことができません。
「えっ、あ……ッ」
ひゅっと空気を吸い込んだ瞬間、鼓膜を破裂するような音と共に、視界に新しい景色が写りました。
膝の力が抜け、石畳に崩れ落ちそうになったところを、アビゲイルさんの細い腕が私の腰を抱え上げて支えます。
胃の奥から酸っぱいものが込み上げ、私は両手で口元を強く覆いました。冷や汗が滝のように背筋を伝い、激しい耳鳴りがします。
「あ……ごめんなさい……マリー、大丈夫?」
「は、はい……。少し、酔っただけです……ここは……?」
焦点の合わない目を瞬かせ、私は必死に呼吸を整えました。
鼻を突くのは、手入れの行き届いた薔薇の甘い香り。
目の前には、月明かりを反射して光る豪奢な鉄柵と、その奥にそびえ立つ巨大な洋館がありました。
ここは見覚えがあります。以前、孤児院へ寄付をお願いした歳、門前払いで追い返してきた、ロイド男爵の館です。
「アビゲイルさん、ここは魔物の森とかではなく……」
「一番近くの、金持ちの家。あの中、いっぱい隠し持ってるはず……」
アビゲイルさんは私の腰から手を離すと、鉄柵の前に進み出ました。
彼女がスッと片手を天に掲げると、空を覆っていた星空が、まるで重苦しいビロードの幕のように左右へギギギと引き裂かれます。
覗いたのは奥行きのない果てしない闇。どこからともなく、狂ったような手回しオルガンの不協和音と、見えない観客たちの割れんばかりの拍手喝采が響き渡りました。
闇の底から最初にこぼれ落ちてくるのは、血のように赤い絹糸と、黒いレースです。
それらは重力に逆らうように動き、ロイド男爵の館に降り注ぐと、館全体を覆いました。
拘束が完了すると、闇の奥から絵本から切り抜かれたような巨大な影絵の凶器たちがぬらぬらと這い出してきました。
持ち手の穴が異常に多い、髪の毛の絡まった裁ち鋏
まち針で笑顔を縫い付けられた、つぎはぎの人形
黒いレースの手袋をはめた無数の巨大な両手
ひび割れたティーカップや錆びた銀のフォーク
洋館の中にいる人々が、あるいはこの街の半分が、あの影絵によって跡形もなく消し飛ばされる光景が、理屈ではなく本能として私の脳に焼き付きました。
これ、討伐任務じゃありません。
ただの強盗……いえ、一方的な大虐殺です!
「だ、だめですッ!」
私は弾かれたように飛び出し、空に向かって掲げられたアビゲイルさんの右袖を両手で掴み、全体重をかけて下へ引きずり下ろしました。
「え……?」
「そんな強盗みたいなマネ、絶対にだめです! コンプライアンス違反です!」
「コンプラ……? でもマリー、お金、ないんでしょ。あの中のやつら、生きてても価値ないから。私が全部……」
「人間の命に価値がないなんてことありません! 犯罪です!普通の女の子はこんなことしません!」
私が涙目で袖を引っ張り続けると、アビゲイルさんの焦点の合わない黒い瞳が、ぱちくりと数回瞬きました。
やがて、彼女は掲げていた手をだらりと下げました。
空を覆い尽くそうとしていた闇や影絵達が消え去り、再び見慣れた星空が顔を出します。
「……役に立たなくて……悪いことして、ごめんなさい……」
アビゲイルさんは少し背中を丸め、叱られた犬のようにしょんぼりと呟きました。
私は乱れた呼吸を必死に整えながら、何度も頷きます。
「わかって、くれれば、いいんです……。さあ、帰りましょう。明日は私が、もっと割のいい仕事を探してきますから」
「うん。……帰る」
再びアビゲイルさんの手が私の腕を掴んだ瞬間。
先ほどの内臓がひっくり返るような浮遊感が再び全身を襲い、私は言葉にならない悲鳴を飲み込みました。
(転移魔法は気持ち悪いですっ!)
***
部屋の硬い床の上で四つん這いになり、胃液が込み上げるのを耐えること数分。
ようやく視界の揺れが収まってきた頃には、ろうそくの火はすでに燃え尽き、室内は完全な暗闇に沈んでいました。
私は薄い下着姿になり、部屋にある狭いシングルベッドに潜り込みました。
使い古されたマットレスが、ギシ、と嫌な音を立てます。
すぐ隣には、アビゲイルさんが横たわっていました。
一人用のベッドに二人で寝るため、肌と肌が直接触れ合うほど密着しています。
彼女の体温はひどく低く、真冬の掛布団のようです。
対照的に、私の首元に吹きかかる彼女の呼気だけが、異常なほどの熱を帯びていました。
アビゲイルさんが背後から私の腰に腕を回し、顔を私の背中に強く押し付けてきます。
布越しではなく、直接私の肌から何かを吸い上げるように、深く、長い呼吸の音が響きました。
スゥー、ハァー。
「……マリーの匂い、する」
「……私のベッドですから」
背中に張り付く冷たい感触に身をよじりながら答えると、腰に回された腕の力が、わずかに強まりました。
アビゲイルさんの指先が、私の下着の縁をなぞるようにゆっくりと動きます。
「マリーは、私から離れないよね?」
暗闇の中で囁かれたその声には、日中のような平坦さはありませんでした。
泥のように重く、湿度がまとわりついています。
「当たり前です、同じベッドなんですから」
私は寝返りを打ち、アビゲイルさんの正面に向き直りました。
暗闇の中でも、彼女の真っ黒な瞳が月明りを反射しているのがわかります。
私は彼女の冷たい額に手を当て、黒い髪をポンポンと優しく撫でました。
「これ以上離れたら、床に落ちてしまいますよ」
私の言葉に、アビゲイルさんの瞳の奥で何かが揺らぎました。
腰に回されていた彼女の腕が、私の背中を抱き込むように移動し、と私の肋骨が軋むほどの力で抱き寄せられます。
「……うん。絶対に、落とさない」
アビゲイルさんは私の首筋に顔を埋め、静かにそう呟きました。
「そういえば、アビゲイルさん」
「……ん?」
「さっきの魔法……強盗未遂になってしまったのは問題ですが、見せ方としてはとても素敵でしたよ」
「……え?」
アビゲイルさんの呼吸がピタリと止まりました。
私は彼女の頭を撫でる手を止めず、言葉を紡ぎます。
「星空を真っ黒に塗り潰して、その中から影絵を出していたのが、とても幻想的できれいでしたよ。……出ているものは物騒でしたが……」
「でも、人様のお屋敷の前でああいう大掛かりなことをやると、やっぱり強盗か犯罪者だと勘違いされてしまいますから。今度は正規の討伐任務でお願いしますね。」
私がふふっと笑いかけると、私を抱きしめているアビゲイルさんの身体が、大きく震えました。
暗闇の中で、彼女の黒い瞳が、尋常ではない熱を帯びて見開かれているのがわかります。
「……マリーは、私の魔法、綺麗って……言ってくれるの?」
「ええ。とても幻想的でした。センスがあると思いますよ」
「……あはっ」
アビゲイルさんの喉の奥から、ひどく甘く、ねっとりとした笑い声が漏れました。
彼女の顔がさらに私の首筋へと近づき、冷たい唇が鎖骨のあたりに押し当てられます。
「……もう手放さない……絶対に……」
私を縛る腕の力が、さらに一段階強くなりました。
(いくらなんでもシングルベッドでは狭すぎますね……)
「ふふ……ふふふ……マリーのためなら……この世界そのものを舞台に……」
耳元で囁かれたその言葉が、比喩でも何でもないことが、今の私は全く気がついていませんでした。




