第9話 冒険者登録をします
まぶたの裏に朝の光を感じ、小さく息を吐いて、寝返りを打とうと腰を捻った途端、胸元にずしりとした重みを感じました。
(……なんか……重いですね……)
目を開けると、視界のすぐ下、私の顎先のあたりに、見慣れた黒髪のつむじがありました。
寝巻き代わりにしている薄い肌着の襟元がダルンダルンに引き伸ばされ、あろうことか、アビゲイルさんが服の裾から頭をすっぽりと入り込んでいました。
彼女の冷え切った鼻先と頬が、私のささやかな胸の谷間に直接押し付けられています。
規則正しい呼吸のたびに素肌に熱い息が吹きかかって、ものすごくむず痒いです。
「あの、アビゲイルさん」
服越しの頭頂部をトントンと指先で叩くと、彼女がもぞもぞと動きました。
伸びきった襟元からひょっこりと顔を出した彼女の瞳は、寝起きだというのにぱっちりと開ききっていました。
「ん……マリー、おはよう……」
「私の胸を枕代わりにしてたのですか?ただでさえ乏しい私の胸が、これ以上の圧力を受けたら完全な平原になってしまいます。女性としての尊厳の危機です」
「……平原でも、好き……」
「流石に平原は嫌です……」
再び私の胸元に顔を埋めようとするアビゲイルさんの両脇に手を入れて、よいしょと引き剥がします。
肌着の中に冷気が流れ込み、思わず身震いします。
アビゲイルさんは剥がされたことへの不満からか、私の腰に細い腕を巻きつけ、再びぺたりと身体を密着させてきました。彼女の体温は相変わらず低く、肌を合わせているだけでこちらの熱がどんどん奪われていきます。
「起きますよ。今日もやることがたくさんあるんですから」
狭いベッドから這い出し、私は冷水を入れた桶にぼろ布を浸して固く絞りました。
首筋や腕を拭きながら今日のスケジュールを頭の中で組み立てていると、背中にじっとりとした視線がまとわりついているのを感じます。
振り返ると、アビゲイルさんがベッドの上に体育座りして、瞬き一つせずに私の着替えを凝視していました。
「アビゲイルさん、着替えの時くらい後ろを向いていてください……」
「え……? 私、マリーの全部見たいのに」
(同じ女性同士とはいえ、恥じらいという概念を覚えてもらわないとですね)
「……えっと、その、じっと見られていると落ち着かないんです」
私が修道服を胸元に抱え込んで訴えると、アビゲイルさんは首をこてんと傾げました。
「わかった。マリーが嫌なら、見ないよ」
素直に両手で自分の目を覆うアビゲイルさん。
しかし、指と指の間はばっちり開いており、その隙間から真っ黒な瞳が微動だにせず私を射抜いています。
(子供の見えないふりですか……まあ、悪意はないのでしょう)
私は注意するのを諦めて小さな息を吐き、手早く古びた修道服に袖を通しました。
身支度を終えた私は、朝の祈りを捧げるため、アビゲイルさんを連れて教会へと向かいました。
敷地内には、朝の清掃を終えたシスターたちや、老神父様とすれ違いました。
「おはようございます、マリー。そちらの方は?」
「おはようございます、神父様。先日から私のところに身を寄せているアビゲイルさんです」
老神父様は穏やかに目尻を下げ、アビゲイルさんに向かってふわりと手を挙げました。
しかし、アビゲイルさんは瞳孔の開いた黒い瞳を神父様に合わせることなく、無視してしまいます。それでも、周囲の空気が重くなることも、すれ違ったシスターたちが突然胸を押さえて倒れるようなこともありません。
(以前のように、周りを威圧することがないなら、社会生活への復帰もすぐにできそうです)
礼拝堂の中は、ステンドグラス越しに差し込む朝陽で七色に染まり、冷ややかな乳香の匂いが漂っていました。
最前列の長椅子に並んで膝をつき、両手を胸の前で組みます。目を閉じ、私は静かに朝の祈りを捧げ始めました。
私が十字を切る動作をすると、隣のアビゲイルさんも、衣擦れの音を立てて見様見真似でぎこちなく手を合わせます。
祈りの途中で薄目を開け、そっと彼女の様子を伺いました。
てっきり神に祈っているものとばかり思っていましたが、彼女の視線は祭壇の立派な神像ではなく、真横にいる私の顔面にべったりと張り付いていました。
光すら完全に吸い込んでしまう、瞬き一つしない真っ黒な瞳。
ただひたすらに、私の睫毛の揺れや、祈りを紡ぐ唇の動きを、一つ残らず脳裏に刻み込もうとしているように見えます。
まるで、神ではなく私自身を信仰の対象として拝み倒しているかのようなその熱量に、私は修道服の下で背中の産毛が一気に粟立つのを覚えました。
午前中の救護院は、相変わらずむせ返るような薬草の青臭い匂いと、すえた血の匂いが混ざり合っていました。
今日も幸運なことに、重傷患者は運ばれていません。
私の社畜アドレナリンを使うような理不尽な業務はなく、基本的な治癒魔法で対応可能な、平和な日常業務が続きました。
***
昼過ぎ、私とアビゲイルさんは賑やかな大通りを抜け、冒険者ギルドへと足を運びました。
木の扉を押し開けると、こちらも相変わらず昼間から小汚いの居酒屋のような匂いがします。
アビゲイルさんを恐れていた冒険者たちですが、今日は皆さん落ち着いている様子でした。
(アンナさんのおかげでしょうか……)
その情景に私はうれしくなりながら、受付カウンターへ向かいました。
「あっ、マリーちゃん!」
カウンターを雑巾で磨いていた受付のアンナさんが、私を見つけて顔をパッと輝かせました。
茶色のミディアムボブが揺れ、満面の笑みが向けられました。
「こんにちは、アンナさん。今日は少し相談事がありまして……」
私が言いかけた途端、アンナさんの笑顔がピシリと凍りつきました。
彼女の視線が、私の横に立っているアビゲイルさんに釘付けになっています。
「やっぱり、今日も魔女がいるのね……」
声のトーンが、普段の快活なものから三段階ほど低く沈んでいます。
空気が急激に張り詰めるのを感じながらも、要件を伝えようとします。
「まぁ……物騒な瘴気を撒き散らしてないだけ、助かるわね。それで?相談ってなあに?」
「はい、相談というのは生活費のことなんです。私の今のお仕事だけでは、二人分の食費を賄うのが厳しくて。何か、私でもできる割の良い依頼はないでしょうか」
「2人分……そう。マリーちゃんが、魔女と……一緒に……」
アンナさんの口から漏れた声は、ひどく掠れていました。
彼女の瞳の奥に、黒い執着のようなものが渦巻いているような気がしました。
「……それなら、冒険者登録をするしかないわね」
アンナさんは深呼吸を一つして、強引にいつもの営業スマイルを顔に貼り付けました。
「もちろん、マリーちゃんに危険な討伐なんかさせたくない。だから、薬草の採取とか、街の中での配達とか、安全が完全に保証されているクエストだけを私が厳選して回すから。……それでも、何が起きるか分からないのがこの仕事だけど」
言いながら、アンナさんはカウンターから身を乗り出し、アビゲイルさんの耳元に近づき、地を這うような声を絞り出していました。
「あんた……マリーちゃんに傷一つでもつけたら、ただじゃおかないから。一緒にいるなら、あんたがしっかり守りなさいよ……災厄の魔女さん」
それは、ただの受付嬢が発するような言葉ではありませんでした。
しかし、アビゲイルさんはその凄みに全く動じることなく、首をこてんと傾けてました。
そして、口元だけ歪な笑みを浮かべ、一切の感情の抜けた瞳でアンナさんを射抜いていました。
「……私に指示をするな。人間」
平坦で、一切の熱を持たない声。その声と同時に、アビゲイルさんから瘴気が靄となって出てきましたので、私は慌ててアビゲイルさんの手を握り、落ち着かせます。
アンナさんの顔の筋肉が引きつり、カウンターを握る手が小刻みに震え始めます。
(……アビゲイルさんにはまだ円滑なコミュニケーションは難しそうですね)
「ふふっ。アンナさん、大丈夫ですよ。私だって、自分の身くらい自分で守れますから。」
私が場を和ませようと笑うと、アンナさんはハッと息を呑み、引き出しから一枚の羊皮紙を取り出しました。
「と、とりあえず! これが登録用紙だから、必要事項を書いてね」
私はカウンターに備え付けられた、古いペンを手に取り、アンナさんから優しく受け取った羊皮紙に記入を始めます。
「氏名、年齢、得意な技能……」
ペン先を黒いインク壺に浸しながら、私は羊皮紙の項目をなぞりました。
「技能ですか……。治癒魔法と連続労働、あと……多少の痛みに耐えること、でしょうか」
「マリーの技能は……人たらし」
横からアビゲイルさんが、ねっとりとした声で呟きます。
「人たらしなんてしてませんよ……」
「そういうのは書かなくていいから! ほら、早くサインして!」
アンナさんが声を張り上げて書類を進めていきました。
「書類を書いたら次は、マリーちゃんの基本ステータスをギルドカードに反映させるから、水晶に手をかざしてね」
そういうと、アンナさんが奥から光り輝く水晶を持ってきました。
私がその水晶に手をかざすと、輝かしい水晶の光がどす黒く変色したように見えました……。




