第5話 魔女が普通の女の子になる第一歩です
ギルドの扉が背後で軋みを上げて閉まると、通りの冷たい風が容赦なく頬を打ちつけ、繋いだままの指先からも、アビゲイルさんの冷たい体温が流れ込んできます。
ふと隣を歩く彼女を見た瞬間、私は自分の社会人としての配慮の足りなさに息を呑みました。
彼女が纏っているのは、ボロボロに擦り切れた灰色の布切れです。
ほとんど下着と変わらない薄さで、ところどころ裂けた隙間からは、病的なまでに透き通るような白い肌が晒されていました。
「あぁ……っ、いけませんね、アビゲイルさん。私としたことが、こんなお姿のまま外を歩かせてしまっていたなんて」
「え……? ああ、みっともない恰好……だったかな」
「いえ、そうではなくてですね。」
日本ではもちろんのこと、この治安が未知数な異世界においても、あまりに無防備で危なっかしい状態です。
私は急いで首元の留め具を外し、自分のウィンプルを彼女の華奢な肩にふわりと掛けました。
アビゲイルさんは虚空を漂わせていた真っ黒な瞳の焦点をぴたりと私に合わせると、肩からずり落ちそうになったウィンプルの端をきゅっと掴み、鼻先を押し当てて深く息を吸い込みました。
「……マリーの、匂い。あったかい、ね」
「すぐにちゃんとしたお洋服を買いに行きましょう。ええっと、今月の予算は……」
腰に下げた布袋の底を指で探ると、銅貨と銀貨が数枚、カチャリとひどく頼りない音を立てました。食費を極限まで切り詰めれば、きっとどうにかなるはずです。
***
大通りの隅にひっそりと店を構える、少し古びた仕立屋のドアベルを鳴らしました。
カウンターの奥にいた店主らしき老婦人は、私たちと目が合った途端、手元にあった木製の糸巻きを床に取り落とし、コロンと転がる音だけが響きました。
「あ、あのっ、こんにちは。この子に似合うお洋服を探しているのですが」
「えっ……あ、あ、ああぁ……っ」
老婦人が小刻みに震え、カチカチと歯の根が合わない音が店内に響き始めました。
アビゲイルさんが気怠げに視線を横に向けただけで、壁際の棚に並んでいた艶やかな絹の反物が、みるみるうちに端から黒ずんでいきます。織り込まれた糸がボロボロと砂のように崩れ落ちそうになっていました。
「アビゲイルさん!お店の商品を傷つけてはいけませんよ!」
「えっ……! あ、ご……ごめんなさい、マリー。私、何もしてないん、だけど……」
私が彼女の細い手首を軽く引くと、アビゲイルさんはシュンと肩を落とし、周囲の異常な劣化がピタリと止まりました。
私は慌てて布袋から銅貨を数枚取り出し、カウンターに置きました。
「すみません、あちらの布、少し汚してしまったようで。弁償というには心許ないですが、お納めください」
店主さんは私の置いた銅貨には目もくれず、ただ震える指先で、ひきつけを起こしたように奥の棚を指し示しました。
そこにあったのは、黒を基調とした一着でした。
深い漆黒のベルベット生地に、繊細な黒いレースが幾重にもあしらわれたドレス。
胸元の大きなリボンと、歩くたびに揺れるであろう裾のフリル。
早速アビゲイルさんに試着してもらい、試着室のカーテンを引いて出てきたアビゲイルさんを見て、私は思わず「わぁ……」と声を漏らしました。
光を反射しない真っ黒な瞳に黒髪、血の気の引いた白い肌。
そこにブラックロリータ風の豪奢な布地が、恐ろしいほど完璧に調和していたのです。
「……マリー、これ、いいの?」
「はい! とってもお似合いです。すごく可愛いですよ」
「可愛い……。ふふ、マリーが選んでくれた……私だけの、服……ふふふ……」
彼女はレースのあしらわれたフリルを大事そうに撫で、虚ろだった瞳の瞳孔がさらに広がったように見えました。
なけなしの銀貨をカウンターに置くと、呼吸の浅い店主さんは両手でそれを受け取るなり、逃げるように店の奥へと引っ込んでしまいました。
(アビゲイルさん力の制御はまだまだ課題のようですね)
通りを歩きながら、私は今後のスケジュールを脳内で組み立てていました。
「さて、アビゲイルさん。お洋服も買えましたし、あとはお住まいですね。ご実家か、どこか帰る場所は……」
「えっ? 何、言ってるの、マリー……?」
彼女の足が、石畳に縫い付けられたようにピタリと止まりました。
繋いだ私の手の骨が軋むほどの強い力で握り込まれます。
開ききった瞳孔が、まるで私の言葉の意味を全く理解できないと言わんばかりに揺れていました。
「私は、マリーの家に、住むんだよ……? え……? マリー、ずっと一緒……だよね?」
「えっ」
空気がべっとりと重くなりました。
周囲の酸素が急激に薄くなったように感じられ、数メートル先を歩いていた見知らぬ通行人たちが、突如として喉を押さえ、苦しげに膝をつき始めます。
「私を、捨てるの……? マリーも、私を、置いていくの……?」
「ち、違いますっ! 捨てるだなんて、そんなことしませんから!」
私は慌てて彼女の肩を抱き寄せ、冷え切った背中をさすりました。
彼女を私の狭い家に泊めること自体は、決してやぶさかではありません。
しかし、彼女の身代わりとして引き受けた呪いの反動が問題なのです。
今は社畜アドレナリンが全開で分泌されているおかげで痛覚に蓋がされていますが、安全な自室のドアを開けた途端、この未払いの激痛が一気に押し寄せてくるのが目に見えています。
そんな、床を転げ回って泡を吹くような情けない姿を、保護したばかりの彼女に見せるわけにはいきません。心配をかけてしまいますし、何より大人の女性として恥ずかしすぎます。
「あのですね、アビゲイルさん。私の部屋はとても狭くて、お客様をおもてなしする準備ができていないのです。ですから、今夜だけ、ギルドの二階にある客室に泊まっていただきたいんです」
「……ギルド? あんな、うるさくて、臭いところに……私を、一人で?」
彼女の黒髪が、風もないのにふわりと持ち上がりました。
周囲の建物のガラス窓から、ピキピキと細かなヒビが走る不穏な音が鳴り響きます。
「い、一日だけです! それに、アビゲイルさんがギルドで一晩おとなしく過ごせれば、きっと皆さんも、彼女は安全な人だと、わかってくれます。そうすれば、明日からもっと一緒に過ごしやすくなりますからっ」
「……明日も、一緒に……」
「はい。絶対です。朝一番でお迎えに行きます」
私が彼女の両手を包み込んで懸命に訴えかけると、ひび割れるガラスの音がようやく止まりました。
アビゲイルさんは唇を強く噛み、私の服の裾をぎゅっと握りしめます。
「……わかった。マリーがそう言うなら、我慢、する。でも、明日、絶対迎えに来てね。来なかったら……この街が、どうなるか、わからないから……」
「……私の育った大事な街です。変なことしないでくださいね」
私はほっと胸を撫で下ろしました。少し寂しがり屋で大げさなところがありますが、言葉を尽くせばわかってくれる、素直でいい子です。
***
再びギルドの扉を開けると、先ほどの完全な静寂とは打って変わって、冒険者たちが部屋の隅で円陣を組み、何やら深刻そうな顔でヒソヒソと話し込んでいました。
何を相談しているのか聞こえませんでしたが、今はそれどころではありません。私は真っ直ぐカウンターへ向かいました。
「アンナさん、ポーションの件、ありがとうございます。それと……折り入ってご相談があるのですが」
「マ、マリーちゃん……相談、って……?」
アンナさんの視線は、私の横にピタリとくっついているアビゲイルさんに釘付けです。
アビゲイルさんは、私から離れようとしないまま、怪訝そうな表情でアンナさんを見つめ返していました。
「実は、この子を一晩だけ、ギルドの二階の客室に泊めていただけないでしょうか」
「…………は? ……え?」
アンナさんの手から、ガシャンッ、と先ほどまでポーションが詰まっていたであろう木箱が床に落ちました。
彼女の顔面から一瞬にして血の気が引き、引きつった表情で私を見下ろします。
「と、泊める? この……この魔女を……ギルドの、二階、に?」
「はい。まだ街の宿も決まっていなくて。お金はお支払いしますので」
「だ、だだだ、駄目よ! そんなの、絶対――ッ」
アンナさんがカウンターから身を乗り出して叫びかけた瞬間、アビゲイルさんがふらりと、ただ半歩だけ前に出ました。
何の感情も読み取れない、ただの真っ黒な穴のような瞳。
それだけで、アンナさんが息を飲み、言葉が不自然に途切れました。
「……マリーの、お願い、だよね。……邪魔、するの?」
アビゲイルさんの艶やかな唇が微かに動いたかと思うと、分厚いカウンターの木材が急速に腐り始め、パラパラと灰色の木屑となって足元に崩れ落ちました。
「っ……あ……う、うぅ……っ」
アンナさんは顔を両手で覆い、ガクガクと膝を震わせてカウンターの裏にしゃがみ込みそうになっています。
荒い呼吸音が漏れ、指の隙間から覗く彼女の瞳は、純粋な恐怖と……それ以上の何か。
私をこの得体の知れない存在から何が何でも引き剥がしたいという、ねっとりとした執着のような色で濁っていました。
「アンナさん? やっぱり、ご迷惑でしょうか……」
「……い、いいえっ。いいのよ、マリーちゃん」
アンナさんは弾かれたように顔を上げ、顔面の筋肉を引きつらせて、貼り付けたような笑顔を作りました。
そのこめかみには、べっとりと冷や汗が伝っています。
「ギルドは、困ってる人の……味方、だから。客室の鍵……渡すわね」
「ありがとうございます! 本当に助かります」
私は鍵を受け取り、アビゲイルさんの手を取って軋む階段を上り、二階の客室へ案内しました。
「では、アビゲイルさん。明日の朝、必ずお迎えに来ますからね。ゆっくり休んでください」
「……うん。マリー、絶対だよ。私、ずっと起きて待ってるから」
「いや、寝てくださいね。あと、アビゲイルさんが皆さんにとって害のある人じゃないと私は証明したいので、環境破壊や怖がらせたりしたらだめですからね」
私は不安そうなアビゲイルさんを抱きしめながら訴えました。
「私は……マリーが信じてくれるなら、それでいいのに……」
「私はアビゲイルさんに普通の女の子として過ごしてほしいんです」
私は、彼女の綺麗な黒髪を優しく撫で、精一杯の笑顔を作って「おやすみなさい」と言い、扉の外に出ました。
ドアが閉まる直前まで、隙間からこちらを見つめる真っ黒な瞳が離れませんでした。
パタン、扉が閉まるのを確認し、私はようやくギルドを後にしました。
外に出ると、日はすでに完全に落ちており、夜の冷気が街を包んでいました。
これで、本日の業務はすべて終了です。
アビゲイルさんのお洋服も買い、宿も確保し、ポーションも受け取りました。
(あとは……家に帰るだけ、ですね)
一歩踏み出した瞬間。
腹部の奥底で、ドロリとした重たい泥が蠢くような感覚が這い上がってきました。
内臓の隙間に根を張った呪いの術式が、私の帰宅を今か今かと待ち構えているのがわかります。今はまだ社畜アドレナリンがギリギリで痛覚をマスキングしていますが、心臓の鼓動に合わせて、神経の表面がピリピリと粟立ち始めていました。
足取りはまだ、羽のように軽いです。
私は、この後に待っている壮絶なリボ払いの苦痛から逃げるかのように、小走りで教会裏にある小さな家へと向かいました。




