第4.2 アンナ視点:マリーと魔女
マリーが森に出かけてから数時間、私はずっと気もそぞろだ。
そもそも森まで数時間かかるのだから、マリーがどこかでバテたりしていないいいのだが。
……遠くで依頼書について私を呼んでいる声がする。
(いけないいけない。仕事中はしっかりしないとね。マリーちゃんも仕事に対して一生懸命なんだから、私も頑張らないと。)
***
さらに数時間後、陽も大分落ちてきたかに思えたその時、分厚い木の扉が開かれた。
鼓膜を劈くような喧騒に包まれていたギルド内の空気が、物理的に凍りつき、どこかのテーブルで、ジョッキが床に落ちて割れる音だけがやけに大きく響く。
「アンナさん、戻りましたー。薬草、採ってきました」
聞き慣れたのんきな声が入り口から響く。マリーちゃんだ。
無事に戻ってきた。その事実に安堵で立ち上がりかけた私の膝は、彼女の隣にへばりついているそれを視界に捉えた瞬間、完全に力を失って椅子へと崩れ落ちた。
(なんで……どうしてマリーちゃんの横に……)
開け放たれた扉の外から差し込む光が、その女の周囲だけ不自然に歪み、吸い込まれている。
艶やかな黒髪。そして、光の反射を一切持たない、底なしの深淵のような瞳孔。
私の手元のカウンターに広げられた、各都市から回ってきたばかりの緊急手配書。そこに描かれた歩く自然災害こと、災厄の魔女の特徴と、寸分違わぬ姿がそこにあった。
ギルド内の空気が、薄くなった。
酸素が足りないのではない。その女が呼吸をするたびに、空間の魔力が根こそぎ奪われているような、圧倒的な強者の気配。
最前列にいたベテランの男が短い悲鳴を上げて椅子ごとひっくり返り、そのまま後ずさりしながら壁に背を打ち付けている。
「皆さん、人を見た目で判断してはいけませんよ」
マリーちゃんが、くるりと振り返って腰に手を当てている。
何を言っているの。違う。違うよ。見た目じゃない。あの女の足元を見て。女が踏みしめている石畳が、音もなく砂のように崩れて沈み込んでいる。
「アンナさん、お疲れ様です。薬草が沢山取れたので、ポーション作成の依頼をお願いします」
カウンター越しに差し出されたマリーちゃんの手。私は両手で縁を握りしめたまま、奥歯を噛み締めることしかできない。
指先の血の気が引き、視界の端が白く明滅する。
「マ、マリー、ちゃん……。う、後ろの、その人は……」
上手く喋れない……。
呼吸が浅くなる……。
視界が白黒に点滅する……。
「ああ、彼女ですか?森で迷子になって佇んでいたので、保護しました。アビゲイルさんです」
「ま、迷子……? 保護……?」
「はい。とても寒い中、薄着でぼーっとしてたんですよ」
喉から無理やり絞り出した私の掠れ声に、マリーちゃんは平然と答える。
その言葉の途端、黒髪の女の腕が蛇のようにマリーちゃんの腰にするりと回され、細い首筋に血の気のないような頬が擦り付けられる。
「……ねえ、マリー……」
女の唇が動いた瞬間、空気がぐらりと揺れた。
鼓膜を直接撫でられるような、悍ましい声。女の虚無の瞳が私を貫く。
「この女の人、私のことすっごく怖い顔で見てる。……マリーとの時間を邪魔されそう」
かっ……はっ……はっ……。
息ができない……。
目に見えない巨大な手に首を絞め上げられたように、一切の空気が吸えなくなる。
女の周囲から、陽炎のような黒い瘴気が漏れ出した。
それにあてられた途端、離れたテーブルにいた冒険者たちが次々と白目を剥き、床へ突っ伏していく。
ベテランの冒険者たちは、なんとか気絶せずにいるが、私と同じように呼吸すらままならない状態だ。
下腹部のあたりから、じわりと温かいものが太ももを伝う感覚がある。だが、もはやそれを恥じる余裕すらない。
ああ、死ぬ。あの小さな体と同じように。私も、ここで……。
「こら、ダメですよ、アビゲイルさん。アンナさんは私の大切な人です」
マリーちゃんの手が、女の肩をぽんぽんと軽く叩いた。
ピタリと。
首に巻きついていた見えない圧が霧散し、私はカウンターに突っ伏して激しく咽せ返った。
「ご……ごめんねマリー。そ、そんなつもりじゃなかったの……」
顔を上げると、先程まで周囲に死の気配を漂わせていた女が、マリーちゃんの肩に顔を埋めて震えていた。
ありえない。あの災厄の魔女を、まるで駄々をこねる新人をたしなめるかのように……。
「あ、アンナさん? どうされましたか? 顔色が悪いですよ」
「い、いえ……なんでも、ないよ……。マ、マリーちゃんが、大丈夫というなら、そ、そう……なのね……?」
震えが止まらない右手に羽根ペンを握り、どうにか羊皮紙にサインを書き殴る。インクが飛び散り、スタンプを押す手にも力が入り大きな音を立てた。
控えを受け取ったマリーちゃんは、普段と変わらない愛想のいい可愛らしい笑顔でお辞儀をして、魔女と指を深く絡め合わせながらギルドを後にしていく。
壁にへばりついて硬直する冒険者たちの間を抜けていくその後ろ姿を、私はただ見送ることしかできなかった。
(……下着、取替えないと……)




