第4.1話 アンナ視点:アンナからみたマリー
私はアンナ。
今はこの街で冒険者ギルドの受付嬢をやっている。
朝っぱらから分厚い扉が開くたび、むわっとした熱気と、安酒、汗、そして獣なのか男ども脂なのかわからない何かが混ざった匂いが押し寄せてくる。
控えめに言って、むさくるしい職場だ。
カウンターの向こう側を占拠しているのは、傷だらけの男、手入れされていない髭面の男、そしてとにかく声のデカい男ばかり。華の欠片も、潤いすらもない。
たまにひょっこりと顔を見せる、可愛らしかったり、凛として美しかったりする女性の冒険者や依頼人が、荒みきった私の網膜にとって唯一の救いだった。
「はあ……」
インク壺に羽根ペンを浸し、山のように積まれた羊皮紙の束を引き寄せる。
今日も今日とて、冒険者たちが持ち込むミミズの這ったような報告書と格闘しなければならない。
そう思ってペンを走らせようとしたとき、ふと、今日のギルドの空気がいつもと違うことに気がついた。
朝から騒がしいのは日常茶飯事だが、今日は違う。
円卓を囲む屈強な冒険者たちが、ジョッキの縁を指でなぞるだけで一滴も飲もうとせず、深刻な顔でヒソヒソと身を乗り出している。
「なぁ……聞いたか?」
「ああ、東の森の話だろ?」
「噂のひとり歩きだといいんだけどな……」
ペン先からぽたりと黒いインクが落ち、羊皮紙に染みを作った。
東の森。あそこは初心者でも入りやすい場所だったが、今は緊急封鎖をしている。
その時、軋む音を立ててギルドの扉が押し開けられた。
むせ返るような空気が、一瞬にして澄んだ水のように浄化されたように感じる。
ざわめいていた男たちの視線が、無意識にそちらへ吸い寄せられた。
入り口に立っていたのは、色落ちして生地が薄くなった粗末な修道服に身を包む、小柄な少女。
血の気の薄い白い頬と、亜麻色の綺麗なボブヘアー。そして、どこかぼんやりとした翡翠色の瞳。
彼女が足を踏み入れるだけで、血生臭いこの場所が、瞬時に神聖な礼拝堂にすり替わったかのようだ。
「おはようございます、アンナさん。今日も良いお天気ですね」
誰もが警戒心を解くような柔らかな声。
私の荒んだ視界に飛び込んできた、何よりの救い。
「あ……マリーちゃん。おはよう。今日はどうしたの? 病院のシフトはお休み?」
平然と、何事もないかのように微笑む彼女の顔を見ると、胸の奥を爪で引っ掻かれたような痛みが走る。
この街の教会の人間が、彼女にどれほど異常な労働と献身を強いているか。怪我人の治療を、彼女ひとりに押し付けていることなど、私にはお見通しだった。
「ええ、お休みをいただきまして。教会の備蓄用の薬草を採りに、東の迷いの森へ行こうかと」
肺から、一気に酸素が抜け落ちた。
ガタッ、と。自分がどんな音を立てて椅子を蹴り飛ばしたのか、よく覚えていない。
気づけばカウンターから身を乗り出し、マリーちゃんの華奢な両肩を鷲掴みにしていた。
「だ、駄目だよマリーちゃん! 今、あそこの森は立ち入り制限がかかる一歩手前なの。行っちゃ駄目!」
私の爪が肩越しに食い込んでいるはずなのに、彼女は痛がる素振りすら見せない。ただ、きょとんとした顔で首を傾げている。
「え? でも、魔物が減って安全になったと聞いたのですが……」
「減ったんじゃないの、消滅してるの。森の奥が、文字通り灰になってるんだって!」
周囲のテーブルで息を潜める冒険者たちの気配を背中で感じながら、私は声を押し殺した。
「ここ数日、ギルド内で噂になってるの。殺意も悪意もないのに、ただ息をしているだけで周囲の命を奪っていく歩く自然災害が出たって……。姿は、黒髪の女だったって目撃情報もあるわ」
マリーちゃんの細い指先が、私の震える手をそっと包み込んだ。
とても暖かく太陽のような、手のひら。
彼女の手を握るだけで、これまで心身の疲労が吹き飛ぶ。
「わかりました。絶対に無理はしません。教えてくださって、ありがとうございます、アンナさん」
彼女は、ふんわりと笑った。
その笑顔の裏にある、不気味なほどの諦念。どうしてこの子は、自分の命が脅かされる話を聞いて、こんなにも穏やかに凪いだ瞳をしていられるのか。
教区長の横暴な命令に逆らえないから? それとも、誰かのために自分が傷つくことを、息をするのと同じくらい当然だと思っているから?
「優しいアンナさんの今日が、穏やかな光で満たされますように」
マリーちゃんが胸の前で指を絡め、目を伏せる。
窓から差し込む朝の光が、彼女のまつ毛に落ちて淡い影を作った。
その横顔は、絵画の聖女そのもののように美しく、だからこそ、今にもふっと消えてしまいそうで。
「マリーちゃん……!」
祈りを終えて目を開けた彼女へ向けて、私は切羽詰まったように息を吸い込み、彼女の手をもう一度強く握り締める。
逃げて、と言いたかった。あの異常な教会から、あなたを使い潰そうとする大人たちから。
「あ……その、もし、辛かったり何かあったら、いつでも相談してね。教会のことでも何でも……ギルドの二階の空き部屋、いつでも勝手に使っていいから」
喉が引きつり、声が上ずる。
マリーちゃんは一瞬目を丸くした後、花が綻ぶような、それは愛らしい笑顔を見せた。
「お気遣い、本当にありがとうございます。それでは、いってまいりますね」
分厚い扉が閉まり、ギルドの中に再び重苦しい静寂が落ちる。
ポツンと残された私の手のひらには、彼女の氷のような体温だけが微かに残っていた。
自分の手を、胸元でぎゅっと握り込む。
脳裏に一瞬だけフラッシュバックしたのは、かつて自分の知らないところで命を落とした、大切な人。
心臓が嫌な音を立て息が浅くなるのを、下唇を強く噛むことで必死に堪えた。血の味が口内に広がる。
カウンター越しに見える窓の外、東の空。
そこには、鳥一匹として空を舞うことのない、不自然なほどの不気味な暗雲が、じっとりと森の輪郭を覆い隠し始めていた。
「……もう二度と失わない……」
誰にも聞こえないほどの掠れた声が、ギルドの匂いに溶けて消える。
これ以上、大切な人を失いたくない。あの底知れない自己犠牲の塊のような子が、誰にも気づかれないまま、暗い森の奥で冷たくなってしまうことなど、絶対に。




