第39話 フェルドモルト防衛線①
頬にはまだ、彼女の唇の輪郭が生々しい熱となって張り付いています。
(……これは、チークキスというやつでしょうか)
ドキドキしましたが、親愛を示す一般的なマナーなのでしょう。グローバルコミュニケーション。郷に入っては郷に従え、です。
「……マリー」
低く、湿り気を帯びた掠れ声。
アビゲイルさんは自分の顎を指先でなぞりながら、私の頬――アザミさんの唇が触れた位置を、瞬きひとつせずに凝視していました。
「いまの……なに」
「は、はい?」
「くち、つけてた。……マリーの、皮膚に」
感情の起伏が削ぎ落とされた声の奥で、ドロドロとした何かが渦巻いているのが分かります。指先が微かに震え、黒いスカートの裾が風もないのに不穏に波打っていました。
「ご挨拶、だと思いますよ。親愛を示すために頬にキスをする文化があると聞いたことがありますし。一種のスキンシップかと」
「……そんなの、知らない」
ぷいと横を向き、唇を尖らせるアビゲイルさん。
足元の草が音もなく黒い灰へと崩れ落ちました。周りを丸ごと消滅させるような真似は踏みとどまってくれたようですが、あからさまに不機嫌オーラを全開にしています。
(あ……もしかして、アビゲイルさんも同じことしてほしいのでしょうか)
そうと分かれば、やるべきことは一つです。私はアビゲイルさんの正面へと回り込みました。
「アビゲイルさん」
「……なに」
不貞腐れたように視線を落とす彼女を見上げます。私より少しだけ高いその視線。
私は迷わず、爪先立ちになりました。
ちゅっ
アビゲイルさんのひんやりとした頬に、私の唇を軽く押し当てました。
「……え」
直後、彼女の身体が完全に硬直しました。
呼吸が止まり、真っ黒だった瞳孔が、針の先ほどに収縮したかと思えば、次の瞬間には限界まで見開かれました。
青白かった彼女の頬が、耳の付け根から首筋にかけて、一瞬にして林檎のように赤く染め上がっていきます。
「あ……ぅ……ぇ……?」
指先が宙を泳ぎ、視線があちこちへ激しく乱反射しています。唇をわなわなと震わせたまま、立った状態で完全に機能停止してしまいました。
「これで、お揃いですね。私たちも無事に帰ってこられるよう、神様にお祈りしておきました」
私が満面の笑みでそう告げると、アビゲイルさんは両手で自分の両頬を挟みながら、
「えへ、えへへ」と緩んだ表情をしています。
その光景を、少し離れた場所から眺めていたフェイトちゃんが、首を傾げながら隣の人物の袖を引きました。
「ねえねえ水色。キスしたら、子供できるんじゃないの? お姉ちゃん、あのピンクの女と黒いのと子供つくるの?」
「あははっ! どうだろねぇ〜。ボクには仕組みはよくわかんないなぁ〜」
ベラさんは愛嬌たっぷりにウインクしながら、私のお腹のあたりを見てきます。
「でもさ、マリーのお腹が別の生き物でパンパンに膨らんでいくなんて……想像しただけで、最高にゾクゾクするねぇ。妊娠したら、もうマリーはあいつのモノってことじゃんねぇ~」
「……そっか。あのピンクの女の匂いが、ずっとお姉ちゃんからするんだ……そんなのおかしいよね」
口角が耳まで裂けんばかりに吊り上がった、純粋な殺意の笑顔。
「ちょっと二人とも、変なデマを信じないでください。頬にキスしただけで妊娠するわけが――」
ズズンッ……!
私の訂正を、腹の底を揺らす重い爆発音が遮り、戦いが始まりました。
私たちが配置されたのは、渓谷の入り口から離れた後方支援の巨大な天幕。何十人もの治癒士たちが強張った顔で待機しています。
「いいですか、皆さん。私たちの仕事はあくまで後方支援です」
私はアビゲイルさんとベラさんの目を真っ直ぐに見つめました。
「絶対に、おとなしくしていてくださいね。勝手に魔法を使わないこと。お約束です」
「……うん……わかった」
「も~心配性だなぁ~マリーは~」
「フェイトちゃんも、絶対に味方を巻き込まないように」
「うん! わたし、お姉ちゃんのためにいーっぱい頑張るねっ!」
満面の笑みで頷いたフェイトちゃんは、ふいっと左腕を前に出し――右手の人差し指の爪を、自らの手首の静脈へ躊躇なく突き立てました。
引き裂かれた薄い皮膚から、鮮血が噴き出し、周囲の治癒士たちが短い悲鳴を上げて後ずさりました。
「えへへ、ちょっと待ってねー。いま、武器つくるから」
撒き散らされた大量の血液が、重力を無視して空中でうねり、凝固していきます。瞬く間に、赤黒く禍々しい巨大な大鎌が形作られました。
「できた! これで悪いやつら、みーんな真っ二つにするね!」
「……止血しますよ」
慌てて治癒魔法をかけようと手を伸ばしかけた時、前方から凛とした声が響き渡りました。
「――聞いてください。開戦の狼煙は上がりました」
天幕の中央に立った柔和な顔立ちの男性指揮官が、よく通る声でざわめきを鎮めます。
「魔族は狡猾です。奇襲の可能性は極めて高い。戦闘職の方々は何があっても、生命線である治癒士を守り抜くこと。互いに連携を取り、生き残りましょう」
「……だそうです。二人は本当におとなしくしていてくださいね」
私はアビゲイルさんとベラさんに、もう一度念を押します。
しかし。
三十分が過ぎ、一時間が過ぎても。
前線からの負傷者は、ただの一人も運ばれてきませんでした。
「……おかしい」
指揮官が、眉間を指で揉み解しながら呟いています。
「前線が接触してからこれほど時間が経っているのに、軽傷者すら後退してこないとは」
周囲の治癒士たちも、顔を見合わせてざわつき始めました。
待機陣地の空気は、時間が経つごとに重く、ねっとりとしたものに変わっていきます。
「伝令ッ!!!」
ルーテシアの騎士らしき人物が、天幕へ転がり込んできました。
左腕は肩から欠損し、全身の皮膚が赤黒く爛れてドロドロに溶け落ちています。
「ぜ、前線が……ッ! 崩壊……しました……ッ!!オークの重装陣は囮でした! 奴ら、腹に呪毒を限界まで溜め込んで……陣地の中央で、自爆させやがった……ッ!!」
絶望が天幕を支配します。
「負傷者を後送する余裕なんてありません! 治癒士の、前進を……要請、しま……」
言い残し、男は白目を剥いて突っ伏しました。背中から紫色の泡がボコボコと吹き出しています。
私は即座に駆け寄り、身代わりを発動させます。
男の体が瞬く間に元の形へと再生していく異常な光景に、周囲の治癒士たちから息を呑むようなどよめきが広がっています。
「……治癒士部隊を、前線最後尾まで前進させます」
「なっ……正気ですか、指揮官殿!」
護衛の剣士が声を荒げました。
「治癒士を前線に近づけるなど、自殺行為だ! 奇襲を受ければ一溜りもない!」
「ここで待機していても、前衛が抜かれれば結果は同じです。前衛の崩壊を食い止めるには、現場での即時回復しかない」
指揮官は冷徹な視線で剣士を射抜きました。
「部隊を二つに分けます。第一部隊は崖上の魔導士中隊の回復へ。第二部隊は、渓谷……前衛陣の最後尾まで向かい、直接支援にあたる。……第二部隊は私と共に前線へ。強制ではありません。ですが……誰かが行かなければ、前衛は全滅します」
誰も手を挙げません。当然です。安全なバックオフィス勤務の契約で、致死量の有毒ガスが充満する現場へ行けと言われているに等しいのですから。
ですが、苦痛を感じている人を一人でも減らせるのであれば。
「私、行きます」
私はスッと右手を挙げました。
***
渓谷に沿って、前線へと歩を進めます。
少しずつ、轟音と共に地面の振動が足首から骨を伝い、内臓を揺らしてきます。
崖の陰を抜け、視界が開けた瞬間。
私の視界に飛び込んできたのは、地獄の蓋を開けたような光景でした。
「ぁ……」
隣を歩いていた治癒士の一人が、その場にへたり込み、胃の内容物をぶち撒けています。
想像を絶する、という言葉すら生ぬるい。
渓谷の入り口付近。そこは、肉と血が混ざり合ったミキサーのようでした。
身の丈三メートルはあろうかというオークたちが、巨大な棍棒を振り下ろし、ドンッ、というくぐもった音がします。
ルーテシア領の紋章を刻んだ盾を構えていた騎士の上半身が弾け飛び、千切れた腕が、私の足元から数メートル先の地面にボトリと落ちてきます。
「あっ……ぐ、ああぁあ!!!」
鼓膜を突き破るような悲鳴。
視線を向けると、冒険者らしき男が、顔の右半分をドロドロに溶かしながらのたうち回っています。彼の眼球はすでに白く濁って溶け落ち、指の骨が露出した両手で、自分の腹から零れ落ちそうになる腸を必死に押し込もうとしています。
「助け……たす、け……っ」
私はすぐに駆け寄り身代わりを発動させます。
周りを見ると、そこら中にかつて人間だった何かが散乱しています。
血の匂い、排泄物の匂い、肉が焼ける匂い、そして強烈な腐敗臭。
絶望的な戦力差。前衛職の冒険者や騎士たちは、ただひたすらに盾を構え、数秒ごとに削り取られていく己の命と引き換えに、魔族の進行を足止めしているだけです。
「魔導士たちの攻撃と遊撃隊の奇襲が決まるまで耐えるんだっ!!」
絶叫と怒号、命が消える瞬間の断末魔が、休むことなく響き渡ります。
怖い。
それでも、目を逸らすわけにはいきません。私には、私のやるべきことがあるのですから。
「フェイトちゃん、あの大きな魔族たち、やれますか?」
「おねーちゃーん、わたしを誰だと思ってるのー!まかせてっ!」
直後、先ほどまで暴れ狂っていたオークの巨体が、斜めに真っ二つにズレてズルリと地面に滑り落ちました。
空へ噴き上がるオークの血しぶきを背景に、フェイトちゃんは三日月のように口を歪め、私に振り返ってきます。
「おねーちゃん、見ててね……」




