第36話 作戦開始前①
糸のように細い、消え入りそうな声。
「もちろんですよ」
私は即座に頷き、背後に立つ三人の仲間たちへと向き直りました。
「アザミさんと少しだけお話をしてきますので、皆さんはここで待っていてくださいね」
私がそう告げた瞬間、アビゲイルさんの常に開ききっている真っ黒な瞳孔が、さらに周囲の光を吸い込むように大きく広がります。
「……マリー。どこ、いくの」
「すぐそこの、物資の荷車の陰です。見えますから安心してくださいね」
「えー? ボクたちを置いていっちゃうの? あの女と……二人きりでぇ?」
「わたしも行く!お姉ちゃんの傍から離れたくないー」
「皆さん大丈夫ですよ。ちょっとした打ち合わせみたいなものですから。すぐ戻ります」
アビゲイルさんがじっと私を見下ろしながら、「……マリーが、そういうなら待ってる……」と言ってくれたので、私はアザミさんを連れて、広場の喧騒から少し離れた物資用の荷車の陰へと移動しました。
周囲からの視線が遮られた場所で、アザミさんは立ち止まりました。
胸の前で両手をきつく、関節が真っ白になるほどの力で握り込んでいます。
「あの、ね。マリーちゃん……」
「はい。どうされましたか?」
彼女が顔を上げると、その桜色の瞳が怯えたように私を捉えます。
「どうして……マリーちゃんみたいな子が、こんなところに来たの?」
「私みたいな子、ですか?」
「うん。だって、マリーちゃんはまだ新人さんでしょ……? それに治癒士で……こんな、人が一瞬で肉塊に変わるような戦場に……どうして?」
私は瞬きをしました。
(どうして、と問われれば、社畜根性が残ったまま異世界にきてしまった、というのが根本的な原因かもしれませんが……)
しかし、そんなことを伝えるわけにもいきません。
「成り行きが大きい、というのはあります。でも……」
私は、これまで苦しんでいる人たちの顔を思い浮かべました。
「私は、誰かが苦しんでいるのを見るのが嫌なんです。もし、私が手を伸ばすことで助けられる命があるのなら、助けたい。皆さんに、笑って家に帰ってほしい。ただ、それだけです」
私の答えを聞いて、アザミさんが息を飲みました。
彼女の視線が、私の顔から足元の乾いた土へと落ちます。
「マリーちゃんは……本当に、強いね」
ひどく脆い声に、私は静かに首を横に振りました。
「いいえ、私はちっとも強くありません。アザミさんこそ、本当にすごい方です」
「え……?」
「だって、誰かのために行動できるんですから。今回の魔族との戦い……想像を絶するような恐怖で、きっとすごく緊張していらっしゃるはずですよね。それなのに、先ほどは嫌な顔ひとつせず、見ず知らずの私たち初心者を庇ってくれました。私、その優しさを心から尊敬します」
その瞬間、アザミさんの両肩が大きく跳ね上がりました。
「違うっ……!!!」
彼女の小さな身体から発せられたとは思えない、ひび割れた絶叫でした。
その声の大きさに思わず一歩後ろへ退きそうになります。
アザミさんは、ハッとして自分の口を両手で塞ぎました。
桜色の瞳が極限まで見開かれ、そこから大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちていきます。
「あっ……ご、ごめんなさい。大きな声……出すつもり、じゃなくて……」
彼女の膝の力が抜け、そのまま崩れ落ちるようにして土の上にへたり込みました。
スカートの裾が泥で汚れることなど気にも留めず、彼女は自分の細い両腕を掻きむしるようにきつく抱きしめています。
呼吸のペースが異常に速くなり、浅く空気を吸い込む過呼吸の音が漏れ出します。
「ちがうの……わたし、全然すごくなんてない。優しくも、強くもない……っ」
土の上に落ちた涙が、黒い染みを作っていきます。
「怖いよ……怖い、怖いっ……! 吐き気がするくらい、怖いっ!」
彼女の口から溢れ出したのは、これまで必死に貼り付けていた「優しくて気丈な魔法使い」の皮を完全に剥ぎ取った、生々しい恐怖の叫びでした。
「戦いたくない……逃げたい……! 魔族が吐き出す毒で、人がドロドロに溶けていくのを見るのも、血の匂いも、武器が肉に突き刺さる音も……もう、嫌だ……っ!」
彼女の奥歯が鳴る音が聞こえます。
「みんな、死んでいくの……。今まで、無理をして死んでいった人たちを、たくさん見てきた……っ。わたし、見たくない。それに、わたし自身が死ぬのも……怖いっ……!!」
限界だったのだと、すぐにわかりました。
先輩でも、頼れる魔法使いでもなく……彼女もまた、理不尽に命を奪われることを何よりも恐れる、ひとりの普通の女の子だったのです。
「大丈夫ですよ」といった、中身のない定型文の励ましなど、今の彼女の耳には一切届かないでしょう。
社会でもそうです。ノルマの重圧に押し潰され、会社のトイレで吐き気を催している新人に「君ならやれる」という言葉は、呪いでしかありません。
私は、一切の躊躇いなく、泥だらけの地面に両膝を突きました。修道服が汚れることなど、どうでもいいことです。
そのまま、土にまみれて震えるアザミさんの小さな背中に、両腕を回しました。
「あっ……マリー、ちゃん……?」
私は彼女の身体を力強く引き寄せ、自分の胸の中にすっぽりと包み込みました。
彼女の身体はとても冷たく、私の腕の中で小刻みに震えています。
私は彼女の桜色の髪に頬を寄せ、ゆっくりと、一定のリズムで彼女の背中を撫で始めました。
「怖くて当然です。逃げたくて当たり前です」
私の声が、彼女の耳元に落ちます。
「私だって、怖いです。私には攻撃する能力なんて一つもなくて、ただ回復しかできない。ゴブリンの一撃でも食らえば、あっけなく死んでしまうような、無力な存在ですから」
アザミさんの過呼吸が、ほんの少しだけ止まりました。
「でも、だからこそ頑張りたいんです。誰も死なせたくない。みんなを助けたい」
私は彼女を抱きしめていた腕を少しだけ緩め、彼女の顔を覗き込みました。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった彼女の顔。私は自分の親指で、彼女の頬を伝う涙をそっと拭いました。
「私は、アザミさんのことも、絶対に死なせたくありません。私が、貴女を守りますから」
真っ直ぐに、一点の曇りもなく告げたその言葉に、彼女の顔が、みるみるうちに真っ赤に染まり、耳の先まで朱色に変わっていくのがわかります。
「あ……ぅ……っ」
言葉にならない声が彼女の喉から漏れた次の瞬間、アザミさんは私の修道服の胸元に顔をぐりぐりと押し付け、子供のような声でわんわんと泣きじゃくり始めました。
私は何も言わず、ただ彼女の背中を優しく撫で続けました。
やがて、長い時間の後。
しゃくりあげる声が収まり、アザミさんはモジモジと私の胸から顔を離しました。
「ご、ごめんなさい……。マリーちゃんの服、涙と鼻水でぐしゃぐしゃに……」
「これからもっと汚れますから、お気になさらず」
アザミさんは恥ずかしそうに下を向き、指先をいじりながら小さく呟きました。
「……自分でも、驚いてる。こんなこと、誰かに言ったの……初めてだったから。どうして、マリーちゃんの前で、こんなに素直になっちゃったんだろう……」
少しだけ照れたように笑うその表情はとても柔らかく、年相応の可愛らしさに満ちていました。
私は立ち上がり、膝の泥を払いながら空を見上げました。
明朝まで、まだ時間が残っています。
「アザミさん。作戦開始まで、まだもう少し時間がありますね」
私は彼女に向かって、手を差し出しました。
「よかったら、一緒に食事でもしませんか? 少し、お話の続きをしながら」
差し出された私の手を見て、アザミさんはパチパチと瞬きをした後。
今度はとびきり眩しい笑顔を浮かべてくれました。
「うんっ……! 喜んで!」




