第29話 積極的なアビゲイルさん
「……なーんちゃって!」
ベラさんが先ほどまでの冷酷な表情を嘘のように消し去り、ケラケラと甲高い声で笑い出しました。
「あははっ! お姉さん、すっごく怖い顔してたよー? けど、乙女の秘密をバラすのは、ちょぉ~っといただけないよっ!」
彼女は自分の薄水色の髪をくるくると指に巻き付けながら、いつもの愛らしい、完璧な美少女の笑顔でウインクを飛ばしました。
アンナさんは毒気を抜かれたようにポカンとし、やがてギリッと奥歯を噛み締めていました。
(ベラさん、さっきはいつの間に移動したのでしょうか……。ただ、場を和ませようとしてくれたのはありがたいですね)
そんなやり取りに意識が向いていた際、スンスン、と私の下腹部のあたりから、鼻息が聞こえてきました。
見下ろすと、いつの間にかアビゲイルさんが私の腰に腕を回し、顔を私の下腹部にぴったりと押し当てて、犬のように執拗に匂いを嗅いでいます。
「なっ! ちょっ、アビゲイルさん!? ギルドのど真ん中で何を……っ」
「……匂い、する」
アビゲイルさんの真っ黒な瞳孔が、焦点の合わないまま揺れていました。
私の太ももの内側に、彼女の氷のように冷たい吐息が直接吹きかかってきます。
「マリーじゃない匂い……あいつの、香水と汗。それから……」
ズズッ、とさらに鼻を押し付けられ、私はヒッと情けない声を上げて内股になりました。
「マリーの、甘い匂い……。濃い。なんで? ここから、すごいする……」
顔面から火が噴き出しそうです。
先ほど、客間という密室でアンナさんに執拗な触診を受けた箇所。
それをピンポイントで嗅ぎ当てられるなんて、まるで浮気を疑う配偶者のような嗅覚です。
「あはっ! やばぁーい」
ベラさんが腹を抱えて笑い出しました。
「アビィってば、ホント発情期の犬だねぇ。人がうじゃうじゃいるギルドでマリーの股ぐらに顔突っ込むとか、頭湧いてんの? 恥じらいって概念、灰にしちゃったぁ?」
「……うるさい。マリーの匂い、上書きする……」
アビゲイルさんはさらに顔をグリグリと私のデリケートな部分に押し付けてきます。
「ちょ、ストップです! こういう場所では良くないですよっ!」
「……じゃあ自宅ならいいの……?」
「見てよお姉さん、この犬~。お姉さんのせ・い・で、こうなっちゃったのかもよぉ~」
「……ちっ」
ベラさんはアンナさんまで煽り始めています。
(先ほどのアンナさんとのやりとりを見られていたのでしょうか……)
私は真っ赤になった顔を隠すように、アビゲイルさんの頭を必死に引き剥がしました。
***
王都の通りを、ギルドが用意してくれた社宅へ向かって歩きます。
(……痛い)
私は、繋いだアビゲイルさんの手に力を込めながら、必死に表情筋を制御していました。
鉱山での崩落事故。
下半身を岩にすり潰された少女や、けが人を癒やした身代わりの反動が、今まさに私の体内で暴れ出そうとしています。
社畜アドレナリンの効果が切れかかっており、歩くたびに骨盤が砕けるような幻痛が、じわじわと神経を侵食し始めていました。
早く家に帰って、ベッドに横にならなければ。一人きりになって、あの狂乱の痛みをやり過ごさなければ。
(でも、どうやってやり過ごしましょうか……タオルの端を噛みちぎるだけでは、絶対に叫び声を抑えきれませんし)
冷や汗が額を伝い、私の呼吸がわずかに乱れたのを、隣を歩くベラさんは見逃しませんでした。
「……ねえ、マリー」
ベラさんが、ひょいっと私の顔を覗き込んできます。
「なんか顔色悪くない? すっごく汗かいてるし」
「いえ、なんでもありませんよ。少し歩き疲れただけです」
私が笑顔で誤魔化そうとすると、ベラさんはアビゲイルさんの方を向いて、ポンッと手を打ちました。
「あ! そうだアビィ! 今日はボクたちがマリーにご馳走を作ってあげようよ! マリー、お仕事で疲れちゃってるみたいだし!」
「……え? 私が、マリーに、ごはん?」
「そ! だからさ、アビィは市場の東側でお肉と野菜を買ってきて! ボクは西側でパンとか買ってくるから! ほらほら、早く行かないと市場閉まっちゃうよ!」
ベラさんは有無を言わさぬ勢いでアビゲイルさんの背中を押し、強引に路地の向こうへと追いやりました。
その背中を押す際、ベラさんの魔力が甘い臭いと共にアビゲイルさんに触れたような気がします。
「え、あ、ちょっと……マリー、待ってて。すぐ戻るから……っ」
アビゲイルさんは名残惜しそうに振り返りながらも、私が「お願いしますね」と微笑むと、買い出しに向かっていきました。
(……ベラさん、私のこの後の症状を察して、アビゲイルさんを遠ざけてくれたんですね)
あの執着心の強いアビゲイルさんの前で痛みに転げ回れば、彼女がパニックを起こすことは目に見えています。ベラさんは、私の秘密を守るためにあえて気を利かせてくれたのでしょう。
(なんて優秀で、気配りのできる人なのでしょうか……!)
私はベラさんの背中に深い感謝を念じながら、足早に家の扉を開けました。
***
ガチャン、と鍵を閉めた瞬間。
ピンと張り詰めていた緊張の糸が切れました。
「——っ、ぐっ、ううぅぅぅうう……!!」
両足の骨がミンチにされ、腹部が真っ二つに引き裂かれる強烈な幻痛が、脳を直接殴りつけました。
私は玄関の冷たい床に膝から崩れ落ち、そのまま絨毯の上を転げ回りました。
「はぁっ、ひゅぅっ……! うぐぅ……ぁっ!」
息ができません。涙と鼻水がとめどなく溢れ、口の端から涎が垂れ落ちます。
「痛いぃぃ……痛い……」
下半身の肉がすり潰され、骨まで削り取られるような圧倒的な苦痛。
私は絨毯を爪が剥がれるほどの力で掻き毟り、声にならない絶叫を漏らしました。
その時。
ガチャリ、と。
施錠したはずの玄関の扉が開き、軽い足音がリビングに響きました。
(……えっ?)
買い出しに行ったはずのベラさんでした。
彼女は、床で涎を垂らしてのたうち回る私を見下ろし、口元に手を当てていました。
「あっは。た・だ・い・まっ! マリィ~……」
「べ、らさん……っ、どうし、て……っ、あ゛あ゛あ゛っ……!」
私が痙攣しながら問いかけると、ベラさんはふわりと私の体の上に跨りました。
ドンッ、と。
彼女は私の両手首を床に押さえつけ、そのまま自分の指を私の指の間に深くねじ込み、ガッチリと恋人つなぎの形で拘束しました。
「アビィならボクの幻影を追いかけて、今頃市場の反対側を走り回ってるから大丈夫だよぉ~」
「え……?」
「だって、見たいじゃんねっ。マリーがボロボロになって、泣き叫んで、ぐちゃぐちゃに壊れるところ」
私の上に馬乗りになったベラさんは、興奮で頬を真っ赤に染め、瞳孔を爬虫類のように細く収縮させていました。
その顔に張り付いているのは、隠しきれない歓喜と、底知れないサディズム。
「あはっ……あははははっ! ねぇマリー、すっごくいい顔! 涎まみれで、涙ボロボロで、最高にみっともないよぉ!」
「あ゛、ぐ、うぅぅ……っ!」
私は痛みに身をよじりますが、ベラさんは両手を恋人つなぎで押さえつけたまま、絶対に逃してくれません。
私の狂乱する姿を特等席で見下ろし、彼女の甘い吐息が私の顔にかかります。
「もっと鳴いてよ。もっと苦しんで。キミのその空っぽの頭が、痛みに塗り潰されて狂っていくの、すぅーーっごくゾクゾクするっ……!」
(ああ……ベラさん……っ)
朦朧とする意識の中で、私は彼女の行動の真意を理解しました。
(私が孤独と痛みに押し潰されないように、気を逸らそうとしてくれているのですね……っ!)
激痛にのたうち回りながらも、私は私を押さえつける彼女の熱い手と、その狂気的な笑顔に、頼もしさすら感じていました。
やがて、永遠にも思えた時間が過ぎ、ピークを越えた痛みが引いていき、幻痛は鈍く重い痛みへと変わっていきました。
特に、少女の怪我を肩代わりした下半身には、鉛を埋め込まれたような重い疲労感と、ガクガクとした震えが残っています。
「はぁ……はぁ……っ、ありがとう、ございます、ベラさん……」
私が荒い息を吐きながら礼を言うと、ベラさんは信じられないものを見るようにポカンとし、やがて「あはっ、マリーってホント馬鹿だよねぇ」と腹を抱えて笑い出しました。
そして、ふと玄関の方へと視線を向け、悪魔のように魅惑的な笑みを浮かべます。
「……そろそろ、アビィが帰ってくるね」
その言葉と同時に、玄関の扉が開きました。
ガチャリ。
「……マリー? ごめん、ベラを見失って、買うの遅くなっ……」
食材を抱えたアビゲイルさんが玄関に足を踏み入れたと同時に、私は慌てて床から立ち上がりました。
下半身はまだ重く、足の震えが止まりません。顔は涙と鼻水、よだれの跡で酷いことになっている自覚はありましたが、私は両手で頬をパンッと叩き、気合で笑顔を作りました。
「お、おかえりなさい、アビゲイルさんっ」
「——っ!?」
私の顔を見た瞬間、アビゲイルさんの手から食材がドサリと落ちました。
中のトマトやじゃがいもが、コロコロと床を転がっていきます。
「マリー……? なんで、そんな、顔……。泣いて、るの……? 汗、びっしょりで……」
アビゲイルさんの黒い瞳孔が激しく揺れ動き、足元からどす黒い瘴気が漏れ出しそうになります。
彼女の視線が、私の横でニヤニヤと笑っているベラさんに突き刺さりました。
「……お前、マリーに何した」
「えー? ボクは何もしてないよぉ? 帰ってきたらこうなってたんだもん~」
私はパニックになりそうなアビゲイルさんを落ち着かせるため、痛む足を引きずりながら彼女の元へ近づきました。
「大丈夫ですよ、疲れが出ただけです! ほら、リビングに行きましょう?」
私はアビゲイルさんの冷たい手を取り、リビングのソファへ向かって歩き出そうとしました。
しかし。
(あっ……)
一歩踏み出した瞬間、ダメージの抜けきっていない両足から完全に力が抜け落ちました。
カクンッ、と膝から崩れ落ちます。
手を繋いでいたアビゲイルさんを巻き込む形で、私は彼女の身体に覆い被さるように床へと倒れ込みました。
「きゃっ!」
「……っ!?」
ドンッ、と。
私は、仰向けに倒れたアビゲイルさんを床に押し倒し、完全に馬乗りになるような体勢になってしまいました。
「す、すみません! 足がもつれてしまって……! お怪我は……っ」
私が慌てて謝罪しながら身を起こそうとした際、アビゲイルさんの両腕が、私の背中に深く、強く回されました。
「——ううん。大丈夫」
私を見上げるアビゲイルさんの真っ黒な瞳が、とろけるような、ねっとりとした熱を帯びていました。
彼女は私が痛みに顔を歪め、荒い息を吐いているのを察知すると、自身の洋服のボタンに手を掛けました。
「えっ? ア、アビゲイルさん!?」
バサッ、と。
彼女は上半身の衣服を惜しげもなくはだけさせ、透き通るような白い素肌と、胸の谷間を完全に露出させました。
「マリー。痛いんだよね。苦しいんだよね。……ここで、休んで」
彼女は私の後頭部を引き寄せると、自身の胸の間に、私の顔を深く埋め込ませたのです。
「むぐっ!?」
「ん……よしよし、マリーの痛いの、全部私が吸ってあげるから……。私の匂い、いっぱい嗅いでいいよ……」
アビゲイルさんは母性というよりは狂気的な執着を込めて私の頭を抱き込み、自分の素肌にグリグリと押し付けてきます。
むせ返るような彼女の甘い匂いと、柔らかな素肌の感触。
私は息ができず、ジタバタと足を動かしますが、下半身の痛みのせいで力が入りません。
(こ、これはこれで……別の意味で命の危機です……っ!)
「あっははははっ!」
そんな私たちの姿を上から見下ろしながら、ベラさんがお腹を抱えて大爆笑していました。
「いやー、アビィってば、むっつりだと思ってたけど、すぅーっごく積極的だなぁ〜! マリーが匂い嗅ぐの好きかどうかもわからないのにねぇ~!」
「マリーは、私の。ずっと、こうしてるの……ふふっ、あはっ……」
アビゲイルさんの恍惚とした重い愛の拘束と、ベラさんの悪魔のような笑い声が交差するリビングで、私は脳が感じている痛みが引くのを待つだけでした。
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ここまで読んでいただいている皆さん、いつも本当にありがとうございます!
初めて投稿する長編作品となってますので、
物語の進行が遅かったり冗長気味と思うこともあるかもしれません……申し訳ありませんm(__)m
最後まで付き合ってよかったかな、と思ってもらえる作品になるよう投稿していきますので、引き続きお付き合いいただければと思います!
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