第25話 おかしな人がまた一人
新調されたギルドの扉を開け放とうとした私の背中に、冷たい声が突き刺さりました。
「ちょっと待ちなさい」
振り返ると、カウンターの奥からアンナさんが目を細め、私の背後にぴったりと張り付いているベラさんを睨み据えていました。
「そこの……小悪魔。あんた、ギルドカードは持ってるの? 身元もわからない得体の知れないやつを、マリーちゃんに同行させるわけにはいかないわ」
アンナさんの声には、隠しきれない敵意がドロドロと混じっています。
しかし、ベラさんはその殺気を浴びても、完璧な美少女の笑顔を一切崩しませんでした。
「えー? ひどーい。ボク、ちゃんと冒険者登録してるもん。……これのことー?」
薄水色の髪を揺らしながら、ベラさんは黒いワンピースのポケットから一枚の金属板を指の間に挟んで取り出しました。
キンッ、と軽い音を立ててカウンターに放り投げられたそれを見て、私は思わず眉をひそめました。
そこに刻まれている文字群が、またしても異常だったからです。
【氏名】 ベラドンナ・フェルモティ(Belladonna Fermoti)
【年齢】 ■■■
【種族】 人
【職業】 幻惑士
【レベル】 ■■■
【HP】 ■■■■
【MP】 ■■■■
【STR】 ■■■■
【VIT】 ■■■■
【INT】 ■■■■
【DEF】■■■■
【RES】 ■■■■
【DEX】 ■■■■
【LUK】 ■■■■
【スキル】
・BOND TO FALLEN
・胡蝶の毒夢
・誓縛の霊薬
・致死毒の糸
・秘密の果実
【称号】
・■■■■■■ FALLEN ■■■■■
「……えっと、これもまた、水晶のバグでしょうか」
アビゲイルさんのギルドカードと同じように、肝心な部分が真っ黒なノイズで塗り潰されています。
しかも、スキル欄に並ぶ単語の数々は、どう見ても善良な冒険者が持つようなものではありません。
「んー? おかしいなー。今まではちゃーんと表記されてたのに。ギルドの魔道具、壊れてるんじゃないの?」
ベラさんは首を傾げ、瞳をぱちくりと瞬かせて不思議そうに呟きました。
そのあどけない仕草から発せられる、脳を痺れさせるような甘い香り。
アンナさんは、はぁ……、と深いため息を吐き出しました。
「まぁいいわ。ギルドカードが本物なら、システム上クエストの受注と同行は許可されるから。……マリーちゃん、背後には気をつけるのよ」
アンナさんの忠告に、私は「はい!」と元気よく頷きました。
***
舗装されていない街道を進む乗合馬車の車内は、お尻の骨が砕けそうなくらい酷く揺れました。
向かい合わせの狭い座席。私の右腕には、乗車してからずっと、アビゲイルさんが蛇のように絡みついて離れません。
彼女の冷たい体温が、私の修道服越しにじっとりと伝わってきます。
「……マリー」
「はい、どうかしましたか?」
「……揺れる。マリーの肌が、すれる……」
アビゲイルさんの焦点の合わない真っ黒な瞳が、私の足元に縫い付けられていました。
馬車が大きく跳ねるたび、新調したばかりの修道服――両サイドに深いスリットの入った『機動性特化』らしい布地がめくれ上がり、太ももが晒されてしまいます。
その度に、アビゲイルさんの指先が私の膝頭を這い上がるようにじわじわと伸びてくるのです。
「アビゲイルさん、くすぐったいですよ」
私はアビゲイルさんの手をどかすために、手を繋ぎました。
「あはっ! アビィってば、ホントに犬みたい。わんわんっ!」
向かいの席で、ベラさんが足をブラブラと揺らしながら、犬の真似をしながらくすくすと笑い声を上げています。
「……うるさい。灰になりたいの?」
抑揚の一切ない、純粋な殺意。
アビゲイルさんが顔を上げないまま呟くと、ベラさんは全く怯むことなく、むしろ歓喜に満ちたように唇をペロリと舐めました。
「やれるもんならやってみなよ~~。ボクの毒で、キミのその空っぽの頭、ドロドロに溶かして本当にからっぽかどうか確かめるからさぁ~!」
「ふふっ。二人とも、冗談を言い合えるほど仲が良くなったのですね。……ですが、ほどほどにしましょう」
私が二人の間に身を乗り出し、ベラさんの手とアビゲイルさんの手を強引に重ね合わせた瞬間。
「ひっ」
「げっ」
二人は同時に声を上げ、弾かれたように手を引っ込めました。
「……」
「お手なんていってないよ~」
(ふふっ、少し不器用ですが、こうやって徐々にコミュニケーションを取って、関係性が構築できるといいですね)
私はすっかり気を良くして、窓の外を流れる景色に目を向けました。
***
隣町、トナーレ。
到着した鉱山の入り口は、王都の平和な空気とは完全に断絶された、地獄の様相を呈していました。
空気を埋め尽くすのは、肺をチクチクと刺す岩の粉塵と、錆びた鉄の匂い。
そして、むせ返るような濃い血の悪臭。
「こちらです! 早く、治癒士の方を!」
泥とススで真っ黒になった依頼人の男が、私たちを見るなり叫び声を上げました。
急造された野戦病院の天幕の中には、岩盤の下敷きになった鉱夫たちが足の踏み場もないほど並べられています。
ちぎれかけている腕。ひしゃげた足。
絶叫と、くぐもったうめき声が鉱山の入口に響きます。
すでに現地に派遣されていた他の治癒士たちは、魔力枯渇で疲弊し、重傷者の前で首を横に振って立ち尽くしていました。
「……ひどい有様ですね」
私は修道服の袖を捲り上げました。
社畜アドレナリンの発動。
視界の端のノイズが消え去り、脳の処理速度が跳ね上がる気がします。
これから訪れるであろう莫大な身代わりの負債。
そのすべてを、終業時間まで完全にマスキングする壁の展開。
私は、完璧な営業スマイルを顔面に貼り付けました。
「ねぇ、マリー」
踏み出そうとした私の背中に、甘く、ねっとりとした声が絡みつきました。
振り返ると、ベラさんが髪を揺らしながら、足元に転がる血まみれの鉱夫を冷たい目で見下ろしていました。
「こんなの、もう助からないよ。……マリー、これまた苦しむんじゃないの?」
ベラさんの瞳が、私の顔をじっと探るように見つめてきます。
あの時、私が彼女の致命傷を肩代わりし、床を転げ回って狂乱した姿。それを知っているからこその、探りを入れるような問いかけ。
しかし、私の思考はすでに完全な業務モードに切り替わっていました。
「何のことですか?」
私は、一片の曇りもない、朗らかな笑顔で首を傾げました。
「私はただ、お仕事をするだけですよ。何の心配もいりません」
痛覚なんて、今は微塵も感じないのですから。
私のその屈託のない答えを聞いた瞬間。
隣に立っていたアビゲイルさんが、不思議そうに首を傾げました。
「……苦しむ? マリーが? なんで?」
アビゲイルさんの黒い瞳が、ベラさんと私を交互に捉えます。
(隠し事をしているようでなんだか申し訳ないですね……)
「――」
そのアビゲイルさんの無知な反応を見た瞬間。
ベラさんの顔から、スッと表情が抜け落ちました。
ほんの一瞬。そして次の瞬間、ベラさんの唇が、耳元まで裂けんばかりの、三日月の形に歪み上がりました。
「あはっ!くっくくっ……!」
声に出さない、歓喜の笑い。
ベラさんの瞳孔が爬虫類のように細く収縮し、その奥に、底なしの悪意と愉快犯としての悦びが溢れ出すのが見えました。
ベラさんだけが知っている、私の壊れた姿。
ベラさんの視線が、アビゲイルさんを最高の玩具を見つけたかのように、舐め回すように這い上がります。
「……なに。その目」
アビゲイルさんの周囲の空間が、ピキリと凍りつきました。
彼女の虚無の瞳が、ベラさんの異常な視線に反応し、物理的な圧を伴って睨み返します。
「えへへぇ。なんでもなーい。アビィってば、ホントに何も知らないんだねぇって思っただけだよぉ〜」
ベラさんが、鼓膜に毒を流し込むような甘い声で囁きます。
二人の間に、目に見えない火花が散り、周囲の空気がギリギリと悲鳴を上げ始めました。
しかし、そんな二人のやり取りに構っている暇は、今の私にはありません。
「さあ、お待たせしました。それでは、治療していきましょうか」
私は岩に潰された鉱夫の元にひざまずき、べっとりと血のついたその両腕に、自らの手を重ね合わせました。




