第23話 長い一日の終わりです
白く濁った湯気が、浴室に重く立ち込めています。
そんな中、私の太ももに絡みついた柔らかい感触から妙にねっとりとした熱が伝わってきます。
(……少し、頭が回らなくなってきましたね)
額から噴き出した汗が、まつ毛を伝って視界を滲ませます。
大きく息を吸い込もうとしても、肺に入ってくるのは酸素の薄い水蒸気ばかり。心臓が肋骨の裏側で、ドッドッと打ち始めていました。
ぼやける視界の中で、私の胸元に顔を埋めていたアビゲイルさんが、ゆっくりと頭を上げました。
彼女の濡れた前髪から滴った雫が、私の頬を打ちます。
「……マリー」
ひどく掠れた、喉の奥を引っ掻くような声。
見上げた彼女の真っ黒な瞳は、いつも以上に瞳孔が開ききっていました。
彼女の視線が、私の汗ばんだ額から、熱を持って赤く染まった頬、そして半開きのまま荒い呼吸を繰り返す唇へと、舐め回すように這い下がっていきました。
アビゲイルさんの細い喉仏が、大きく上下に動く音が響きました。
私の首筋に添えられた彼女の指先に、ギリッ、と強い力が込められます。
顔が、近づいてきます。
彼女の冷たい吐息が私の唇に触れ、微かに開かれた彼女の口元から、僅かに尖った犬歯が覗きました。
(なんだか、すごく……飢えているような目ですね。夕食前でお腹が空いているのでしょうか)
私が呑気なことを考えていたその時。
バンバンバンッ!!と、浴室の分厚い扉が、外から乱暴に叩かれました。
「ねーえー! おっそーい!! いつまで入ってんのさ!」
脱衣所から響いてきたのは、ベラさんの不満げな声でした。
「ボク、もうお腹すいて死んじゃいそうなんだけど! イチャイチャしてないで早くご飯にしよーよぉ!」
その声に、私はビクッと肩を震わせ、急速に意識が現実へと引き戻されました。
長湯のしすぎです。共同生活において、他の同居人を待たせるのは重大なマナー違反ですね。
「す、すみませんベラさん! 今出ますから!」
私は扉越しに声を張り上げると、目の前のアビゲイルさんに視線を戻しました。
彼女は、私の唇からわずか数センチの距離でピタリと動きを止めていました。
扉を睨みつける彼女の黒い瞳には、純度百パーセントのどす黒い殺意が渦巻いています。
「……あいつ、いま、殺したい……」
「ダメですよ……。ほら、私たちものぼせてしまいますから、そろそろ上がりましょう」
私は、お湯の中で私にまたがったまま硬直しているアビゲイルさんの腰に、両手を回しました。
立ち上がるために、彼女の身体を抱え上げるようにして力を込めます。
「――――あれ?」
私は、立ち上がったまま首を傾げました。
アビゲイルさんは私より少し背が高く、女性らしい肉付きもしっかりとしています。
それなのに。
私の両腕に抱え上げられた彼女の身体が、恐ろしいほど軽く感じられたのです。
(……私の筋力、こんなにありましたっけ?)
不思議に思いながら腕を曲げ伸ばししてみますが、関節の軋みも筋肉の疲労も全くありません。
「マ、リー……?」
突然宙に浮き上がったアビゲイルさんが、驚いたように私の首にしがみついてきました。
「ほら、出ますよ。しっかり掴まっていてくださいね」
私は彼女を抱えたまま、鼻歌交じりに湯船を跨ぎ出しました。
「湯冷めしてしまいますからね」
脱衣所に出るなり、私は自分の身体もそこそこに、アビゲイルさんの長い黒髪をバスタオルで包み込みました。
手早く水気を拭き取り、備え付けの寝間着を上から被せる。自身も急いで袖を通し、私たちはリビングへの扉を開けました。
「おっそーい! ボク、本当に餓死するかと思ったよ!」
リビングに足を踏み入れた途端、ソファで足をバタバタさせていたベラさんが、頬をぷくっと膨らませて抗議してきました。
しかし、私の視線は彼女の怒った顔ではなく、テーブルの上に並べられた光景に釘付けになりました。
湯気を立てるローストチキン、白身魚のソテー、新鮮な野菜のサラダに、山盛りの焼き立てパン。
ギルドの社宅に備え付けられていた食材とは思えません。
「ベラさん、これは一体……?」
「えへへ、マリーたちがちっとも出てこないからさ、ボク、ちょっと外に買い出しに行ってきたんだぁ」
ベラさんは得意げに胸を張り、薄水色の髪を指に巻き付けながらウインクを飛ばしました。
「買い出しって……でも、お金は……」
「あー、大丈夫大丈夫! 大通りの屋台のおじさんたちに、『ボク、お腹すいて動けないのぉ』ってお願いしたらさ、みーんなニコニコして、『お嬢ちゃんには特別にタダでやるよ!』って、いーっぱい持たせてくれたんだよねっ」
悪びれもせず言い放つ彼女に、私は愕然としました。
(なんという愛嬌……! 愛嬌が良いだけで取引先との成約がうまくいくというのはよくありますが、異世界でも同じなのですね)
彼女の可愛い顔立ちと甘い声なら、道行く男性が財布の紐を緩めてしまうのも頷けます。
とはいえ、いくら何でも気前が良すぎます。何か裏があるのではと一瞬頭を過りましたが、目の前の料理から漂う暴力的なまでの良い香りが、私の貧弱な思考力を完全にノックアウトしました。
「ベラさん、ありがとうございます!素晴らしい同居人を持てて、私は幸せ者です!」
「あはっ、マリーってば大げさだなぁ。ほらほら、冷めないうちに食べよ!」
私たちはテーブルを囲み、椅子に腰を下ろしました。
私の右隣にはベラさんが、左隣には絶対に離れようとしないアビゲイルさんが陣取ります。
「では、主の恵みに感謝して。いただきます」
私が手を合わせると、二人も見よう見まねで手を合わせました。
コンビニ弁当とは違う食事。
私は無言で次々と胃袋へと流し込みました。
その間、左隣のアビゲイルさんは全く食事に手をつけていませんでした。
彼女はフォークを持ったまま、ただじっと、私の口元が動くのを凝視しています。
「アビゲイルさん、食べないのですか?」
「……マリーが、たべてるの、見てるだけで……おなかいっぱい……」
「ちゃんと栄養を摂らないと倒れてしまいますよ。ほら、あーん」
私がフォークに刺したお肉を彼女の口元に運ぶと、アビゲイルさんはビクッと肩を跳ねさせ、パクリとそれを咥え込みました。
フォークの先端までねっとりと舐め取るその仕草に、背筋が少しゾクッとしました。
「でさぁ、マリー」
向かい側に座るベラさんが、サラダを上品に口に運びながら話しかけてきました。
「これからどうするつもりなの? こうしてギルドに転がり込めたのはいいけどさ、ずっと居ていいわけじゃないでしょ?」
核心を突く質問です。
私は口の中のパンを飲み込み、姿勢を正しました。
「はい。当然、このままで、というわけにはいきません。明日の朝から、私はこれまで通り救護院での治癒業務に入ります」
「救護院~?そんなところで何するのさ」
「仮にもシスターですからね。けが人の治療です。そこで日払いで少しの賃金がもらえるんです」
私は両手をグッと握り締め、力強く宣言しました。
「昼間は救護院のシフトに入り、夜間と休日はギルドのクエストをこなすダブルワークでいきます! 当面の目標は、引っ越し資金と生活資金の確保です!」
睡眠時間を削ってでも労働に打ち込む。これぞ社畜の鑑です。
私の熱弁を聞いたベラさんは、ぽかんと口を開けた後、ひくひくと唇の端を痙攣させました。
「……マリーってさ。本当に、ただのバカ、だよね」
「えっ?」
「あはっ、なんでもなーい! ボク、マリーのそういうおかしいところ、だーいすきっ」
ベラさんはケラケラと笑いながら、自分の皿の肉を私の皿へと放り込んできました。
***
「では、おやすみなさい。明日は早いですから」
部屋の中央に鎮座する巨大なベッド。私が真ん中に潜り込むと、すかさず両サイドからスプリングが沈み込みました。
「……マリー。おやすみ……」
アビゲイルさんの冷たい腕が、私の腰に巻きつきます。彼女の鼻先が私の首筋に押し当てられ、すぅーっ、と深く匂いを吸い込む音が響きました。
「おやすみぃ~」
右側からは、ベラさんが私の腕に自分の腕を絡ませてきました。
両側から完全にホールドされ、身動き一つ取れない状態。
普通なら息苦しくて眠れないはずですが、なぜかひどく安心感がありました。
彼女たちの静かな呼吸音を子守唄代わりに、私は深い眠りにつきました。




