第22話 二人でお風呂に入ります
ギルドが手配してくれた真新しい社宅のリビング。
備え付けの振り子時計が、カチ、コチと規則正しい音を刻んでいます。
その規則的なリズムすらかき消すほどの、ねっとりとした沈黙が部屋を支配していました。
私の斜め向かいのソファ。そこから、瞬き一つしない真っ黒な瞳が、私の顔面にべったりと張り付いています。
「…………」
アビゲイルさんです。
彼女は両膝を抱え込むような姿勢で座り、ただひたすらに私を凝視していました。
私がティーカップに手を伸ばせばその指先を。息を吐いて胸が上下すればその起伏を。
(同じ島の席から無言で案件進捗を監視してくるマネージャーを思い出しますね。ひどく胃が痛くなるプレッシャーです)
手元の紅茶が、ちっとも喉を通っていきません。
(何か、私に対してご不満があるのでしょうか。それとも、新しい環境に馴染めずストレスを抱えている……?)
沈黙の圧力に耐えきれず、私が愛想笑いを浮かべて口を開きかけた、その時です。
バタン、と。
脱衣所に続く廊下の扉が開き、パタパタと軽い足音がリビングに戻ってきました。
「あちゃー。やっちゃった、ボクとしたことが石鹸忘れちゃったよ」
ベラさんが薄水色の髪を揺らしながら戻ってきました。
これからお風呂に入る予定だった彼女は、タオルを片手に、わざとらしく舌を出して見せます。
しかし、部屋に満ちる異様な空気に気づいたのか、ベラさんの足がピタリと止まりました。
彼女の瞳が、ソファで硬直している私と、私から一切視線を外そうとしないアビゲイルさんを交互に捉えます。
「……はっはーん」
ベラさんの完璧な造形の唇が、三日月のように釣り上がり、底意地の悪い笑み。
「なんだか、すっごくお邪魔な雰囲気だねぇ。アビィ、そんなにマリーのことが気になるならさ、二人で一緒にお風呂に入ればいいじゃん?」
ベラさんが、からかうような、煽るような声で爆弾を投げ込みました。
「――ッ!」
アビゲイルさんの肩が、大げさに跳ね上がりました。
ずっと私に固定されていた真っ黒な瞳孔が、初めて激しく揺れ動きます。
「マリー……。あのね、私……」
アビゲイルさんの喉の奥から、空気が漏れるような音がしました。
彼女の血の気のない白い頬に、じわじわと熱が広がり、赤く染まっていくのがわかります。
アビゲイルさんは、パクパクと唇を開閉させながら、私の方へ恐る恐る手を伸ばしかけました。
その指先が、微かに震えています。
(……なるほど。一緒にお風呂に入りたかったけれど、言い出せずにモジモジしていたのですね)
チームビルディングにおいて、裸の付き合いは日本の伝統的なコミュニケーション手段です。
アビゲイルさんが言葉を紡ぎ出すよりも早く、私は座り方を正し、満面の笑みを向けました。
「一緒に入りましょうか、アビゲイルさん」
「――――っ!」
アビゲイルさんの顔面から、一瞬にして感情のストッパーが吹き飛ぶのが見えました。
虚無を宿していたはずの黒い瞳が、とろけるような熱を帯びて細められます。
彼女の唇の端が、耳元まで裂けんばかりの歪な弧を描きました。
「……うんっ。入る。ふふ、あはっ……」
ひどくねっとりとした、熱に浮かされたような声。
私はその不気味なまでの歓喜を「よっぽどお風呂が楽しみなんだな」と脳内で好意的に変換し、ベラさんの方へと振り返りました。
「ベラさんも、せっかくですから三人で一緒に入りませんか? 背中、流しますよ」
「えーっ、お誘いはすっごく嬉しいんだけどぉ……ボクは一人でいいやー。絶対に入ってこないでね~?」
ベラさんは胸の前で両手でバツ印を作り、ウインクをして見せます。
(お年頃の女の子ですからね。恥じらいがあるのは当然ですね)
私は深く頷き、彼女のプライバシーを尊重することにしました。
「わかりました。では、ベラさんが先に入って、上がったら私たちが入りましょう」
「うんっ、そうしよ。じゃあ、お先に~」
ベラさんは石鹸を手に取り、スキップを踏むようにして再び脱衣所へと消えていきました。
パタン、と扉が閉まる音。
リビングには再び私とアビゲイルさんの二人きりになりましたが、先程までの重苦しい沈黙は嘘のように消え去っていました。
アビゲイルさんはソファから立ち上がり、私のすぐ隣まで音もなく移動してくると、私の修道服の袖をきゅっと握りしめました。
「……おふろ、まだかな?」
「……ベラさんが上がってからですよ。順番待ちです」
「長い。待ちきれない」
アビゲイルさんの冷たい額が、私の肩口にすりすりと押し付けられます。
彼女の鼻先が私の首筋の匂いを直接嗅ぎ取ろうとするように、深く、長い呼吸音が耳元で繰り返されました。
それから数十分後。
ガチャリと扉が開き、湯気を纏ったベラさんがリビングに戻ってきました。
薄水色の髪が濡れて肌に張り付き、ほんのりと上気した頬が、同性の私から見てもドキッとするほど艶やかです。
「はーっ、いいお湯だったぁ。おまたせー、マリー。アビィも」
甘い石鹸の香りを振り撒きながら、ベラさんがバスタオルで髪を拭きます。
「お疲れ様です。それでは、私たちも行きましょうか」
私が立ち上がると、アビゲイルさんは私の手首を掴んだまま、無言で、そして恐ろしいほどの速さで脱衣所へと私を引きずっていきました。
脱衣所に入ると、まだベラさんの使った後のむわっとした熱気と、甘い香りが充満していました。
足元のマットが、微かに湿っています。
「さて、洋服を脱いで……」
私が修道服のボタンに手を掛け、ふと振り返った時のことです。
「…………え?」
呼吸が、止まりました。
私のすぐ背後。腕を伸ばせば届く距離に、アビゲイルさんが立っていました。
一糸まとわぬ、完全な全裸で。
脱衣所の扉を閉めてから、そんなに時間も経っていません。
どうやったらあのような複雑な構造のドレスを、これほどの速度で、しかも音もなく脱ぎ捨てることができるのでしょうか。
床には、彼女の着ていた服が抜け殻のように綺麗な山の形を作って落ちていました。
光を吸い込むような黒髪が、透き通るような白磁の肌に張り付いています。
私とは違い、女性らしい胸の起伏。引き締まった腰のライン。
しかし、そんな彼女の美しい裸体よりも、私の視線を釘付けにしたのは、彼女の目でした。
「…………」
アビゲイルさんは、ピクリとも動かず、ただ私の手元を見つめていました。
修道服のボタンに掛けられた私の指先。布地がわずかに開いて覗く鎖骨。
その一切合切を、瞬き一つせずに、文字通り舐め回すように凝視しているのです。
黒い瞳孔が限界まで開ききっています。
「あ、あの……アビゲイルさん。そんなに見つめられると、脱ぎづらいのですが……」
私が頬を熱くして抗議しても、彼女は微動だにしません。
「……気にしないで」
「……前も言いましたが、同性同士でも、恥ずかしいのですよ」
羞恥心で顔面から火が出そうです。
しかし、彼女が視線を外す気配は全くないため、私は半ば諦めるようにして、ぎこちない手つきで衣服を脱ぎ捨て、逃げるようにして私は浴室の扉を開けました。
浴室の中は、真っ白な湯気で満たされていました。
ギルドの設備だけあって、魔道具で温められた広い湯船には、なみなみとお湯が張られています。
「まずは、身体を洗いましょう」
私は椅子に腰掛け、アビゲイルさんにも隣に座るように促しました。
「私が洗ってあげますよ。後ろを向いてください」
アビゲイルさんが大人しく背中を向けると、私は泡立てた布で、彼女の滑らかな白い背中を滑らせました。
黒い絹糸のような髪をかき分け、首筋から肩甲骨へと洗っていきます。
彼女の体温は相変わらずひんやりとしていて、お湯をかけてもすぐに熱が逃げてしまうようです。
「……ん……あったかい……」
アビゲイルさんの口から、とろけるような吐息が漏れました。
私が肌に触れるたびに、彼女の背中がビクン、ビクンと小さく跳ねます。
洗い終えた後、今度は彼女が私を洗うと言って聞かなかったため、背中を任せました。
しかし、彼女の指先は布を使うよりも直接私の肌を撫で回す時間が異常に長く、背骨のラインを一つ一つ確かめるようなねっとりとした手つきに、私は居ても立っても居られなくなりました。
「も、もう十分綺麗になりましたから! 湯船に入りましょう!」
私は慌てて立ち上がり、湯船の方へと逃げ込みました。
ざばぁっ、とお湯が溢れ出します。
肩までお湯に浸かると、凝り固まっていた筋肉がじんわりと解れていくのを感じました。
「ふぁぁ……生き返りますね」
思わずおじさんくさい声が漏れてしまいます。
浴槽につかるなんていつぶりでしょうか。
目を閉じてお湯の温もりを堪能していると、ザバァッ! と、湯船のお湯が大きく波打ちました。
目を開けると、アビゲイルさんが湯船に入ってきたところでした。
しかし。
彼女は私の隣に並んで座るのではなく、なぜか真っ直ぐに私の方へと向かってきました。
「えっ……? アビゲイルさ――」
アビゲイルさんは私の真正面に立つと、お湯の中に沈む私の太ももを跨ぐようにして、腰を下ろしてきたのです。
「えっと……?」
私の思考が、一瞬完全に停止しました。
私の上に馬乗りになるような、完全な密着状態です。
お湯の中で、彼女のひんやりとした太ももが、私の足にぴったりと絡みついてきます。
そして、私のささやかな胸とアビゲイルさんの胸が触れ合うように密着してきます。
「あ、あの、アビゲイルさん。これはいったい……?」
いくらお風呂が広くないとはいえ、こんな重なり合うように入る必要はありません。
(異世界の女の子たちはみんなこんな感じなのでしょうか)
私が混乱している間にも、アビゲイルさんは私の首に両腕を回し、全体重を預けてきました。
彼女の顔が私の胸元に埋められ、グリグリと、頭蓋骨の硬さを感じるほどの強い力で押し付けられます。
顔を擦り付けられるたびに、お湯を含んだ彼女の黒髪が私の鎖骨をくすぐりました。
見下ろすと、彼女の黒い瞳は完全に焦点が合っておらず、ぽかんと開いた口元からは、だらしない笑みが漏れ出していました。
「……ふふっ。もう、逃がさないよ……」
私が戸惑いながらも、彼女の濡れた黒髪にそっと手を伸ばすと、アビゲイルさんの身体がびくっと大きく跳ねました。
そのまま、私の手のひらに自ら頭を押し付け、もっと撫でろと要求してきます。
(まるで大型犬ですね)
アビゲイルさんの痛ましい過去の一部を思うと、私の胸の奥がぎゅっと締め付けられました。
私は、戸惑いを捨てて、彼女の濡れた髪を優しく、何度も何度も梳くように撫でました。
「大丈夫ですよ。私はどこにも行きませんから」
「……今日、どっかいったよね……」
「それは……はい、すみません」
私は、お湯の中で彼女の背中に手を回し、ぽんぽんと軽く叩きました。
「私を見つけて、助けてくれて……本当にありがとうございました、アビゲイルさん」
私からすれば、彼女の力に助けられているのも事実です。
彼女がいなければ、あの転移した場所でどうなっていたかわかりません。
私のその言葉が、浴室の湿った空気に溶けた瞬間。
「――――ぁ」
アビゲイルさんの喉の奥から、奇妙な音が漏れました。
私を抱きしめる彼女の腕の力が、ギリッ、と痛むほどの力に変わります。
「ふふ……私がマリーを見つけた。マリーの全部、私のもの……」
私の胸に顔を埋めたまま、彼女の熱い吐息と、歯を立てられそうなほどのギリギリの唇の感触が押し付けられます。




