第21話 新しい衣装の購入です
羊皮紙のザラついた表面に、羽ペンで自分の名前を書き込みます。
インクがじわじわと繊維に染み込んでいくのを、アンナさんが瞬き一つせずに、ひどく熱っぽい視線で見つめていました。
「これで、手続きは完了ね」
アンナさんの少し汗ばんだ指先が、ペンを置いた私の手の甲をそっと覆いました。
「これからは、マリーちゃんがどこで何をしているか、私が二十四時間体制で完璧に把握できるわ。何かあれば、すぐに私が駆けつけるから。」
ねっとりとした、耳の奥の粘膜に絡みつくような声色。
(なんという手厚い労務管理でしょうか……!)
私は胸の奥が熱くなるのを感じ、アンナさんの手を両手で力強く握り返しました。
社員の行動履歴を完璧に把握し、トラブルには即座に介入する。前世の放置主義で現場に責任を押し付けるだけの企業とは、天と地ほどの差です。
「ありがとうございます、アンナさん! これで安心して業務に専念できます!」
私が満面の笑みを向けると、アンナさんの頬が朱に染まり、ふう、と熱い吐息を漏らしました。
「……あはっ、ウケる。お互い、全然別のこと考えて会話成立してんじゃん」
私の右腕に抱き着いたまま、ベラさんがクスクスと笑い声を立てます。
ベラさんは私の腕に自分の胸元を押し付け、アンナさんに向けて舌をペロリと出してみせました。
それを見たアンナさんの表情がとても冷たいものになっています。
私の背中に蝉のようにへばりついているアビゲイルさんは、私の首筋に冷たい鼻を押し当て、すぅーっ、はぁーっ、と過呼吸気味に息を吸い込んでいました。
「……契約、おわった? 帰ろ……」
「はい、今から新居に向かいますよ」
私たちはギルドを出て、大通りの喧騒の中を歩き出しました。
冷たい風が吹き抜けますが、両腕を二人によって完全にホールドされているため、妙な保温効果があります。
「あの、お二人とも。いくらなんでも密着しすぎではないでしょうか。歩幅が合いませんし、道行く人に見られていますよ」
「だーめっ。ボクはマリーに命を救われた、か・よ・わ・い女の子なんだからぁ、こうやって支えてもらわないと倒れちゃうかも」
ベラさんは上目遣いで私を見上げ、さらにぎゅっと腕を絡めてきます。
(変なこと言わなければただの美少女なんですけどね……)
「……マリーは、私の。毒物は、離れて」
「うわ、この魔女こわーい。マリー、助けてぇっ」
バチバチと見えない火花が散っていますが、私はそれをスルーして、一軒の店先に立ち止まりました。
湯気と石鹸の匂いが漂う、街のクリーニング屋です。
「すみません、この修道服の洗濯をお願いしたいのですが」
カウンターに、昨日から着たきりの修道服を差し出しました。ゴブリンの巣の泥と、ベラさんを助けた時に浴びた大量の血で、元が何色だったかわからないほど赤黒く変色し、異臭を放っています。
それを見た店主の恰幅の良い女性は、ヒッ、と喉を鳴らして数歩後ずさりました。
「あ、あの……事件、ですか……?」
「あっ!いえいえ、ただの業務上の汚れです!お気になさらず!」
私が完璧な営業スマイルで答えると、店主は歯の根を鳴らしながら、長いトングで修道服をつまみ上げ、逃げるように奥へ引っ込んでしまいました。
そして数十分後、きれいになった修道服が戻ってきたので、袖を通します。
(やはり、清潔で天日干ししたような衣類の匂いはいいですね……)
店を出ると、ベラさんが私の頬をツンツンと指でつつきました。
「ねえマリー。こんなボロ雑巾みたいな服、もう捨てちゃいなよ。血の匂いも染み付いてるし、マリーの可愛さが台無しだよ?」
「ですが、修道服は支給品ですし……勝手に新調するのは経費の観点から……」
「家賃、浮いたじゃん。手元に銀貨三枚もあるんでしょ? 女の子なんだから、少しくらいオシャレしなよっ。ボクが、マリーに世界一似合う服、選んであげるからさ」
ベラさんの言葉に、私はハッとしました。
確かに、借り上げ社宅という手厚い福利厚生のおかげで、当面の生活費には余裕ができました。身だしなみは社会人の基本です。
「……そうですね。では、少しだけ見てみましょうか」
「やったぁ! ボクに任せて!」
ベラさんは私の手を引き、軽やかなステップで大通りを進んでいきます。その後ろを、アビゲイルさんが無言で、しかし絶対に私から一定の距離を離れずについてきました。
たどり着いたのは、修道服や神官服を専門に扱う仕立屋でした。
店内には、純白の布地や、金糸で刺繍が施された豪奢なローブがずらりと並んでいます。
「わぁ……綺麗ですね。でも、お値段が……」
値札を見た瞬間、私はそっと目を逸らしました。銀貨三枚など、ボタン一つ買えるか怪しい金額です。
「んー、マリーの予算だと、このワゴンの中のやつかなぁ。……あ、これとかどう!?」
ベラさんがワゴンから引っ張り出してきたのは、一見すると清楚な黒のロングスカートタイプの修道服でした。布地もしっかりしており、首元まで隠れるストイックなデザインです。
「これなら予算内ですね。見た目も上品で……」
私が手を伸ばそうとした瞬間、ベラさんがバサッ、とそのスカートの裾を広げてみせました。
「え……?」
清楚なロングスカートだと思っていたソレは、なんと両サイドに、腰骨のあたりまでガッツリと深いスリットが入っていたのです。
歩くたびに、太ももから腰のラインまでが剥き出しになるという、正気の沙汰とは思えない構造。
「ベ、ベラさん!? なんですかその破廉恥な布は! スリットが深すぎて、下着が丸見えになってしまいます!」
「最近のトレンドだよ! 清楚な顔したマリーがこういう大胆なデザインを着るの、えっ……じゃなくて、ギャップがあって絶対ウケるって!」
ベラさんは私の身体にその服を当て、満足げに頷いています。
その後ろで、アビゲイルさんの周囲の空気が、ピシッ、と凍りつきました。
「……下品。マリーの肌を、他のやつに見せるなんて……バカなの?」
アビゲイルさんの黒い瞳孔が収縮し、足元から黒い瘴気が漏れ出します。店内の空気が一瞬で重くなり、奥にいた店主が白目を剥いて気絶しかけていました。
「えー? じゃあアビィは、マリーの真っ白で柔らかい生足が、歩くたびにチラチラ見え隠れするの、見たくないってこと?」
ベラさんが、悪魔のような囁きを落としました。
「――――」
アビゲイルさんの動きが、完全に停止しました。
彼女の真っ黒な瞳が、ベラさんの手にあるスリット入りの修道服と、私の足を交互に往復します。
「……マリーの、ふともも……」
アビゲイルさんの口から、ぽつり、と音が漏れました。
(突然のアビィという呼称は気にしないんですね……)
「白い……やわらかい……。歩くたびに、すれる……ちがう、風で、布が、めくれて……マリーの、素肌が……」
彼女の呼吸が、急激に荒くなります。
虚無だった瞳の奥に、得体の知れない熱がドロドロと煮えたぎり、彼女の白い頬が林檎のように赤く染まっていきました。
「……マリー……」
アビゲイルさんは、ふらふらとした足取りで私に近づくと、私の腰に両手を回し、顔を私の胸にぐりぐりと押し付けてきました。
「ふひっ……えへへ……マリーの太もも……風で、ひらひら……私の……」
だらしない笑い声を漏らしながら、彼女の鼻先からツーッと一筋の赤い液体が垂れ落ちます。
「アビゲイルさん!? どうしたんですか、鼻血が!」
「……負けた。……みたい」
アビゲイルさんは私の胸に顔を埋めたまま、背後のベラさんに向けて、そっと右手の親指を立てました。ベラさんは「でしょ?」と得意げにウインクをしています。
(二人とも、何を通じ合っているのでしょうか……)
「あの、お言葉ですが、いくらなんでもこのスリットは長すぎます。布地が足りていない不良品では……」
「不良品じゃないよ! これ、魔物の攻撃を避けるための機動性修道服なんだって。足を大きく開いても布が突っ張らないから、生存率がグンと上がるらしいよ? マリー、命と太もも、どっちが大事なの?」
ベラさんは嘘か真か分からない理屈を、これ以上ないほど真剣な顔で並べ立てます。
「機動性……」
その言葉に、私は深く頷きました。
野戦病院での立ち回りや、今回のような不測の事態において、衣服が足に絡みついて転倒するのは致命的なミスに繋がります。恥ずかしいという不埒な考えはよくないですね。
「……確かに。実用性を考えれば、理にかなっていますね。動きやすさは業務効率に直結しますから」
私がそう納得すると、アビゲイルさんがピクッと動き、「……ふへっ……」と呟いてました。
「あはっ! ちょろすぎ! ……あ、いやいや、マリーにとって大事な服だよっ」
ベラさんはくすくすと笑みをこぼし、私の背中をバンバンと叩きました。
私は銀貨二枚をカウンターに置き、そのスリット入り修道服を購入しました。
***
夕暮れ時。
私たちは、教会裏にある私の古い小屋へとやってきました。引っ越しのための荷物をまとめるためです。
軋むドアを開けると、隙間風の吹く薄暗い部屋が私たちを出迎えました。
「うわぁ……何ここ、え?牢屋? ボク、絶対こんなとこ住みたくないんだけど」
「そう言わないでください。雨風は凌げますから」
私がまとめた荷物は、小さな布袋一つに収まりました。すり減った石鹸、ボロボロのタオル、替えの修道服、そして読み古した教典だけです。
私は荷物を抱え、本堂へと向かいました。
ステンドグラスから夕陽が差し込む祭壇の前で、老神父様が祈りを捧げていました。
「神父様。お時間よろしいでしょうか」
「おお、マリー。どうかしましたか?」
「実は、冒険者ギルドの借り上げ社宅に入居することになりまして。これからは、そちらから病院へ出勤いたします」
私の報告に、神父様は目を丸くし、やがて深く、安堵の溜息を吐き出しました。
「……そうか。ギルドがあなたを保護してくれたのですね。教区長の無茶な要求に、あなたがいつか倒れてしまうのではないかと、私はずっと……」
神父様の目尻に、うっすらと涙が浮かんでいます。
「ありがとうございます、神父様。私、これからも神の教えを胸に、立派なシスターとして労働に励みます!」
私が深くお辞儀をすると、神父様は苦笑しながら十字を切ってくれました。
***
教会を後にし、私たちはアンナさんから渡された鍵を手に、ギルドの管理物件へと向かいました。王都の中心部に近い、レンガ造りの立派な建物です。
「ここが……私たちの新しい社宅……!」
私は鍵穴に鍵を差し込みました。カチャリ、と重厚な音が鳴り、ドアノブを回します。
ギィ、と滑らかな音を立てて開いた扉の先を見て、私は感嘆の息を漏らしました。
「うわぁ……! すごいです!」
広々としたリビングには、上質な布張りのソファと磨き上げられたオーク材のテーブル。壁には冷気を遮断する分厚いタペストリーが掛けられ、奥には独立したキッチンまで備わっています。
以前の隙間風が吹き込む小屋とは比べ物にならない、まさに夢のような居住空間。
「やっぱり福利厚生の整った職場は最高ですね……!」
「へぇ、思ったよりマシな部屋じゃん」
ベラさんが部屋の中を歩き回り、興味深そうにあちこちを触っています。
しかし、私はすぐにこの部屋のある特徴に気がつきました。
「……随分と、窓が少ないですね」
リビングに一つあるだけの窓は、異様に高い位置に設置されており、しかも分厚い鉄格子がはめ込まれていました。
なんだか、外敵の侵入を防ぐというよりは、中の人間を外に出さないための作りのような気もします。
「さすがギルドの管理物件です。防犯対策が徹底されていますね! これなら夜も安心して眠れます」
「あはっ。マリーってほんと、そういうとこ都合いいよねぇ」
ベラさんが呆れたように肩をすくめた時、私の背後でドンッ、と重たい音がしました。
振り返ると、アビゲイルさんが部屋の奥にある寝室の扉を開け放ち、中にあったキングサイズの巨大なベッドを指差していました。
「……マリー。今日から、ここで、マリーと寝る」
アビゲイルさんの黒い瞳が、ねっとりとした熱を帯びて私を見つめています。
それを見たベラさんが、ふわりと私の前に割り込みました。
「ちょっと待ってよ。ボクがマリーと一緒に寝るんだけど? アビィはそこのソファで寝なよ」
「……何を言っているの……?」
アビゲイルさんの足元から、再び黒い瘴気が漏れ出します。対するベラさんも、一歩も引かずに小悪魔的な笑みを浮かべています。
「お二人とも! 室内で暴れて退去させられたらどうするんですか!」
私は慌てて二人の間に割って入り、両手を広げて止めに入りました。
素晴らしい社宅ライフの初日が、ルームメイト同士の殺し合いで終わるなんて冗談ではありません。
「私が真ん中で寝ますから! キングサイズなら三人でも十分眠れるはずです!」
「「……!」」
私の提案に、二人の動きがピタリと止まりました。
そして、ベラさんは「まぁいっか」と可愛らしく微笑み、アビゲイルさんは無言で頷いていました。
「ともかく、今日からここで新しい生活が始まるんですね」
私は新しい修道服が入った紙袋を抱え直し、壁に掛けられた時計を見上げました。
明日の朝も、病院での業務が待っています。
(しっかり休んで、明日からの労働に備えないと……!)
「さーてと!ボク、汗かいて気持ち悪いし、お風呂はいってこよーっと」
そう言って、ベラドンナさんは顔をパタパタと仰ぎながら、浴室へと繋がる廊下へ向かいました。
浴室の扉が閉まる音。そして、部屋には沈黙が戻りました。
私はリビングに残り、少し散らかった荷物を片付けていました。
何となく視線を感じて振り返ると、そこにはアビゲイルさんが立っていました。
彼女は言葉もなく、ただじーっと、私のことを見つめていました。




