第20話 住まいの問題、解決です。
「ねえマリー」
労働の対価である銀貨を笑顔で見つめていた時に、ベラさんは私の腕に、するりと自分の腕を絡ませてきました。
私の胸に、彼女の頭がこてんと乗せられ、甘い香りがふわりと漂いました。
「ボク、今日からマリーのベッドで一緒に寝るねっ。よろしく~」
「――ん?」
私の返事よりも先に、空気が死にました。
私の後ろにいたアビゲイルさんの真っ黒な瞳孔が限界まで見開き、その視線は私の腕に抱きつくベラさんを何を言っているかわからない、という表情で睨みつけています。
「……何を言っているの?」
「あはっ。こういうのって早い者勝ちでしょ? 」
「……死にたいの?マリーは、私の……私の、なのに」
「やれるもんならやってみなよ。ボク、キミのその間抜けな顔が歪むところ、特等席で見たいなぁ」
アビゲイルさんの足元からどす黒い瘴気が漏れ出し、ベラさんの指先からは脳を溶かすような甘い香りの魔力が立ち昇り始めます。
周囲のテーブルでお通夜状態だった冒険者たちが、顔を青ざめさせて、「もうやだ……」と声を漏らしながら次々と席を立ち、蜘蛛の子を散らすように壁際へと逃げていきました。
「お二人とも仲良くしてください……」
私は二人の間に割って入り、二人の手を繋いで宥めました。
そもそも、ベッドを奪い合う以前に、極めて現実的で物理的な問題が横たわっているのです。
「私の部屋は教会の裏にある古い小屋で、狭いんですよ。」
アビゲイルさん一人と添い寝をしただけでも、寝返りが打てないのです。
そこにベラさんまで加われば、もはや睡眠ではなくただの圧死です。
「引っ越しをしない限りは難しいですね……」
私がそう宣言すると、アビゲイルさんがポカンと口を開けました。
「ひっこし……?」
「はい。」
手に持っている銀貨たったの三枚。
これが私の全財産ともいえる状況です。
「……ですが、悲しいことに初期費用が全く足りません。」
私が深いため息をつきながら銀貨を見つめていると、アビゲイルさんがゆっくりと瞬きをしました。
「……マリー、お金ないの?」
「はい。お恥ずかしながら」
「……言ってくれれば、よかったのに。私、いっぱい持ってるよ。……お城、買う?」
言うが早いか、アビゲイルさんが何もない空間に手を突っ込みました。
虚空がぐにゃりと歪み、彼女の手が引きずり出してきたのは、私の頭ほどもある巨大な麻袋でした。
アビゲイルさんが無造作に受付カウンターの上にそれを置くと、麻袋の口から、数々の宝石が出てきました。
ギルド内が静まり返ります。
壁際に避難していた冒険者たちの目玉が、文字通りこぼれ落ちそうになっていました。
「……これで、足りる?」
「だ、駄目です!!」
私は血相を変えて、溢れた宝石を麻袋の中に掻き集めました。
「私は神に仕えるシスターです! 友人のお金で生活を養ってもらうなど、ヒモになるわけにはいきません!」
「友人……?え?私、友人なの……?え?恋人とか伴侶じゃなくて……?」
謎の自立心が、強固なストッパーとして働きます。
アビゲイルさんは自分の提案が却下されたことが不満なのか、どこか絶望の表情でブツブツと呟いています。
「あははっ! キミってほんと、変なところで頑固だねぇ」
ベラさんがくすくす笑いながら、ギルドの窓から外を指差しました。
その指の先には、小高い丘の上に建つ、悪趣味なほど豪奢な貴族の館が見えます。
「じゃあさ、あそこに見えるムカつく金持ちの館、中の人間を全員皆殺しか洗脳して乗っ取ろうよ。初期費用ゼロ、即日入居可だよ? 死体の片付けくらい、ボクが手伝ってあげるからさっ」
完璧な美少女の笑顔で、今日のランチを決めるくらいのノリで吐き出された倫理観の欠片もない提案。
私は頭を抱えました。
「ダメに決まっています! 物理的な暴力による敵対的買収はただの強盗です! 」
「えー? バレなきゃいいじゃん。つまんないのー」
「倫理観の問題です……」
まともな不動産契約すら結べない。
このままでは、今夜もあの狭いベッドで、少し愛情表現の重いお二人に挟まれて圧死する未来しか見えません。
胃の辺りがキリキリと痛み始めた、その時でした。
「――それなら、うちを使えばいいじゃない」
カウンターの向こう側から、凛とした声が響きました。
受付嬢のアンナさんです。
彼女はいつもの朗らかな営業スマイルを浮かべていましたが、カウンターに置かれた彼女の両手は、指の関節が白く変色するほど強く木枠を握りしめていました。
そして、前髪の隙間から覗く彼女の瞳は、アビゲイルさんとベラさんを、暗く冷たい光で射抜いています。
「ギルドが所有してる別棟の管理物件が一つ空いてるの。三人でも十分住める広さだし、家具も一式揃ってるわよ」
アンナさんの言葉に、私はパッと顔を輝かせ、すぐにしゅんと肩を落としました。
「そ、そんな……。いくらなんでも、無償で提供していただくなんて、甘えるわけにはいきません。私のような新人に、そんな権利は……」
「無償じゃないわよ、マリーちゃん」
アンナさんはふわりと微笑み、身を乗り出して私の手を取りました。
その瞳の奥で、何かがねっとりと渦を巻いているような気がしましたが、彼女の口から紡がれた言葉が、私の思考を完全に停止させました。
「ギルドが指定するクエストを定期的にこなしてもらうの。そうすれば住居をこちらで用意するという流れね。」
アンナさんは、まるで聖母のように優しく、私の耳元で囁きました。
「――っ!!」
(これは、もしかして……借り上げ社宅ということでしょうか……!)
私の脳内で、前世で一度も味わうことのなかった『福利厚生』という甘美な響きが、黄金の鐘のように鳴り響きました。
借り上げ社宅。
家賃補助。
給料天引きで、面倒な手続きも不要。
前世の会社では、家賃補助などというものは都市伝説でした。
心もとない手取りの中から、狭くて壁の薄いアパートの家賃を払い、残ったお金でゼリー飲料をすする日々。
それに比べて、なんというホワイトな待遇でしょうか。
私の両目から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちました。
「アンナさん……っ。冒険者ギルドって、なんて素晴らしい組織なんでしょうか……!」
「えっ、ちょ、泣くようなこと……?」
「やります! ぜひ入居させてください! 」
私はカウンター越しにアンナさんの両手を力強く握り返し、何度も何度も頭を下げました。
アンナさんは少し戸惑ったように苦笑しながらも、彼女の手は私の体温を逃さないように、きつく、ひどくきつく指に絡みついてきました。
「ええ……。これからずっと、マリーちゃんは私が……ううん、ギルドが、安全に管理してあげるからね」
ぎゅうっ、と。
私の体温を逃がさないように指を絡ませてくるアンナさんの手。少し力強すぎる気もしますが、きっと新人への激励に違いありません。
「……チッ」
「あはっ。この受付の女、普通のモブかと思ったら、結構ドロドロに狂ってんじゃん。……使えるかも」
アビゲイルさんの不機嫌そうな、光のない真っ黒な瞳と、アンナさんの朗らかな営業スマイルがぶつかり合い、その間でベラさんが面白そうに唇を舐めています。
「ふふっ。さあ、そうと決まったら、さっそくお引越しの準備ですね!」
私は涙を拭い、これからの快適な社宅ライフに胸を躍らせながら、振り返って二人に満面の笑みを向けました。




