第2話 休みの日も仕事のことを考えます
ちかちかと明滅していた視界のノイズが、すうっと薄れていきました。
最後に残った右足首を鈍器で挽かれるような鈍い痛みが途切れます。
「はぁっ……、こほっ、けほっ」
土の床に突っ伏したまま、私は喉に詰まった泥と唾液を吐き出しました。
震える両腕で上半身を支え、ゆっくりと身を起こします。
右足首は、ちゃんとあります。腹部も、呪毒が駆け巡った血管も、すべて元のまま。
ただ、全身をどっぷりと冷や汗と泥でコーティングされているだけです。
「終わった……」
極限まで張り詰めていた痛覚の嵐が過ぎ去ると、今度は猛烈な疲労感と空腹感が波のように押し寄せてきました。
三日連続で終電を逃して会社の床で寝袋にくるまった朝と同じ、あの胃酸がこみ上げてくるような気怠さです。
ふらつく足で立ち上がり、天幕の入り口の紐を解きます。
外は、白み始めた明け方の空。
野戦病院の喧騒も、今はすっかり落ち着き、朝もやの中に幾つもの天幕が静かに立ち並んでいました。
私は自分の拠点である、街外れの小さな教会へと向けて歩き出しました。
泥と血と吐瀉物で重くなった修道服の裾が、足首にまとわりつきます。
すれ違う見回りの兵士たちが、血まみれの私を見てギョッと目を見開きますが、私はいつもの営業スマイルを向けて会釈を返しました。
血生臭い職場ですから、身だしなみが乱れるのは仕方のないことです。
教会の裏手にある、私に与えられたこぢんまりとした小屋。
軋む木のドアを開けると、埃っぽい、けれど誰にも脅かされない静かな空間が私を迎えてくれました。
「あー……っ、生きてます。私、生きてますよ……」
壁にもたれかかるようにしてブーツを脱ぎ捨て、泥だらけの修道服のボタンを不器用な指で外していきます。
脱ぎ捨てた衣服を籠に放り込み、魔導具が組み込まれたシャワー室へ向かいました。
蛇口をひねると、魔力不足のせいか、お湯というよりは少しぬるい水が勢いよく頭上から降り注いできます。
ひんやりとした水が、髪の毛にこびりついた他人の血と、自分自身の脂汗を洗い流していきます。
ふと、曇った小さな鏡に自分の姿が映りました。
亜麻色の、肩につかない程度のショートボブ。手櫛を通せば、全体的に空気を含んだようなふんわりとしたボリューム感があるはずなのですが、今は水を含んでぺったりと頭皮に張り付いています。
大きな翡翠色の瞳の下には、立派なクマがくっきりと見えます。
十五歳という若さだというのに、中身の社畜成分が滲み出ているのか、どこかひどく疲弊した薄幸の顔つきです。
(顔色、悪いですね……。でも、お化粧でごまかせば大丈夫でしょう)
頬を両手でぺちぺちと叩き、気合を入れ直します。
タオルで髪をわしゃわしゃと拭きながら、台所へ向かいました。
戸棚から、数日前に焼いたパンを取り出し、端っこをかじると、ぼそぼそとした食感が口の中に広がります。
前世で食べていたコンビニの栄養補助食品と大差ありません。水と一緒に胃へ流し込み、最低限のカロリーだけを摂取します。
そのまま、ベッドへ直行。
粗末な薄いシーツにくるまった瞬間、意識は泥のように深い底へと沈んでいきました。
***
カン、カン、カン。
遠くで響く教会の鐘の音に、私は重い瞼をこじ開けました。
窓の隙間から、眩しい朝の光が差し込んでいます。
体を起こすと、昨夜の痛みが嘘のように、手足の先まで魔力が満ち足りているのを感じました。
身代わりの副作用で負債を抱え込む代わりに、私の治癒力と魔力回復速度は常軌を逸しています。
一晩寝れば、どんなに削られても完全回復する。
つまり、会社にとって最も都合の良い壊れない歯車というわけです。
新しい修道服に袖を通し、白いウィンプルを丁寧にピンで留めます。
教会の本堂へ向かい、朝日が差し込む祭壇の前で両手を組みました。
「主よ。今日も無事に朝を迎えられたことに感謝します。すべての人が、健やかに、痛みを知らずに過ごせますように」
心からの祈りを捧げます。
痛いのも、苦しいのも、嫌なのです。
祈りを終えて立ち上がると、なんだか足取りが異常に軽いことに気がつきました。
そうです。今日は、月に一度、私に与えられた完全休養日なのです。
お休み。休日。
なんという甘美な響きでしょう。
(前世ではカレンダーの赤い日ですら出勤していた私にとって、堂々と休んでいい日があるのは嬉しいですね)
「ふふっ。さて、今日は何をしましょうか」
昨日の激痛の記憶など綺麗に上書きされ、鼻歌交じりに背伸びをします。
ただ、野戦病院でのポーション消費が激しく、教会の備蓄が底を突きかけているのが気がかりでした。
経費で落としてくれないのなら、自分で材料を調達するしかありません。
***
分厚い扉を押し開けると、むわっとした熱気と、安酒の匂いが押し寄せてきました。
朝から賑やかなはずのギルドですが、今日はどこか空気が違います。
円卓を囲む屈強な冒険者たちが、ジョッキも傾けずに身を乗り出し、深刻な顔で声を潜めていました。
「……見たって奴がいるんだよ。東の森で、黒髪の……」
「上位種が一瞬で灰になったってよ……」
「そんなの、歩く自然災害だろ」
「昨日の夜、森の奥にいたオーガの集落が、一晩でただの灰の山に変わってたらしい……」
ざわめきが波のように広がっています。
私は首を傾げながら、受付カウンターへと向かいました。
「おはようございます、アンナさん。今日も良いお天気ですね」
「あ……マリーちゃん。おはよう」
羊皮紙の束を整理していた受付嬢のアンナさんは、私を見るとホッと息を吐きましたが、その目元には微かな疲労の色が浮かんでいます。
インク壺に羽根ペンを戻す彼女の指先が、わずかに震えているのを見逃しませんでした。
「今日はどうしたの? 病院のシフトはお休み?」
「ええ、有給をいただきまして。教会の備蓄用の薬草を採りに、東の迷いの森へ行こうかと」
「えっ」
ガタッ、とアンナさんが椅子を鳴らして立ち上がりました。
カウンター越しに身を乗り出し、私の肩をぎゅっと掴んできます。
「だ、駄目だよマリーちゃん! 今、あそこの森は立ち入り制限がかかる一歩手前なの。行っちゃ駄目!」
「え? でも、魔物が減って安全になったと聞いたのですが……」
「減ったんじゃないの、消滅してるの。森の奥が、文字通り灰になってるんだって」
アンナさんは声をひそめ、周囲をちらりと窺ってから続けました。
「ここ数日、ギルド内で噂になってるの。殺意も悪意もないのに、ただ息をしているだけで周囲の命を奪っていく歩く自然災害が出たって……。姿は、黒髪の女だったって目撃情報もあるわ」
「黒髪の……女性」
私はその単語を頭の隅にそっと仕舞い込み、カウンターの上で震えているアンナさんの指先を、両手で優しく包み込みました。
「わかりました。絶対に無理はしません。教えてくださって、ありがとうございます、アンナさん」
安心させるようにゆっくりと頷くと、アンナさんはわずかに肩の力を抜いてくれました。
とはいえ、今日中にあの薬草を確保できなければ、非常に困ったことになります
脳裏を過るのは、教会の薄暗い執務室と、教区長の分厚い唇から飛ぶ唾液です。
経費以上のポーションを消費したとなると、三時間に及ぶねっとりとしたお説教が確定します。
得体の知れない災害の噂よりも、あの終わりの見えないネチネチとした叱責のほうが、私の精神を確実に削り取ります。
(深く立ち入らず、森の入り口付近でささっと必要な分だけ摘んで帰れば、誰の目にも留まらないでしょう)
「優しいアンナさんの今日が、穏やかな光で満たされますように」
私は胸の前で指を絡め、目を伏せて女神への祈りを捧げました。
祈りを終えて目を開けると、アンナさんが強く唇を噛み締めてこちらを見つめていました。
「マリーちゃん……!」
彼女は切羽詰まったような音を立てて息を吸い込み、カウンターから身を乗り出して私の両手をぎゅっと握り直しました。その手のひらは、血の気が引いたように冷え切っています。
「あ……その、もし、辛かったり何かあったら、いつでも相談してね。教会のことでも何でも……ギルドの二階の空き部屋、いつでも勝手に使っていいから」
早口でまくしたてるアンナさんの声は、かすかに震えていました。
彼女の潤んだ瞳を見て、自然と口元が緩みます。
私が教会の薄給のせいで日々の食事にも事欠いていることを、きっと気にかけてくれているのでしょう。
なんてお優しい方なのでしょうか。
「お気遣い、本当にありがとうございます。それでは、いってまいりますね」
ギルドの分厚い扉を押し開け、安酒の匂いと喧騒を背にします。
朝の冷たい風が頬を撫でる中、足早に東の森へと続く街道を踏み出しました。
遥か前方に見える森の上空には、鳥一匹も飛んでいないような、不自然なほどの静寂がぽっかりと空を覆い尽くしているようでした。
***
街道を歩くこと数時間。
深い木立が続く迷いの森の入り口に到着しました。
森は異様なほど静まり返っていました。
普段なら聞こえるはずの鳥のさえずりも、葉擦れの音すらありません。
ただ、空中にフワフワと、まるで雪のような黒い灰が少しだけ舞っていました。
(本当に静かですね……。トラブルが起こる前に早く薬草を見つけますか)
私は口元をハンカチで覆いながら、鼻歌交じりに、足元に生えている薬草を次々と籠に放り込んでいきました。
そして自然と森の奥へと足を進めていたのです。
ふと、踏み出した足先から嫌な音が響きました。サクッ、という落ち葉の音ではなく、ボロッ、と崩れるような乾いた音。
周りを見ると、下草も、太い木の幹も、すべてが炭のように変色し、触れる端から黒い灰となって崩れ落ちています。
同時に、ぐんと心臓が重くなりました。
空気を吸っているのに肺が酸素を拒絶し、全身の毛穴からじわっと嫌な汗が噴き出します。
胃がひっくり返るような、生物としての根源的な不快感感じます。
(まだ安全な場所なのかと思ってましたけど、すごく息苦しいですね……)
浅くなる呼吸をごまかすように、パンパンと自分の頬を叩きます。
気合いを入れ直して顔を上げた私の視界の先、灰が濃く舞う空間の中心に、彼女はいました。




