第1話 転生しても結局ブラック環境です
血煙と汚物の入り混じった空気が、容赦なく肺の奥へ侵入してきます。
「次! 第三小隊の前衛! 呪毒持ちのオークにやられた、早く!」
「おい、こっちが先だ! 足が、足がァッ!」
泥と血をたっぷりと吸って重くなった天幕の入り口が乱暴に跳ね上げられ、次々と担架が運び込まれてきます。
鉄錆と、排泄物と、腐りかけた肉の悪臭。
まるでサウナのような熱気の中で、私は真っ赤に染まった修道服の袖を捲り上げながら、小走りで新たな担架へ向かいました。
「ここに寝かせてください。……ああ、大丈夫ですよ。もう安心ですからね」
前世の顧客対応で一日に何度も作っていた、相手を安心させるための完璧な営業スマイル。
それを顔面に貼り付け、私は痙攣している兵士を覗き込みました。
私よりずっと若い、あどけなさの残る少年です。腹部を斜めに引き裂かれ、黄ばんだ脂肪と赤黒い臓器が、ずたずたになった鎖帷子の隙間から零れ落ちそうになっています。
傷口の周囲には、紫色の模様が蜘蛛の巣のように広がっていました。
「ひ、あ……か、はっ……」
少年の口から、泡立った血が溢れています。
焦点の合わない瞳が、虚空を彷徨っていました。
普通なら、あと数分で死ぬ状態です。
でも、私の前では、死ぬことは許されません。
いえ、死なせません。彼らは救うべき大切な命なのですから。
「痛かったですね。でも、主の御加護があなたを包み込みます」
私は両手を、少年の裂けた腹部にかざしました。
身代わり
ぞわり、と指先から嫌な冷たさが這い上がってきます。
次の瞬間、少年の腹部を這っていた紫色の呪毒が、まるで意思を持った蛇のように私の指先へと吸い込まれていきました。
同時に、淡い光が少年の裂けた腹部を包み込みます。
肉と肉が吸い付き合う湿った音が響き、断裂した筋肉が瞬時に編み込まれ、破れた内臓が本来の形を取り戻し、最後に皮膚が一瞬にして癒着しました。
「……あ、れ?」
少年が呆然と瞬きをします。青白かった彼の顔に、急速に赤みが戻っていきました。
「ふふ、良かったです。まだ少し貧血気味でしょうから、急に立ち上がらないでくださいね。水分をしっかり摂って、安静に」
「聖女、さま……女神、さま……っ!」
少年が私の血まみれのスカートの裾を力強く掴み、ぼろぼろと涙をこぼし始めました。
いえ、女神などという大層なものではありません。
ただの前線配属の治癒士です。
(スカートを引っ張られると次の動作に移れないので、できれば手を離していただきたいのですが)
「大げさですよ。私はただ、主の御心に従っているだけです。さあ、次の方がお待ちですから」
優しい力で少年の指を一つずつ剥がし、私は振り返ります。
野戦病院として使われているこの巨大な天幕の中には、足の踏み場もないほど負傷兵が転がっています。
うめき声、狂乱したような叫び声、誰かを呼ぶすすり泣きが、絶え間なく耳に響きます。
「マリー様! こっち、右脚が欠損しています! 止血が追いつきません!」
「すぐ行きます。欠損部位は残っていますか? ……無い。わかりました、すぐ向かいます」
滑りやすい泥と血の床を、白いウィンプルを揺らして駆け抜けます。
転生してから十五年。
マリー・フォルトゥナとして生を受け、私はあっという間にこの世界の理不尽なシステムに組み込まれていました。
神様からもらった身代わりスキルと、私自身の圧倒的な治癒魔法。
それは、普通のポーションや魔法では治せない肉体の欠損、呪い、さらには精神支配のデバフすらも無かったことにできる、まさにこの世界では規格外の力でした。
(……ええ、それ自体は素晴らしい能力です。誰かが苦しみ続けるのを見なくて済むのですから)
ただ、あの神様は、重大な説明責任を果たしていませんでした。
世界の理を犯してまで、本来治せないはずの状態を回復させる代償。
それは、そっくりそのまま私自身に跳ね返ってくるという悪魔のような仕様だったのです。
他人の肉体の損傷も、呪いの侵食も、私の体に移され、私の超回復力によって処理されます。
プロテクトのおかげで死にはしませんが、痛覚は一切減衰せずに襲いかかってきます。
(……このペースだと、今日の対応は二百人は超えますね。魔力ポーションの経費申請、また渋い顔されそうですけど)
膝下から先を食いちぎられた兵士の切断面に手をかざし、私は光を放ちます。
白い骨が伸び、血管が這い、ピンク色の真新しい肉がまとわりついていく。早回しの映像のようなその光景に、周囲の衛生兵たちが息を呑む気配がしました。
「ああ……神よ、奇跡だ……」
誰かが祈りの言葉を呟きます。
(違います。奇跡なんかじゃありません。これは、等価交換ですらない、圧倒的な負債の先送りです)
私の体の中では今、恐ろしいことが起きています。
先ほどの少年の呪毒。この兵士の右脚を食いちぎられた衝撃。それ以前に治癒した数十人分の、刺し傷、切り傷、火傷、骨折、内臓破裂。
それらすべての原因は消滅し、結果としての痛みと肉体の損傷だけが、私の魂の器に一時的にストックされているのです。
就業時間中――私が気を張っている間は、前世で培った社畜アドレナリンが能力化しているのか、脳内麻薬をドバドバと分泌して痛覚を強制的にシャットアウトしてくれます。
だから私は今、聖母のように微笑んでいられるのです。
「はい、次の患者様ですね。ちょっとチクッとしますよー」という風に、涼しい顔で対応できるのです。
「マリー様、もう魔力が……少し休まれては」
「大丈夫ですよ。ほら、あの方、呼吸が浅くなっています。気道確保を」
(休めるわけがありません。 目の前で人が苦しんで、死にかけているのです)
痛いのは嫌です。苦しいのも嫌です。
でも、私が少し我慢すれば、誰も泣かずに済む。誰も痛い思いをせずに済む。
それなら、私がやるしかないじゃないですか。
***
ようやく本日の業務が終了しました。
「お疲れ様でした。夜間の当直は代わりますから、マリー様はどうかお休みになって」
「ありがとうございます。何か急変があれば、すぐにお呼びくださいね」
同僚の神官に深く頭を下げ、私は野戦病院の天幕を出ます。
夜風が、汗と他人の血でべりべりと肌に張り付いた修道服を冷やしていきます。
魔力はすっからかんなのに、足取りは驚くほど軽く、体はどこも悪くありません。
私に割り当てられた、粗末な個人天幕。
フラップを潜り抜け、ランタンの火を灯します。
土と草の匂い。
誰もいない。誰も見ていない。安全圏。
「あ……」
ランタンの灯りが、私の小刻みに震え始めた指先を照らし出しました。
限界です。
天幕の入り口の紐をきつく結び終えた、その瞬間。
カチャリ、と。
脳内で、タイマーがゼロを打つ音がしました。
「――っ、ぁ」
ドクンッ!!
心臓が、肋骨を突き破るほどの勢いで跳ね上がります。
次の瞬間、視界が真っ赤なノイズに塗り潰されました。
「あ、ァァ……っ、あアァァッ!!」
声にならない絶叫が、喉の奥で血の塊となって噴き出します。
どしゃっ、と床の土に膝から崩れ落ちました。
右脚が、無い。
膝から下を、巨大な獣の牙で生きたまま咀嚼され、引きちぎられる幻痛。
「ひ、ぃ……っ、がっ!」
両手で右脚を抱え込みますが、そこにはちゃんと足があります。あるのに、肉が千切れ、骨が砕け散る圧倒的な痛覚だけが、脳の処理能力を易々とオーバーフローさせていきます。
続いて、腹部。
熱く焼けた巨大な刃物が、右脇腹から左のへそ下までを一気に切り裂いた感覚。
「あ、う、ぁ……っ」
(痛いぃぃ!本当に痛いですっ…… )
胃液と、血が混ざったものを土の上にぶちまけます。
内臓がこぼれ落ち、ひきつるような恐怖と激痛。両手で必死に自分のお腹を押さえます。修道服の布地を握りしめ、指の関節が白く変色しました。
さらに、呪毒。
全身の毛細血管がバチバチとはぜ、皮膚の下を無数の虫が這いずり回るようなおぞましい感覚が全身を駆け巡ります。
「は、ひゅっ、ひゅぅっ……」
呼吸ができません。
肺が燃えています。喉が痙攣して、空気を吸い込むことができません。
酸素を求めて口を金魚のようにパクパクと開閉させますが、そこから漏れるのは、ヒューヒューという情けない風切り音だけです。
これが、今日一日で私が肩代わりした、死の苦しみ。
プロテクト機能のおかげで、肉体自体は破壊されません。
だからこそ、タチが悪いのです。
ショック死することすら許されず、私の超回復力がこの莫大なダメージを消化しきるまで、意識を保ったままこの生き地獄を味わい続けなければなりません。
「ぁ、ぅ……神、さま……っ」
土の床を転げ回ります。
痛みを少しでも散らそうと、自分の腕を噛みちぎる勢いで歯を立てます。
強烈な血の味が口の中に広がりますが、そんな痛みなど、全身を蝕む激痛の前では文字通り塵に等しいものでした。
爪が剥がれるのも構わず、土の地面をガリガリと掻きむしります。
涙と、鼻水と、涎が混ざり合い、顔面がぐちゃぐちゃになります。
一人で部屋で泣きながら薬を飲み込んだ時の息苦しさなんて、比較になりません。
一秒一秒が永遠のように引き伸ばされ、痛覚という名の刃が神経をズタズタに切り裂き続けています。
「い、や……だ、痛い……っ、たすけ……て……」
誰もいない天幕の中で、私はただ一匹の虫のように丸まり、震えます。
頭の奥で、無機質なあの声が響いた気がしました。
『過剰な負荷には気をつけてね。システムがバグるかもしれないから』
「バグっ、てます……っ、こんなの……っ」
視界の端が、激しく明滅し始めます。
痛みが臨界点を突破し、脳が一時的なシャットダウンを試みているのです。
だが、その安息すらも許されません。
次の瞬間には、再び焼け付くような痛みが私を現実に引き戻します。
「あァッ――!!」
自分の喉から絞り出された、みっともない叫び声。
その声を聞きながら、私の意識は、赤黒い激痛の渦の底へと、何度目かわからない沈没をしていきました。
「神様の、バカ……ッ」




