プロローグ
カチャッ、ターン。
オフィスに響き渡るキーボードを打ち込む音は、どうしてあんなにも胃を締め付けるのでしょうか。
「で? 今月の案件、目標達成まであと2件足りないんだけど」
パーテーション越しに投げられた声に、私はマウスを握る手にぐっと力を込めました。
指先が白く変色するのを感じながら、口角だけをぎこちなく引き上げます。
「はい……現在、最終面接に進んでいただいている方が、三名おりまして——」
「あのさぁ」
課長はため息とともに、私の椅子の背もたれをガンッ、と蹴り飛ばしました。
ビクッと肩が跳ねます。
「『進んでる』じゃなくて『決めろ』って言ってんの。数字作れないなら、うちの会社にいる意味ある? ボランティアでやってんじゃないんだけど。わかる?」
酸素が足りない。喉と舌がカラカラに乾いていきます。
「はい……申し訳ありません、明日中に必ず……」
「明日ね。ふぅん、言うじゃん。期待してっから」
課長は私の肩を叩きながら、「よろしくな」と言い他のエージェントのところに向かっていきます。
はぁ……とため息をつく私の目の前のモニターには、他のエージェントと比較される売り上げ表のスプレッドシートが開かれています。
その横で、社用スマホに着信が入りました。
慌ててボタンを押し、声のトーンをワントーン、ツートーン高くします。
「お電話ありがとうございます。はい、先日ご紹介した株式会社〇〇の件ですね。ええ、ええ……はい! 非常に風通しが良く、若手にも裁量を与えていただけるアットホームな環境でして……」
手元のメモパッドには、先週その企業から逃げるように退職した別の求職者のヒアリング結果が書かれています。
『親族経営でめちゃくちゃ』『上司が部下を怒鳴りちらしている』『即戦力を期待される』
胸の奥を焼くような感覚を、冷めたコーヒーと一緒に胃へ流し込みました。
「ええ、未経験からでもしっかりサポートしていただけると伺っております。ぜひ、前向きにご検討を——はい、失礼いたします」
通話を切り、すぐさま次の番号を入力します。
嘘はついていません。ただ、本当のことをすべて言っていないだけです。
これも仕事です。数字を作らなければ、私が詰められる。それだけのことです。
(ごめんなさい……ごめんなさいっ……)
***
終電は、とうの昔に死んでいました。
タクシー代の経費精算など通るはずもなく、徒歩で1時間以上かけて帰り着きます。
ダイヤル式のポストには、書類やチラシがパンパンに詰まっていますが、それを抜き取る気力すらありません。
アパートの鍵を開け、靴を脱ぎ捨てます。
暖房の切れた部屋は、外よりも冷え切っていました。
スーツのジャケットを脱ぐ気にもなれず、そのままフローリングに座り込みます。
ふと、床に落ちていた企業のロゴが入ったポールペンのノベルティが視界に入ります。
それを見た瞬間……。
——ぽたっ。
手の甲で、水滴が弾けました。
あれ?
なんで……。
息が、うまく吸えません。胸を掻き毟りたくなるような衝動が生まれます。
痛い……どこが痛いのかわからないけれど、ただひたすらに息苦しいです。
「……もう、むり」
「何のために生きてるのかわからない……っ」
震える唇からこぼれた音は、自分でも驚くほど掠れていました。
痛いのも、苦しいのも、誰かに押し付けるのも、押し付けられるのも。全部、全部、嫌。
這うようにして洗面台へ向かい、戸棚を開けます。
いつか眠れなかった日のために処方された薬と、市販の鎮痛剤を手に取ります。
プラスチックのボトルを逆さにすると、白い錠剤が洗面台にポロポロとこぼれ落ちました。
拾い集める気力もでません。
手のひらに残った分だけを口に放り込み、蛇口に直接口をつけて水と一緒に喉の奥へ押し込みます。
何錠か喉に引っかかり、ひどくむせてしまい、涙と鼻水が出ました。
(最期の最後まで、見っともなくて最悪です……)
***
「——起きて。ねえ、起きてってば」
耳元で響く気だるそうな声に、私は重い瞼を持ち上げます。
視界を埋め尽くしたのは、無機質で何もない空間でした。
そして、その空間の真ん中で、長い銀髪を揺らす、美しい人影が見えます。
「ようやく目が覚めたのね。短命な魂よ」
「えっと……あの、ここは……あっ、そうだ……」
反射的にスーツのポケットを探ってしまい名刺入れを取り出そうと指先が空を切りました。
呆れたようにため息をついたその存在は、私のことを見下ろしています。
「ここは魂の待合室。あなたは自ら命を絶った。けれど、あなたの意志を必要とする世界があってね。その世界で再スタートできるこの待合室にきたわけよ」
「……再スタート……必要とする世界?」
「そう。剣と魔法、みたいな世界を想像してくれればいいわ。そこで生き直すための、ちょっとしたおまけをあげる。何か希望はある?」
新しい世界。
その響きに、私は乾いた唇を舐めました。
突然のことに何も理解できず、よく分からない状態です。
それに希望なんて、ありません。ただ……。
「痛いのは、苦しいのは嫌です」
「痛覚の無効化? それなら——」
「違います。私だけじゃなくて……他の人が苦しそうにしているのを見るのも、もう嫌なんです。誰かが泣きながら数字を追いかけたり、嘘をついて心がすり減ったりするのも。だから……」
私がそう言うと、神様は目を丸くし、やがて困ったように眉尻を下げました。
「……なるほど。他者の苦痛を肩代わりしつつ、あなた自身の精神と肉体を保護するプロテクト。そういうことね」
神様が指先を鳴らすと、私の胸の奥に何かが噛み合うような感覚が走りました。
「いいわ。その願い、確かに叶えましょう。ただし、過剰な負荷には気をつけて。システムがバグを起こすかもしれないから」
言葉の意味を問い返す暇はありませんでした。
足元の白い床が、ふつりと消滅したのです。
「えっ……ええっっ!?」
真っ逆さまに落ちていく強烈な浮遊感。
肺から空気が押し出され、悲鳴すら声になりません。
まるで宇宙に放り込まれたように、視界が端から黒く染まっていきます。
冷たかった指先が、じんわりと温かい何かに包み込まれるような、不思議な感覚。
酷使してボロボロだった肉体が崩れ落ち、私という意識だけが抽出されていくような——。
『それでは、新たな人生をお楽しみください』
遠くで響いた声は、無機質な機械音声のように聞こえました。
まぶたの裏にチカチカと点滅していた光も、やがてぷつりと途絶えます。
(痛いのも、苦しいのも、誰かが泣くのも。もう嫌だ。
どうか次があるのなら、そんなものがない場所で——。)
祈るような思考を最後に、
私の意識は、泥のような深い微睡みの底へと、完全に溶けていきました。




