第18.1話 アビゲイル視点
視界が、不快な閃光に塗り潰された。
私の指先から、あの温かくて、柔らかくて、少しだけ不器用な体温が、するりと抜け落ちた。
「……え?」
瞬きをする。
不快な光が収まった後の、じめじめとした、吐き気のするような腐臭が立ち込めるゴブリンの巣の最奥。
岩の上に腰掛けていたはずの、亜麻色の髪。
私を『アビゲイルさん』と呼んで、あんなに優しく微笑んでくれた、たったひとつの光。
いない。
手の中には、じめっとしたカビ臭い空気しか残ってない。
握って、開く。握って、開く。
さっきまでマリーと繋いでいた右手が、どんどん冷たくなっていく。
血が氷水になったみたいだ。ドクン、ドクンって、鼓膜の裏で心臓がバカみたいに早く鳴ってる。
うるさい。うるさい……。うるさいっ!。マリーの声が聞こえない。
「……マリー?」
声を出してみる。
ぽちゃん、と。汚濁した水たまりに雫が落ちる音だけが反響する。
返事がない。
マリーの、あの心地よい声が鼓膜を撫でてくれない。
マリーの、お日様みたいに干したてのシーツのような、あの甘くて温かい匂いがしない。
「かく、れんぼ? マリー、どこ……?」
ふらりと一歩、足を踏み出す。
岩の裏。ドロドロに溶けた肉塊のタペストリーの影。
黒い影絵たちを狂ったように明滅させ、洞窟の隅から隅までを青白い光で照らし出す。
「マリー?マリー?でてきて。ねえ。おねがい、でてきて」
浅い呼吸が、ひゅっ、ひゅっ、と喉の奥から漏れる。
視界の端がぐらぐらと揺れ、足元の感覚が泥のように溶けていく。
岩を砕く。溶けた壁をさらに灰へと変える。隠れられそうな場所を、手当たり次第に私の魔力で消し飛ばしていく。
いない。どこにもいない。
いない。いない。いない。
どうして?
気づいたら、自分の頭を両手でガリガリと掻きむしっていた。
爪の間に私の黒い髪が絡まって、ブチブチ抜ける。
痛くない。ただ、胃袋が裏返りそうなくらい気持ち悪い。
捨てられた? 置いていかれた? 私が、悪い子だったから?
ちがう。マリーは私を捨てない。一緒に寝てくれた。私を信じるって言った。
嘘つきじゃない。マリーは嘘をつかない。
「あ……あぁ……っ、あァァァァッ!!」
声帯が引き裂かれんばかりの絶叫が、私の口から飛び出した。
その瞬間、ゴブリンの巣だった巨大な洞窟全体が、ミシミシと悲鳴を上げ、次の瞬間に音もなくサラサラと黒い灰に変わって崩落した。
降り注ぐ岩盤も、腐臭を放つ肉塊も、私の頭上に落ちてくる前にすべてが虚無へと還る。
ぽっかりと空いた巨大なクレーターの中心で、私は息を荒くして立ち尽くしていた。
マリーがいない。
マリーがいない空間なんて、息をしているだけで肺が腐りそうだ。
マリーは、誰かに連れ去られた?
誰に……?
マリーに執着している奴は……。
あの受付の女だ。あの、マリーに馴れ馴れしく近づく、人間の雌。
あいつがマリーを隠したに違いない。
私は空間を引き裂き、一歩を踏み出した。
***
ギルドの分厚い扉は、私が触れる前に腐り落ちていた。
むせ返るような安酒と汗と、薄汚い連中の匂い。
マリーの匂いは一ミリも混ざってない。ひどく不快な空気。
「……マ、リー……」
私が一歩、ギルドの中に足を踏み入れた瞬間。
円卓を囲んでいた冒険者たちがみな気絶している。
普通の女の子であることの約束? 破ってない。私はただ、マリーを探しているだけ。
マリーがいないから、私の魔力を抑え込むストッパーが壊れちゃっただけだ。
カウンターの奥で腰を抜かしているアンナの目の前に、私は立った。
「こっ……の……!」
アンナの喉が引きつる。彼女の瞳孔が揺れ、小刻みに震えているのが見えた。
カウンターを握る彼女の指先は血の気が引き、死体のように真っ白だ。
「ねぇ。私のマリー、どこにやったの」
私の口から出た声は、自分でも驚くほど低く、そしてひび割れていた。
感情の起伏すら失われた、ただ純粋な殺意の塊。
「わ、たしが……知るわけ、ないでしょ……っ! アンタと一緒に、森へ、行ったんじゃないの……っ!」
アンナの呼吸は浅く、狂ったように乱れている。
その目には、私に対する純粋な恐怖と、マリーの身を案じる焦燥が混ざり合っていた。嘘をついている時の匂いじゃない。
「いない。洞窟ごと消したけど、いなかった」
「け、消した……!? な……にしてんのよアンタ! マリーちゃんになんかあったらどうするのよ!」
「うるさい。マリーを出して」
私が手を伸ばし、カウンターの木材がジュワッと音を立てて灰に変わる。
アンナは悲鳴を飲み込みながら後ずさった。
「こっ……の、バカ魔女が……! アンタほどの魔力があるなら、マリーちゃんの気配を辿って転移くらいできるでしょ!! 早く探しなさいよ!!」
彼女の絶叫が、ギルド内に響き渡る。
その言葉を聞いた瞬間、私の頭の芯が、ぐらりと揺れた。
気配。
マリーの、気配。
「…………ないの」
私の唇から、ぽとり、と声が落ちた。
「……え?」
「ないの。ないのないのないの。探したの。ずっと探してるの。でも、ないの。この世界のどこにも、マリーのにおいがしないのっ!!」
私の足元から、黒い瘴気が爆発的に膨れ上がった。
ギルドの建物の柱にピキピキと亀裂が走り、窓ガラスが一斉に粉々に砕け散る。
アンナが両耳を塞いでうずくまるが、私の視界にはもう彼女は映っていなかった。
気配がない。この世界に存在しないかのように、ゼロ。
空間が切り取られたような、完全な喪失。
「ここにも、いない」
ぐるぐると、思考が空回りする。
マリーがいない。ギルドにもいない。森にもいない。
あ、そうか。
唐突に、冷や水のような極端な論理が、私の煮えたぎる脳を冷やした。
森にもいなかった。
なら、あの森が邪魔なんだ。
あの無駄に生い茂った木々が、あの無駄に積み重なった土くれが、マリーを隠しているんだ。
マリーがいない空間なんて、全部いらない。視界を遮るものは、全部消してしまえばいい。そうすれば、隠れているマリーがぽつんと見つかるはずだ。
「……探しに、いかなきゃ」
私は、ふらふらとギルドを後にした。
私が歩くたび、石畳が砂のように崩れ、周囲の建物が急速に風化していく。
でも、そんなことどうでもいい。
***
また、東の森の前に来た。
空は薄暗くて、死の灰が降っている。
私は両手を空に伸ばし、見えない何かを乱暴に鷲掴みにした。
「邪魔ね……」
そのまま、左右に力任せに引き裂く。
頭上の空が、まるで劇場の幕みたいに無惨に割れた。
空の裏側から、星一つない、闇が顔を出す。
割れた空の奥。その深い暗黒の裂け目から、血みたいに赤い糸と、どす黒い赤の幕が、滝のようにドクドクと降り注いできた。
それは生き物みたいに気持ち悪くうねりながら落ちてきて、あっという間に東の森全体を円筒状に囲い込む。
赤い幕の内側に入ったものは、木も土も岩も、マリーを隠している鬱陶しい景色も、全部はじめから無かったことになる。
スッ、と。
私が手を振り下ろすと、木々が、岩が、大地が。
森の生態系そのものが、見えない巨大な金型で円柱状にくり抜かれたように、音もなく下方へと削り取られていく。
物理的な破壊ではない。純粋な消滅。
光すら届かない、底なしの暗黒の穴がぽっかりと大地に口を開けた。
空虚。無。
巻き起こる凄まじい暴風が私の黒髪を荒れ狂うように揺らすが、私は瞬き一つせずにその巨大な穴の底を見下ろした。
いない。
これだけ綺麗に片付けてあげたのに。
どこにも、マリーの姿はない。
「どこなのどこなのどこなのどこなのどこなのどこなの」
呪文のように、口が勝手に動く。
自分の指先を無意識に噛みちぎる勢いで噛み締める。
血の味が口内に広がるが、痛みなんて全く感じない。マリーがいない痛みに比べたら、肉体の損傷なんて存在しないのと同じだ。
「……次」
東の森が駄目なら、南の山。西の湖。北の平原。
王都も、人間も、この大陸ごと、一枚ずつペリペリ剥がして捨てていけば、最後にマリーだけが残るはずだ。
だって、この世界にはマリーしかいらないんだから。
「全部、消しちゃえばいいんだ」
再び両手を掲げ、今度は視界に映る大陸の半分を覆い尽くすほどの黒い幕を展開しようとしたその時。
――トクン。
雑音がした。
「……え」
掲げていた両手の動きが、ピタリと止まる。
暴風が吹き荒れる中、私は全神経をその揺らぎに集中させた。
匂い。
微かな、本当に微かな、お日様みたいに干したてのシーツのような、甘くて温かい匂い。
それに混ざる、ひどく錆びついたような、痛ましい血の匂い。
「マリー……?」
私の瞳孔が、極限まで収縮した。
見つけた。確かにマリーの魂の波長が漏れ出している。
「……みつけた」
口の端が、三日月のように歪に吊り上がる。
私は掲げていた両手を振り下ろし、何もない空間に向かって素手を突き立てた。
次元の壁を物理的に鷲掴みにして、力任せに左右へ引き裂く。
空間が割れて、真っ黒な口が開いた。
その奥に、私の光がいる。
誰かが、私のマリーを傷つけてる。血を流させてる。
絶対に許さない。殺してやる。肉片ひとつ残さず消してやる。
「マリー……今、いくから……!!」
私は笑いながら、その真っ暗な裂け目に飛び込んだ。




