第18話 東の森が消滅です
視界が、ぐにゃりとねじれました。
足の裏から石畳の感触が消え、代わりに内臓を直接鷲掴みにされて引きずり回されるような、強烈な浮遊感と吐き気が喉元までこみ上げてきます。
三半規管が狂い、上下左右の概念が泥のように溶けていく中、私の腰を抱くアビゲイルさんの細い腕だけが、唯一の確かな錨として機能していました。
「ぐ、ぅ……」
足の裏が硬い石畳から、ざらついた土の感触へと切り替わった瞬間、腹の底からせり上がってくる吐き気を、私は奥歯を噛み締めてどうにか飲み込みました。
(早く慣れないといけませんね……)
肺に流れ込んでくる空気が、先ほどまでの湿り気を帯びた地下のそれとは違います。
乾いた、そして微かに焦げたような土の匂い。
ゴォォォ、と耳元で凄まじい風切り音が鳴り響いています。
「……マリー? 大丈夫?」
私の腰に回された細い腕が、きゅっと力を増しました。
すぐ隣から聞こえる、ひんやりとしたアビゲイルさんの声。
彼女の真っ黒な髪が強風に煽られ、私の頬を撫でてきます。
「はい……まだ中々慣れませんね」
私は荒い呼吸を整えながら、ゆっくりと重い瞼を押し上げました。
ギルドに戻り、状況を報告して、そのあと修道服を洗わないといけません。
こういうクリーニング代は経費で落ちるでしょうか。
とりあえず早く着替えたいですね。
そんな切実な思考を巡らせながら前を見据えた私の視界に飛び込んできたのは……。
「…………うん?」
思わず、間抜けな声が漏れました。
私とアビゲイルさん、そして這いつくばるようにして転がり出たベラさんが立っているのは、直径五メートルほどの、切り立った岩の足場でした。
それは、かつて私たちがいた洞窟の入り口部分です。
ですが、異常なのはその外側です。
見渡す限りの、空虚。
足元から数歩先で、大地が唐突に途切れています。
すり鉢状に陥没している、などという生易しいものではありません。
まるで、巨大な見えない円柱の金型で、大地そのものを垂直にえぐり取ったかのような光景。
恐る恐る足場の縁から下を覗き込むと、そこには光すら届かない、底なしの暗黒がぽっかりと口を開けています。小石を蹴り落としてみても、いつまで経っても何かにぶつかる反響音は返ってきません。
風を遮るものが一切ないため、巨大な穴の底から吹き上げ、私たちの髪や服を容赦無く煽っていました。
(……おかしいですね。東の森に転移してもらったはずですが……)
「……あははっ! なにこれ、すっごーい!」
唐突に、ベラさんが甲高い声を上げて笑い出しました。
彼女は這いつくばったまま底なしの暗黒を覗き込み、面白がるように手近な小石を蹴り落としています。
「ねえマリー、見てよ! 下、ぜーんぶ真っ暗! ここに生きたまま人間放り込んだら、どんなふうに潰れるのかなぁ? ぐちゃって音がするまで何秒かかると思う?」
甘ったるい愛嬌のある声で、恐ろしいことを無邪気に言い放つものです。
アビゲイルさんの瘴気がなくなったためか、平常運転の様です。
この異常事態を前にしても、彼女の倫理観はどこまでも変でした。
「あの、アビゲイルさん」
私は表面上はにこやかに、隣で私にぴったりと張り付いているアビゲイルさんに声をかけました。
「ここは一体、どのあたりなのでしょうか? 」
「んー……」
アビゲイルさんは私の腰を抱き寄せたまま、ぽつり、と呟きました。
「ここが、東の森だよ」
「……はい?」
私は自分の耳を疑いました。
東の森。王都の東側に広がる、鬱蒼とした木々が茂る広大な森林地帯のはずです。
もう一度、眼前の光景を見渡します。
木など、一本もありません。木どころか、土も、岩も、生態系そのものが、根こそぎ無に帰しています。
「えっと……どうして、このようなお姿に?」
私が問いかけると、アビゲイルさんの視線が、ふいっ、と明後日の方向へ泳ぎました。
私の服の裾を掴む彼女の指先に、きゅっ、と力が入ります。
瞳孔の開ききった黒い瞳が、僅かに伏せられました。
「マリーが……いなくなったから」
「私がいなくなったから?」
「うん。どこを探しても見つからなくて……邪魔な木とか土とか、全部どかしてみたんだけど、いなくて……だから、つい……」
つい。
その二文字が私の鼓膜を震わせた瞬間、この後始末は誰が処理するのだろうか、と胃がキリキリと痛くなりそうです。
彼女の口ぶりは、まるで探し物が見つからないから、机の上の書類を少し払い落としてみた、程度の軽さです。
しかし、現実として払い落とされたのは、巨大な森一つと、その地下にあったであろう未知の空間のすべて。
「やば~……。ねぇマリー。この子、頭おかしいんじゃないの? つい、で森一個消すとか、どういうこと?」
ベラさんがケラケラと笑いながら、命知らずな発言をしています。
「つい、でここまでですか……」
私は深いため息と共にぼやきをこぼしました。
その瞬間でした。
「っ……!!」
アビゲイルさんの肩が、ビクッ! と大袈裟に跳ね上がりました。
彼女は弾かれたように私から身体を離すと、バタバタと両手を振って宙を掻き毟り始めます。
「ち、ちがっ、ちがうの! 違うの、マリー! わざとじゃないの!」
先ほどまでの無気力な脱力トーンは完全に吹き飛び、ひっくり返ったような裏声が風に響きます。
虚無を宿していたはずの真っ黒な瞳が少し涙目になっているようです。
「だって、マリーがどこにもいなくて……! 暗くて狭いところに閉じ込められてたらどうしようって思ったら、頭のなかが真っ白になって……! だから、ちょっとだけ……ほんのちょっとだけ、力を入れたら、全部なくなっちゃって……!」
必死に弁解するアビゲイルさんの顔は、くしゃくしゃに歪んでいました。
私の袖を両手でしっかりと握りしめ、震えながら見上げてきます。
「怒ってる……? 呆れた……? やだ、ごめんなさい……っ!」
半狂乱になってすがりついてくる彼女の姿は、ひたすらに見捨てられることを恐れる子供そのものです。
ですが、彼女が感情を爆発させるのに呼応して、彼女から瘴気が現れ、足元の断崖の縁からパラパラと土くれが崩れ落ちていきます。
「わっ! ちょっとマリー! このヤバい女、早く黙らせてよ!ボク、こんな穴底で死ぬのなんて絶対やだからね!」
足場が削れるのを見て、ベラさんは舌打ちをして捲し立てるように訴えかけてきます。
ここで怒ってはいけません。パニックを起こしている後輩に必要なのは、叱責ではなく、現状の整理と冷静な対応です。
「アビゲイルさん、落ち着いてください」
私は、震える彼女の両手を自分の手で包み込みました。
血と泥にまみれた私の手のひらから、体温を伝えるように、きゅっと握り返します。
「嫌っていませんし、捨てるなどとんでもない。ただ、一つだけお聞きしてもよろしいですか?」
「……う、うん……」
「どうしてここに転移してきたのですか? ここに来ても、この状況ではギルドには帰れませんよね」
その私の問いに、アビゲイルさんはビクッと身体を強張らせました。
そして、恐る恐る、上目遣いで私の顔色を窺いながら口を開きます。
「だって……」
「だって?」
「マリーが、さっき、言ったから……」
アビゲイルさんの言葉に、私はピタリと動きを止めました。
私が、言った?
脳内の記憶の引き出しを高速でひっくり返します。
「あ……」
アビゲイルさんは、ぽつぽつと、消え入りそうな声で言葉を紡ぎます。
「マリーが、東の森に戻ろうって、言ってたから。だから、私……マリーの言う通りに……」
「…………」
「間違え、ちゃった……? 言われた通りにしたのに……だめ、だった……?」
私は、絶句しました。
前世で直面した光景が脳裏をフラッシュバックします。
『この資料、机の上に置いておいて』と指示したら、本当に机の上に置くだけで、誰の机か確認もせず放置した新入社員。
『適当に切り上げておいて』と言ったら、商談の途中で本当に帰ってしまった若手。
指示された言葉の表面だけを掬い取り、その裏にある文脈や目的を一切考慮せずに実行してしまう。極端な指示待ちの成れの果て。
(なるほど……)
私は、ふっと息を吐き出しました。
森が一つ消滅したという事実は頭が痛いですが、少なくとも彼女に悪意はないのです。
ただ、私への思いが高すぎるあまり、視野が極端に狭くなっているだけ。
「アビゲイルさん」
「……っ、ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
「謝らなくていいですよ」
私はアビゲイルさんの黒い髪をポンポンと優しく撫でました。
「え……?」
「私の指示不足でしたね。言葉足らずで、アビゲイルさんを混乱させてしまいました。あなたは何も悪くありません。言われた通りに動いてくれた。ありがとうございます。」
「悪く……ない……」
アビゲイルさんの虚無の瞳に、ほんのりと光が戻りました。
私の撫でる手にすりすりと頬を寄せ、先ほどのパニックが嘘のように、ふにゃっとだらしない表情に変わります。
「えへへ……マリー、怒ってない……。」
「ええ。ですから安心してくださいね」
私は優しく微笑みかけながら、視線だけで周囲の状況を再確認します。
風は依然として強く、足場も不安定。ベラさんは呆れたような、それでいてどこか面白がるような目でこちらを観察しています。
「では改めて、私たちをギルドの前まで転移させてください。」
「うん……わかった」
アビゲイルさんが、私とベラさんを視界に収め、私の腰に腕を回しました。
彼女の魔力が、周囲の空気を歪め始めます。
視界の端で、虚無の空間がぐにゃりと渦を巻き、再び内臓が浮き上がるような感覚が私の身体を包み込みました。




