第17話 アビゲイルさんのお迎えです
それは死、そのものが近づいてくる恐怖でした。
ぱっくりと開いた暗黒の亀裂から、瘴気の靄が這い出してきます。
生易しいものではありません。空気や光、音さえもが、その裂け目に吸い込まれ、代わりにどろりとした質量を持つ、絶対的な死が吐き出されてくるのです。
隣でベラさんの呼吸が浅くなっているのがわかります。
壁際に追いやられた彼女の細い喉元が、ひきつったように大きく上下に動いていました。
極度の緊張で強張っているのが衣服越しにもわかりました。
先程まで私を弄んでいた小悪魔的な余裕は見る影もなく、彼女の視線はただ一点、その黒い亀裂に縫い付けられています。
裂け目の奥から、ズルリ、と這い出してくる影。
見慣れた、真っ黒な長い髪。
しかし、その毛先は重力に逆らうようにゆらゆらと蠢き、周囲の僅かな光さえも喰らい尽くすような異様な闇を放っています。
「――どこ、に」
乾いた、ひび割れたような声でした。
常に瞳孔が開ききっている黒い瞳には、一切の光が宿っていません。
ただ果てしない虚無と、世界そのものをすり潰そうとする剥き出しの絶望だけが渦巻いていました。
「どこに、いるの……。マリー……。どこにいるの、マリー。どこ……」
少女――アビゲイルさんが、ふらふらと一歩を踏み出します。
足先が石の床に触れた瞬間、不快な音を立てて、石畳が黒く変色し、ボロボロと灰に変わって崩れ落ちました。
彼女が歩みを進めるたびに、周囲の空気が死に、壁のあちこちに黒い靄がへばりついていきます。
「どこ、どこ、やだ、やだ……マリーがいないと、意味ないのに」
呪詛のように、同じ言葉を繰り返すアビゲイルさん。
指先からポタポタと零れ落ちる黒い瘴気の雫が、床に穿たれた穴をさらに深く抉っていきます。彼女の周囲だけ、文字通り『世界が腐食』し始めていました。
アビゲイルさんの異質さに、ベラさんは完全に腰を抜かしていました。
彼女の呼吸は浅く、そして不規則に乱れています。
しかし、私の目に映ったアビゲイルさんの姿は、全く別のものとして処理されていました。
(これはあれですね……話しやすくて信頼できる先輩が突然の異動でいなくなった時、仕事が続けられない!とメンタルが低下した時のようですね……)
頼れる人がいなくなる心細さは、痛いほどわかります。
ましてやアビゲイルさんは、いつも私の横にひっついてついてくるだけの、大人しくて少し内気な方なのですから。
「アビゲイルさん」
私は努めて平坦な、いつものトーンで声を上げました。
「ここです。私は、ここにおりますよ」
ピタリ、と。
崩壊しつつあった空間の浸食が、嘘のように停止しました。
ゆらり、とアビゲイルさんの首が、錆びついた機械のようにこちらを向きます。
光のない真っ黒な瞳が、私を捉えました。
次の瞬間。
底なしの虚無だったその瞳に、ポタッ、ポタッと大粒の水滴が溢れ出しました。
無表情だった顔面が、まるで親を見つけた子供のように、くしゃくしゃに歪みます。
「あ……ぁ……」
ヒュッ、と空気を吸い込む音がしたかと思うと、アビゲイルさんの姿がフッと掻き消えました。
それと同時に凄まじい衝撃が私の腹部を襲いました。
「マリィっ! マリィ、マリィ、マリィッ……!!」
「ぐふっ……!」
文字通り、砲弾のように飛びついてきたアビゲイルさんの頭突きをモロに食らい、私は背中から石の床に倒れ込みました。
「はい、はい。ここにいますよ。大丈夫ですからね」
自分の胸に顔を埋めて赤子のように泣きじゃくるアビゲイルさんの背中に腕を回し、トントン、と一定のリズムで叩き始めます。
アビゲイルさんは、私の服が吐き出した血と胃液でドロドロに汚れていることなど全く気にする様子もなく、ただ私の体温を確かめるように、グリグリと顔を擦り付けてきます。
「やだ、やだ……マリーが、きえちゃったかと、おもった……。わたしをおいて、どこかへ、いっちゃったかと……」
「申し訳ありません。見つけてくれてありがとうございます。」
「んん……マリーのにおい、あったかい……」
細い腕が私の背中をきつく、息が止まりそうなくらいの力で締め付けてきます。
アビゲイルさんの体温を感じ、彼女の規則的な呼吸音が耳元で聞こえ始めてきたのでアビゲイルさんの頭を優しく撫でます。
「よし、よし……。私は、どこにも行きませんから……」
「ん……えへへ……」
アビゲイルさんは目を細め、私の撫でる手にすりすりと頬を寄せてきます。
先程までの世界を滅ぼさんとするほどの雰囲気は嘘のように消え去り、そこにはただの甘えん坊の少女がいるだけでした。
しかし。
私の胸に顔を埋めたまま、アビゲイルさんの視線が、ふと横に滑りました。
そこには、壁際にへたり込み、こちらを見つめるベラさんがいました。
ベラさんの視線は、アビゲイルさんに怯えながらも、私の血まみれの服と、首筋についた赤黒い引っ掻き傷に注がれています。
アビゲイルさんの動きが、ピタリと止まりました。
私の胸に押し当てられていた彼女の体温が、急激に、氷のように冷たくなっていくのが伝わってきます。
「……ねえ。マリー」
鼓膜を直接撫でるような、感情の抜け落ちた声。
「その血。マリーから、流れてるね。マリーの首、赤くなってるね」
「えっと、これは、その……」
「あそこにいる虫が、マリーを、いじめたの?」
アビゲイルさんの黒い瞳が、ベラさんを射抜きました。
その瞬間、部屋の空気が一気に重力を持ったかのようにのしかかりました。
アビゲイルさんの足元から、どろりとした黒い瘴気の靄が溢れ出し、蛇のように床を這ってベラさんの方へと伸びていきます。
「ひっ……!」
ベラさんが短い悲鳴を上げました。
彼女は咄嗟に立ち上がろうとしましたが、足に力が入らないのか、無様に床を這いずって後ずさります。
瘴気の靄がベラさんの足元に触れた瞬間、彼女の靴の革がジュワッと音を立てて溶け始めました。
「だめだよ。マリーは、私の。私のなの。マリーを傷つけるやつは、みんな、みんな許しちゃダメ。」
アビゲイルさんが、私からゆっくりと身体を離し、ベラさんへと歩み寄ろうとします。
その背中から立ち昇る気配は、間違いなく純度100%の排除でした。
「ち、違いますっ! アビゲイルさん、ストップです!」
私は慌てて、アビゲイルさんの両頬を両手で挟み込みました。
ひんやりとした彼女の頬に、私の体温が伝わります。
「ダメですよ、アビゲイルさん。そんなふうに、初対面の方を威圧しては。私との約束、忘れたんですか?」
「……え? ちがっ……忘れてない!!でも、マリー。あいつ、マリーを……」
「あちらのベラさんはですね」
私はアビゲイルに悟られないよう、満面の笑みを浮かべます。
「私がここで倒れていたところを、とても熱心に介抱してくださった、本当に親切な方なんですよ!」
しんと、部屋の空気が凍りつきました。
アビゲイルさんが、冷たい視線を送りながら、私とベラさんを交互に見比べます。
ベラさんも、目を丸くして私を凝視していました。
「介抱……?」
「はい。私が血を吐いて苦しんでいた時、指を……直接、喉の奥まで入れて、血の塊をかき出してくださったんです。普通、見ず知らずの他人にそこまでできませんよね? 本当に、素晴らしい看護精神です」
私は、ベラさんの方に視線を向け、深く頭を下げました。
「先程は、取り乱してしまい申し訳ありませんでした。ベラさんの適切な処置のおかげで、こうして息を吹き返すことができました。心より、感謝申し上げます」
「…………は?」
ベラさんの口から、間の抜けた声が漏れました。
彼女の薄水色の髪の隙間から覗く瞳が、まるで未知の存在を見るかのように激しく揺れ動いています。
「マリーが、そう言うなら……」
アビゲイルさんは、まだ不満そう眉をひそめていましたが、ふっと息を吐くと、床を這っていた黒い瘴気を霧散させました。
彼女にとって、私の言葉は比較的優先されるのルールのようです。
「よかった。アビゲイルさんがわかってくださって」
私はホッと息を吐き出しました。
(ここでベラさんが死んでしまっては、私のさっきの苦労がなんだったのかわかりませんからね)
「あの……アビゲイルさん。とりあえず、ここから帰りたいのですが……道、わかりますか?」
「うん。わたしが開けた道なら、すぐ外に出られるよ。マリー、つかまって」
アビゲイルさんが私の腰に腕を回し、自分の身体に寄りかからせるようにして支えてくれました。
ふらつく足で立ち上がり、真っ黒に開いた空間の裂け目の方へと顔を向けます。
そして、壁際にへたり込んだまま動けないベラさんを振り返りました。
「ベラさん」
「……ぇ」
ビクッ、と彼女の肩が跳ねます。
「そばにいてくれるのでしょう?一緒に帰りましょう」
血に塗れた手を、彼女に向かってまっすぐに差し伸べました。
ベラさんは、アビゲイルさんの底冷えするような視線と、私の差し出した手のひらを交互に見つめながら、ベラさんの顔が歪むのが見えました。
彼女の喉元が、ゴクリと重く上下に動きます。
「……う……うん……」
ベラさんの口から漏れたのは、歓喜なのか、それとも絶望なのか。
答えを待つ間もなく、私の視界は白く明滅し、ゆっくりと傾いていきました。




