第16話 子供の癇癪も受け入れます
「なんでっ!?」
鼓膜を劈くような、甲高い金切り声。
ベラさんの両手が私の首元に伸び、衣服の襟首を力任せに掴み上げました。
ガツンッ、と私の後頭部が石の床に打ち付けられます。
「痛っ……」
「なんで!? どうしてボクの言うこと聞かないの!? なんでおかしくならないの!? ねぇ、なんでなんでなんでっ!?」
ガン、ガン、ガンッ!
ベラさんは、まるでお気に入りのおもちゃが動かなくなってしまった子供のように、私の頭を何度も床に打ち付け始めました。
彼女の細い腕のどこにそんな力があるのか、私の身体は赤子のように弄ばれ、視界がぐらぐらと揺れ動きます。
「あ、痛っ、あのっ、ベラさん……っ!」
「壊れてるの!? ボクの力だよ!? なんなの!!キミの頭ん中、空っぽなわけ!? むかつくむかつくむかつくぅっ!!」
彼女は私の頬を平手で打ち据え、首筋に爪を立て、狂ったように暴れ回ります。
その顔には、先程までの小悪魔的な余裕など微塵もありません。純粋な怒りと、思い通りにならないことへの理不尽な癇癪。
振り乱された薄水色の髪が私の顔にバサバサと当たり、彼女の瞳孔が爬虫類のように細く収縮しているのが見えました。
私は床に頭を打ち付けられながらも、私の思考は全く別の方向へと向かっていました。
(ああ……エグゼクティブ案件が一つの失敗で失注して、パニックになっていた後輩の姿が重なります……!)
自分の失敗が受け入れられず、周囲に当たり散らしてしまう。それは極度の緊張と不安から来るSOSのサインです。
ここで私が彼女を刺激してはいけません。
「べ、ベラさん……深呼吸、です……。ゆっくり、息を……すー、はー、と……」
「うるさいっ!うるさいうるさい! ボクに命令しないで!」
ベラさんの両手が私の首筋に伸びてきます。その指先からは、ぞわぞわとするような甘い香りの魔力が立ち昇り、私の皮膚を焼き焦がそうとします。
私は抵抗せず、彼女の小さな手が私の身体を好き勝手に痛めつけるのに任せました。
首を絞められ、息が詰まり、口から赤黒い血の塊が零れ落ちます。
それでも私は、彼女を見つめる視線だけは逸らしませんでした。
(大丈夫です、私が全部受け止めますから……)
「……っ、あー……もうっ」
どれくらいそうしていたでしょうか。
ふと、ベラさんの動きがピタリと止まりました。
荒くなっていた彼女の呼吸が、ふう、と深く吐き出されます。
彼女は私から手を離すと、自分のこめかみに細い指先をトントンと当てました。
「……あーあ。ダメだよね。こんなの、ボクらしくない」
彼女は自分自身に言い聞かせるように呟くと、指先からあの甘い香りを分泌させ、それを自らの鼻へと深く吸い込みました。
すぅっ、と息を吸い込む音が響き。
目を開けた時、彼女の顔には、再びあの完璧で愛らしい、貼り付いたような笑顔が戻っていました。
「えへへ、ごめんね。ちょっと取り乱しちゃった」
「い、いえ……。落ち着かれたのなら、よかったです……」
「あはっ、キミってば本当に変なの! ボクにこんなことされて、怒らないんだ?」
ベラさんは私の胸の上から退き、床にぺたんと座り込みました。
彼女は自分の服の埃を払うと、私を見下ろします。
「ねぇ。キミの名前は? なんでボクの力が効かないのか、すっごーく興味出ちゃった」
私は喉の奥にへばりついた血糊を飲み込み、呼吸を整えようと努めました。
全身の骨が軋み、肺が焼けるような身代わりの苦痛はまだ続いていますが、先程までのピークは越えたようです。
「私は……マリー。マリー・フォルティナ、です」
「――」
私の口からその名前がこぼれ落ちた瞬間。
ベラさんの顔面から、再び表情が消え失せました。
いや、消え失せたというよりは、完璧な陶器の人形に、ピキッ、と深い亀裂が入ったような。
彼女の瞳が、信じられないものを見るように見開かれます。
唇の端がピクピクと痙攣し、喉の奥からヒュッという空気が漏れました。
「……まりー……ふぉるてぃな……」
彼女は、私の名前を、舌の上で転がすように何度も呟きました。
その声は、先程までの甘ったるいトーンとは全く違う、ひどく低く、泥水のように濁った響きを帯びていました。
私を見る彼女の瞳の奥が渦巻いています。
しかし、それはほんの一瞬のこと。
「へぇ……マリー、っていうんだぁ」
瞬きを一度しただけで、ベラさんは元の愛らしい笑顔に戻っていました。
ただ、その笑顔は先程よりもずっと深く、ねっとりとした熱を帯びているように見えます。
「いい名前だねっ。なんだかボク、キミのことずっと前から知ってるような気がしてきちゃった。これって運命、かなぁ? えへへっ」
彼女がそう言って身を乗り出してきた時、私の限界が訪れました。
「げほっ、ごほぉっ……!!」
喉の奥から、せき止められていた熱い塊が一気に込み上げてきました。
私は床に横向きに倒れ込み、胃の内容物と赤黒い血を激しく嘔吐しました。
気管に血が詰まり、呼吸ができません。ヒュー、ヒューと喉が鳴り、視界が明滅します。
「あーあ。汚いなぁ、もう」
ベラさんの呆れたような声が聞こえ、私の背中にひんやりとした柔らかな感触が触れました。
「でも、壊れられちゃうとボクが困るからね。特別に、ボクが治してあげるっ」
ベラさんは私の背後に回り込み、私の身体を抱き起こすようにして自分の膝の上に寄りかからせました。後ろからハグをしてくれているようです。
私の後頭部が、彼女の華奢な胸元に押し当てられます。
彼女の冷たい指先が、私の血に塗れた口元を無造作に拭い、そのまま躊躇いもなく私の口内へと差し込まれました。
「えっ……あ、ちょっ……」
「しーっ。動かないで。気道、塞がっちゃうよ?」
ベラさんの指先が私の舌を押し下げ、喉の奥にこびりついた血の塊を直接かき出していきます。
甘い香りが、口内から直接粘膜を這い上がってくるような生々しい感覚。
彼女は私の口から引き抜いた指についた血を、ペロリと自分の舌で舐め取りました。
「ん……ひどい味。でも、嫌いじゃないかも」
「ひっ……!何してるんですか!」
私は羞恥心で顔から火が出そうになりました。
いくら介抱のためとはいえ、あまりにも距離が近すぎます。
彼女の甘い吐息が私の耳をくすぐり、彼女の体温が背中越しに直に伝わってくるのです。
「痛いの痛いの、飛んでいけ~」
彼女の手が私の胸元に添えられ、そこからひんやりとした魔力が流れ込んできます。
それは、私の体内で暴れ回っていた熱を、ゆっくりと中和していくような感覚でした。
彼女のその異様な密着と、甘い言葉。
私は戸惑いながらも、その柔らかな体温と、確かに痛みが引いていく安堵感から、ゆっくりと彼女に身体を預けました。
(誰かに、こんなに優しくしてもらえるなんて……いつ以来でしょうか……)
「はぁ……はぁ……、ありがとう、ございます……」
「えへへ、いいよ。キミはボクのと・く・べ・つ、なおもちゃだもん。大事にしてあげなきゃね」
私は衣服についた血糊を気にして少し距離を取り、改めて彼女に向き直りました。
ベラさんは膝を抱えるようにして座り、小首を傾げて私を見つめています。
「ねぇマリー、どうしてキミ、こんなところにいるの?」
「それが、私にもよくわからないんです」
私は首を横に振りました。
「ギルドのクエストで、洞窟に入ったんですけど、その洞窟の奥から転移してしまったようで……」
「ふーん、そっかぁ。」
ベラさんは顎に指を当て、つまらなそうに呟きました。
「まぁ、キミがどこから来たかなんて、ボクにはどうでもいいんだけどね。これからずっと、ボクのそばにいてくれるならさ」
「えっと、それは……」
私は苦笑いを浮かべました。
(無事帰還した時に、アビゲイルさんの視界に、私とずっと一緒にいるのを見られたら、寂しい思いをさせてしまいそうです)
「マリー、ここはね……」
ベラさんが、立ち上がりながら口を開いた、その時でした。
――ぞわぁっ。
全身の毛穴という毛穴が開き、産毛が逆立ちます。
それは、痛みでも、寒さでもありませんでした。
純粋な死。
物理的な質量を持ったような、圧倒的で絶対的な死の気配が、突然、部屋の空気を完全に塗り潰したのです。
「え……?」
ベラさんの言葉が途切れ、彼女の顔から再び表情が抜け落ちました。
顔からサッと血の気が引き、瞳孔が限界まで開ききっています。
彼女はゆっくりと、信じられないものを見るように、部屋の片隅へと視線を向けます。
私も、震える首を回してそちらを見ました。
そこには、何もありませんでした。
ただ、空間そのものが、ドス黒い染みのように変色し始めているだけ。
石造りの壁が、床が、空気が。
音もなく、ただ静かに、黒に侵食されていく。
私たちの目の前の空間が、まるで劇場の重厚な黒い幕が左右に開くように、ゆっくりと、そして静かに裂けました。




