第15話 ベラドンナ・フェルモティ(Belladonna Fermoti)
(……おもちゃ?)
私の鼓膜にねっとりと絡みついた言葉。
ひゅ、ひゅ、と間抜けな音を立てる自分の呼吸音だけが、やけに大きく脳内に響きます。
痛覚は、未だに私の全身を犯し、意識を保つのがやっとの状態です。
そんな私の耳に滑り込んだ、少女の言葉。
私は、自分の顔が涙と鼻水、それに拭い切れない涎でドロドロになっているのを自覚しています。
床をのたうち回り、自分の服を引き裂きながら、悲鳴を殺すために布の切れ端をガチガチと噛み締めていた、ほんの少し前の自分。
(私の……姿を見ておもちゃと思ったのなら、中々悪趣味な子ですね……!)
そう思っていた時、少女が話しかけてきました。
「ねえ。なんでぇ?どうしてボクを助けたの?」
少女は、恋人繋ぎにした私の指の間に、さらに自身の指を深くねじ込んできました。
ミシッ、と私の関節が鳴ります。
痛覚が麻痺しているはずの私の手にすら、はっきりと伝わる強い握力。
彼女は首を傾げ、三日月型に細められた瞳で私を覗き込みました。
「キミさぁ、こんなところで何してるの? もしかして、そうやって善人ぶりたいだけの偽善者? 可哀想なボクを助けて、『あぁワタシってなんて優しいの』って優越感に浸りたかったのかなぁ?」
声だけを聴けば可愛らしく、甘ったるい声。
けれど、その声音には、致死量の毒がたっぷりと含まれているような、身震いする不気味さがありました。
(ひゅっ……は、あ……っ)
返事をしようにも、喉が痙攣して空気が通っていきません。
舌先には血の味がこびりつき、唇を動かすだけで顔の筋肉がひきつります。
そんな私の状態など気にも留めず、少女は弾丸のように言葉を浴びせかけてきます。
「ねぇ、なんでキミが苦しんでるの? ボクねぇ、背中から胸ごと剣でぐっさーって貫かれて、そこから呪いの炎が身体中を焼き尽くして、絶賛死ぬ途中だったんだよねぇ。もう骨も炭になってたし、肺も半分は消し炭になってたはずなんだけど。でもさ、見てよコレ。今のボク、すっごく元気。お肌もツヤツヤ。……ねぇ、それなのに、なんで代わりにキ・ミ・が死にそうになってるの?」
少女は顔をさらに近づけてきました。
彼女の吐息が私の頬を撫でます。
薄水色の髪から漂う甘い香りが、私の鼻を塞ぎ、思考を麻痺させていくようです。
「まさか、ボクの呪いを吸い取った? そうだとしたら、なんでそんな馬鹿なことするの? それ、ボクの身代わりになってるってこと? ……あはっ……あはははっ! ねぇねぇ、どんな味? ボクの内臓を溶かした呪い、どんな味がしたのかなぁ?キミの中でどうなってるの? ねぇってば、答えてよ!!」
「あ……、う、ぐ……」
私は必死に瞬きをして、視界の焦点を合わせようとしながら彼女の目を見ます。
自分が死にかけていたという恐ろしい現実。
そして、見知らぬ場所で見知らぬ女が苦しんでいるという異常事態。
その恐怖から逃れるために、彼女はあえて攻撃的な態度をとり、虚勢を張ることで精神の均衡を保とうとしているのだと私は思いました。
(上司に詰められて落ち込んでいた同僚が、いつもより攻撃的で虚勢を張っていることがありましたね……触れて欲しいのに、触れてほしくない素振りを取るような。それと同じでしょう)
なんと健気で、痛ましい姿でしょうか。
(安心、させないと。私が、しっかり、対応しなければ……っ)
どんな理不尽な言葉を浴びせられても、まずは相手の不安を傾聴し、寄り添うのがシスターの基本です。
ましてや彼女は、極限状態にある被害者なのですから。
「ご、めん、なさ……っ」
私は掠れた声で、どうにか謝罪を絞り出しました。
気の利いた言葉一つ掛けられず、ただ醜態を晒すことしかできない不甲斐ない自分への謝罪。
「ふふっ、あはは!なんで謝るの? キミって本当に、おかしいねっ」
少女は満面の笑みで、私の言葉を切り捨てました。
その笑顔は、あまりにも完璧で、人形のように美しく、ひどく歪でした。
まともな人間であれば、一目見ただけで本能的な危険を感じるであろう、異物感。
しかし、社畜OLだった私には、彼女のその笑顔が「無理をして作った痛々しい笑顔」にしか見えません。
(とにかく、まずは基本からです。お互いを認識し合うことで、落ち着きを取り戻せるはず……)
私は大きく息を吸い込み、肺が焼けるような痛みに耐えながら、口を開きました。
「あ、の……。お名前、は……?」
信頼関係の第一歩。相手の名前を伺い、個として向き合うこと。
私のその問いかけを聞いた瞬間。
少女の瞳が、スッと細められました。
「――」
次の瞬間、絡め合わせていた指先がぐんと強く引かれました。
「あっ……」
私の身体は、抗う間もなく床へと引き倒されました。
ドンッ、と。
背中が冷たい床に打ち付けられ、肺から残っていた空気が強制的に押し出されます。
「げほっ、かはっ……!」
咽せる私の視界を覆うように、少女が覆い被さってきました。
私の腕を両手で押さえつけ、上から体重をかけて馬乗りになるような体勢。
(……えっ?)
少女は、私の耳たぶに唇が触れるほど、べったりと顔を寄せました。
「ベラドンナ・フェルモティ……」
甘く、どこか湿り気を帯びた吐息が、私の鼓膜に響きます。
「それが、ボクの本当の名前だよ」
「べらどんな……さん」
「特別に、ベラって呼んでもいいよ~っ」
彼女は、まるでベッドの上で恋人に愛を囁くような甘ったるい声で、クスクスと笑った。
「キミは、ボクの特別なおもちゃだからね。こんなに面白い存在、見逃すわけないじゃん。だから……ボクの所有物になる権利、あ・げ・る」
彼女の言葉が終わるか終わらないかのうちに、彼女の指先から、甘ったるい匂いを放つ何かが分泌されたのを感じました。
それは見えない粘り気のある糸のように私の皮膚を透過し、直接脳へと這い上がってきます。
脳の隙間に、甘く冷たい蜜を注ぎ込まれるような、抗いがたい感覚。
細胞のひとつひとつが甘く痺れ、自分の意志が白く塗り潰されていくような――。
しかし。
パキンッ。
頭蓋骨のすぐ裏側で、硬質のガラスが砕け散るような高い音が響きました。
脳を侵食しようとしていた甘い蜜は、核に触れる直前で、見えない壁に弾かれるようにしてあっけなく霧散しました。
後に残ったのは、いつも通りの、私の冴えない思考だけです。
「……うん?」
頭の上のモヤモヤが晴れて、私はポカンと口を開けました。
私の上にのしかかっていたベラさんの動きが、ピタリと止まりました。
完璧な美少女の顔に貼り付いていた、あの歪で甘い笑顔が、ポロリと剥がれ落ちます。
「……は?」
ベラは、信じられないものを見るように瞬きを繰り返しました。
私を押さえつける手の力が、微かに緩みます。
「えっ、なんで……どうして……? ボクの支配が、効かない……?」
彼女の瞳が、初めて見せる当惑に揺れていました。
深い混乱が、彼女の顔を覆っています。
「あの……ベラさん? どうかしましたか?」
私は、間抜けな声で首を傾げました。




