第14.1話 少女視点 さいこうのおもちゃ
ざざっ、と。
脳のど真ん中を、粗いやすりで削り取られたような雑音が走った。
……---お前は…--だ……
誰の言葉だっけ。まあ、どうでもいいや。
そんなことより、ボクの背中の肉が、異物によって不快なほど容易く、無作法に押し開かれたことの方が問題だった。
冷え切った剣の感触が筋肉の繊維を断ち切り、右の脇腹へ向かって一直線に斬られている。
間髪入れずに、ボクの華奢な胸を突き破って、刃の先端が顔を出した。
(あはっ、まだちゃんと赤いね。ボクの血。)
ごばっ、と、喉の奥からせり上がった赤黒い塊が、ボクの桜色の唇から零れ落ちた。
足の裏から重力が消える。ボクの身体は、真紅の絨毯へと沈み込んだ。
痛い、なんていう陳腐な言葉じゃ足りない。
傷口から、どす黒い泥のような何かが血管に侵入してくるのがわかった。
呪いだ。それも、とびっきり悪趣味なやつ。
神経細胞の一つ一つに無数の羽虫が産み付けられ、内側から肉を食い破りながら孵化していくような、悍ましい感覚。
血液が沸騰し、骨の髄が炭化していくような錯覚に、ボクは息を吸うことすらできず、ただヒュー、ヒューと間抜けな音を鳴らした。
(あーあ……ボクの舞台、こんなところで終わっちゃうんだ)
血を吸ってぬかるむ絨毯に頬を擦り付けながら、薄れていく視界。
ばかみたい。
フェルモティ家は代々、絶対の絆と忠誠を重んじる家系だ、なんて。あんなの、ただの呪いの言葉だよね。誰かに縛られなきゃ生きられないなんて、弱者の言い訳にすぎない。
だからボクは、この完璧で可愛い『女の子の皮』を被って、愚かな連中をコントロールして、安全な場所から見下ろして生きてきたのに。
ボクのこの特別な身体を。緻密に計算して作り上げた、完璧な美少女を。
こんな、誰も見ていないような薄暗いお城の廊下で、ゴミみたいに捨てるの?
(……むかつく。むかつくむかつくむかつくむかつくっ……!)
憎悪が、呪いの熱と混ざり合って脳味噌を煮詰める。
世界中の人間が死ねばいい。ボクの邪魔をするやつ、ボクの可愛さにひれ伏さないやつ、全部全部、肉片になっちゃえばいいのに。
指先一つ動かせない。肺に溜まった血が気泡を立てて、ごぼっ、と再び口から溢れた。
もう、瞳の焦点も合わない。視界が、ただ黒く塗り潰されていく。
その時だった。
「――――っ!!」
バタバタと、無様な足音を立てて駆け寄ってくる影があった。
修道服? なんだ、あんなダサい服。
その女は、血の海で滑りそうになりながら、ボクの傍らに膝を突いた。
「しっかりしてください! 今、助けますから……っ」
仰向けに抱き起こされる。
ボクの肩幅とか、背中の骨格とか。同年代の女の子よりほんの少しだけ硬くて厚みがあるこの『秘密』に、彼女の指先が触れる。
でも、彼女はそんなこと気にも留めない様子で、ただボクの血まみれの手を、両手で強く握り込んだ。
馬鹿じゃないの。これ、内臓ごと抉られてる致命傷なんだけど。どんなに高度な回復魔法だって、もう間に合うわけないじゃん。
なのに。
彼女の指先から、あり得ないほどの熱が流れ込んできた。
引き裂かれていた肉が、時間を巻き戻すようにうねりながら結合していく。砕けた骨が元の位置に戻り、呪いの泥が一瞬にして霧散していく。
なんだ、これ。
ねぇ、何をしたの?
驚きに微かに瞳を動かすと、至近距離に彼女の顔があった。
青ざめて、必死で、なのにボクを安心させようとするみたいに、無理やり作ったような歪な笑顔。
その顔を見た瞬間、ボクの胸の奥底で、何かがねっとりと這いずるのを感じた。
あはっ。
甘い息が漏れる。同時に、限界を迎えていた意識が、ふっと暗闇の中へ溶けていった。
***
鼻腔をくすぐるのは、ボク自身の髪から香る甘い匂い。
背中には、上質なベルベットの感触。
ゆっくりと意識が浮上する。目を開けると、そこは先ほどと同じように閉鎖的な空間だった。
ボクの頭の下にはクッションが敷かれ、上着代わりのダサい修道服が丁寧に掛けられている。
(……生きてる)
胸元に手を当てる。服はズタズタに引き裂かれているけれど、その下にあるはずの肌は、傷一つなく滑らかだった。
呪いの残滓すら感じない。
本当に、完璧に治っている。あんな、内臓が飛び出るほどの致命傷だったのに。
「んんんっ……!! う゛ぐっ……、あ゛、がっ……!!」
不意に、奇妙な音が耳に届いた。
獣の呻き声? それとも、潰された虫の羽音?
ボクはゆっくりと上体を起こし、音のする方へ視線を向けた。
そこには、ひどく滑稽な生き物がいた。
先ほどボクを助けた、あの女だった。
彼女は、冷たい石の床を転げ回り、爪が剥がれるほどの力で床を掻き毟っている。
髪は乱れ、顔中を脂汗と涙と鼻水でぐしゃぐしゃに濡らしている。口の端からは、だらしなく涎を垂らしながら。
その口には、引き裂かれた修道服の布が、限界までねじ込まれていた。
ミシッ、ミシッ。
彼女の顎の骨が鳴る音が、ここまで聞こえてくる。
眼球は裏返りかけ、まるで体が真っ二つに割られているかのように、あるいは、全身の血管に泥を流し込まれているかのように、激しい痙攣を繰り返している。
(……あ)
ボクは、理解した。
あの傷。あの呪い。
ボクが受けたはずの、あの絶望的な苦痛のすべてを。
彼女は今、自分の身体でそっくりそのまま味わっているのだと。
(どうして?)
ボクの受けたダメージを、自分に移した?
なんのために?
ボクを助けるため? ただ、目の前で倒れていた、名前も知らないボクのために?
そして今、あんなにみっともなくのたうち回りながら、必死に声を殺している。
ボクを、目覚めさせないように。
ボクに、心配をかけないように。
ドクン、と。
心臓が、変な音を立てた。
指先から、じわじわと痺れるような熱が広がっていく。
(あはっ……なにそれ、なにそれなにそれ!!)
ボクの瞳孔が、勝手に開いていくのがわかった。
彼女の姿は、ひどく醜悪だった。
美しさの欠片もない。泥水みたいな鼻水を垂らして、床に額を擦り付けて、ただ痛みに耐えているだけの、惨めな生き物。
なのに。
どうしてこんなに、脳が痺れるんだろう。
ドクドクと、耳の奥で血液が巡る音がする。アドレナリンが過剰に分泌されて、視界の輪郭が歪むほどに興奮している。
彼女は、ボクのために、あの地獄を引き受けてくれた。
ボクなんかのために、あんな醜い顔を晒して。
(ねえ、君。ボクがどんな人間か知ってる?)
(ボクはね、君みたいな純粋なお人好しを、一番見下してるんだよ)
(完璧な美少女のふりをして、裏でコソコソ笑いながら他人を操ってる、最低の生き物なんだよ)
もし、ボクの秘密を知ったら?
ボクが女の子じゃないって、ボクが君をただの「最高に面白いおもちゃ」としか思ってないって知ったら。
君はどんな顔をするのかな。
絶望する? 裏切られたって泣き叫ぶ?
それとも、それでもボクに『絶対の絆』を誓ってくれる?
(……ほしい)
彼女のすべてが、ほしい。
あの純粋な善意を、ボクの泥みたいな悪意でぐちゃぐちゃに汚してみたい。
もっと壊したい。狂わせたい。おかしくさせたい。
ボクのためだけに苦しんで、ボクのためだけにその醜い顔を歪めて、絶望して、泣いて、すがりついてほしい。
長椅子の上で息を潜めていると、やがて永遠にも似た時間の果てに、彼女の痙攣が少しずつ収まっていった。
口に咥えていた唾液まみれの布を吐き出し、荒い息を繰り返しながら、彼女がゆっくりと顔を上げる。
そして、ボクと目が合った。
彼女の顔が、一瞬だけ硬直する。
見られた。ボクに、その情けない姿を見られた。
彼女の揺れる瞳がそう言っていた。
あはっ、馬鹿だなぁ。ボクは全部、見てたのに。君が床を舐めるみたいに這いつくばる姿も、涎を垂らして白目を剥く姿も、全部、全部。
「はぁっ……、ひゅぅ……っ。だ、だいじょうぶ、です、よ……」
掠れた、血の味がするような声。
彼女は這いつくばったままボクの前に膝をつき、ぐしゃぐしゃになった顔面で、無理やり顔の筋肉を引き上げた。
涙と鼻水で汚れた顔。ちっとも可愛くない。
でも、その一番優しい笑顔が、ボクの理性をどろどろに溶かしていく。
彼女の震える両手が伸びてきて、ボクの手を包み込んだ。
ボクの、同年代の少女にしては少しだけ太い指の関節。わずかに大きい手のひら。
彼女はそれに気づく様子もなく、ボクの指と自分の指を、隙間なく絡め合わせてきた。
恋人同士がするように。深く、強く。
彼女の手は、死体みたいに冷たかった。
だから、ボクの脈打つ体温を、少しだけ分けてあげる。
きゅっ、と。彼女がひきつった笑顔のまま、ボクの指を握りしめた。
安心したように、視界を揺らす彼女。
ああ、なんて愚かで、愛おしいんだろう。
ボクは、指を絡め合わせたまま、ゆっくりと彼女の顔に近づいた。
ボクの薄水色の髪から漂う甘い香りが、彼女の鼻をくすぐるように。
完璧に整った可愛らしい唇を、彼女の耳元へと寄せる。
彼女は、ボクが怯えて泣き出すとでも思っているのかな。それとも、助けてくれたお礼を言ってくれるとでも?
ちがうよ。
ボクは、君のその顔を、もっともっと無様に歪ませてあげたいだけ。
ボクは、獲物を前にした蛇のように瞳を極限まで細めながら、微かな吐息混じりに、甘く、囁いた。
『――あはっ。さいこうに狂ってて、すっごく面白いおもちゃ……みぃつけた』




