第14話 見られてしまいました
眠る少女の身体は、驚くほど軽かったです。
身代わりによって彼女の傷は完全に塞がってますが、失われた血までは戻せません。
蒼白な顔、人形のように整った睫毛は微動だにせず、呼吸は浅く、か細いです。
(……とにかく、ここから移動しなくては)
私は小さく呟き、彼女を背中にのせました。
肩にかかる薄水色の髪から、甘い香りが微かに漂ってきます。
このお城のようなところから抜け出すため、私は彼女を背負ったまま、赤い絨毯が敷かれた廊下をただひたすら歩いていました。
壁を飾る豪華な燭台の炎は、風もないのにねっとりと揺れています。
重厚な扉を押し開けても、窓一つない閉鎖的な空間であったり、コンクリートのようなもので入口が完全に塞がってるような状態でした。
まるで、迷路や脱出ゲームの中に閉じ込められたようです。
(困りましたね。これでは帰ることが難しそうですね……)
アビゲイルさんと離れてからどれだけ時間が経ったのかわからないほど、時間の感覚がありませんが、これ以上無闇に歩き回っても、無駄に体力を消耗するだけでしょう。
(少し……休みますか)
先ほど通った場所に、休憩できそうなところがあったので、そちらに向かいます。
そこには上質なベルベットの長椅子が置かれていました。
私は慎重に少女を下ろし、少女の頭の下にクッションを敷き、自分の修道服の上着を脱いでそっと掛けます。
彼女の瞳は静かに閉じられ、胸の上下運動も先ほどよりずっと穏やかになっていました。
その寝顔を確認して、私は小さく息を吐き出しました。
(アビゲイルさんが見つけてくれるのを待つほうがよいのでしょうか)
私は少女の足元から少し離れた壁際に寄りかかり、ずり落ちるようにして腰を下ろしました。
冷たい壁の感触が、火照った背中から熱を奪っていきます。
張り詰めていた緊張の糸が、ふっと緩みました。
そして、その瞬間。
左の肩甲骨の下から、右の脇腹にかけて。
ゴッ、と。
太い骨が砕け、肉が分厚く断ち切られるような音が耳の奥で爆ぜました。
次いで、背中の中心から胸部を貫くように、何かが内臓を削りながらねじ込まれる感覚。
「――――――――っ!!??」
声が出ません。
酸素を吸い込もうとした肺が、半分に分断されたかのように空気を拒絶します。
そして、痛みを伴う部分から、どす黒い泥のような何かが血管を這い上がり、全身の神経細胞を内側から腐らせていくような、あるいは無数の虫を流し込まれたような、おぞましい感覚が広がっていきます。
(あ……あ゛あ゛あ゛……っ、あ゛あ゛あ゛あ゛!!!)
(どうして……いまっ……!!)
目の焦点が合いません。
視界は涙でぐしゃぐしゃに歪み、鼻からは泥水のような鼻水が垂れ、口の端からはとめどなく涎が溢れ出します。
息ができません。
吸い込もうとするたび、胸の奥でヒュー、ヒューと間抜けな音が鳴るだけです。
床に転げ回り、爪が剥がれるほどの力で床を掻き毟りました。
視界は明滅し、自分が上を向いているのか下を向いているのかすらわかりません。
奥歯を強く噛み締めすぎたせいで、ミシ、と顎の骨が鳴りました。
このままでは、狂乱のあまり自分の舌を噛み切ってしまいそうです。
私は痙攣する腕をどうにか動かし、自分の修道服の袖口を力任せに引き裂くと、布の塊を口の奥深くへとねじ込みました。
「んんんっ……!! う゛ぐっ……、あ゛、がっ……!!」
汚くて、歪な鳴き声が漏れ出ます。
大量の脂汗が全身から噴き出し、修道服がべったりと肌に張り付きました。
大声で叫び回りたい。
喉が裂けるまで泣き喚いて、誰かに助けを求めたい。
でも、それはできないのですっ。
すぐそこで、あんな凄惨な目に遭った少女が眠っているのです。
私のこの醜悪な叫び声で起こしてしまえば、彼女をどれほどの絶望に突き落とすか。
私は布を噛む歯にさらに力を込め、床に額を擦り付けるようにして、ただひたすらに神経を焼き尽くす嵐が通り過ぎるのを待ちました。
眼球が裏返りそう。心臓も破裂しそうです。
それでも、絶対に声だけは出すわけにはいきません。
どれほどの時間が経ったでしょうか。
永遠にも似た地獄の中で、ふと、視線の先に違和感を覚えました。
長椅子の上で横たわっていたはずの少女が、上半身を起こしていました。
薄水色の髪の間から覗く、イエローの瞳。
その瞳孔は真っ直ぐに、床を転げ回り、涙と鼻水と涎で顔を濡らしている私の醜態を捉えていました。
(……あっ)
見られてしまいました。
私の、こんな情けない姿を。
彼女は、自分が殺されかけた直後に、見知らぬ女が血も流さずに狂ったように悶え苦しんでいる光景を、無言で見つめているのです。
どれほど不気味で、恐ろしい光景だったことでしょう。
彼女の瞳の奥で揺れる光は、きっと極限の恐怖と混乱に違いありません。
(安心、させなきゃ……。私が、しっかり、しないと……っ)
体が真っ二つにされるような幻覚は、未だ脳を犯し続けています。
それでも私は、口に咥えていた唾液まみれの布を吐き出し、這いつくばるようにして彼女の元へ近づきました。
「はぁっ……、ひゅぅ……っ。だ、だいじょうぶ、です、よ……」
声はカスカスに掠れ、血の味がしました。
私は少女の前に膝をつき、ぐしゃぐしゃになった顔の筋肉を無理やり引き上げました。
涙と鼻水で酷い顔になっている自覚はありましたが、それでも、彼女を安心させるための一番優しい笑顔を作ったつもりです。
そして、震える両手を伸ばし、彼女の小さな手を包み込みました。
同年代の少女にしては、指の関節が太く、手のひらも大きいように感じます。きっと、恐怖で全身がこわばっているから、骨張って感じるのでしょう。
私は彼女の指と自分の指を、隙間なく絡め合わせました。
恋人同士がするように、深く、強く。
本当は、私自身が何かにすがりつきたかっただけなのかもしれません。
誰かの体温に触れていなければ、このまま呪いの幻影に押し潰されて、正気を失ってしまいそうだったからです。
「……もう、大丈夫ですよ……。貴女は生きています……」
ひきつった笑顔のまま、私は彼女の指をきゅっと握りしめました。
脈打つ彼女の体温が、感覚のない私の指先をじんわりと温めてくれます。
良かった。彼女は生きている。
安堵に視界が揺れた、その時。
指を絡め合わせたまま、少女の顔がゆっくりと私に近づいてきました。
薄水色の髪から漂う甘い香りが鼻をくすぐります。
整った可愛らしい唇が、私の耳元に寄せられました。
怯えて、泣き出してしまうのだろうか。
それとも、助けてくれたお礼を言ってくれるのだろうか。
そう思って息を呑んだ私の耳に、微かな、本当に微かな吐息混じりの声が滑り込みました。
『――あはっ。さいこうに狂ってて、すっごく面白いおもちゃ……みぃつけた』
耳の奥をねっとりと舐め上げられるような、甘く、酷く歪んだ声。
弾かれたように顔を戻すと、私の目の前には、完璧な美少女の顔がありました。
ただ、その瞳だけが、獲物を前にした蛇のように三日月型に細められ、底知れない歓喜に濁りきっています。
彼女の唇は、私がこれまで見たどんな人間よりも、深く、悍ましく弧を描いていました。




