↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/46

第13話 一人で冒険です……

 視界が暴力的なまでの白に塗り潰されたかと思うと、そのまま洗濯機に放り込まれ、乱暴にかき回されている感覚がします。


 三半規管が完全に狂い、自分が立っているのか落ちているのかすらわかりません。

 頭の芯がぐらぐらと揺れ、鼓膜の奥でキーンという甲高い耳鳴りが暴れ回ります。


「うっ……ぷ……!」


 たまらず固い床に両手と両膝を突き、胃液を必死に飲み込みました。

 額からは冷や汗がどっと吹き出し、前髪がべったりと肌に張り付いてきます。


「……やっぱり、転移魔法って……嫌い、です……」

 荒い息を吐き出しながら、なんとか顔を上げます。


「アビゲイル、さん……?」

 かすれた声で呼んでみるものの、返事がありません。


 視界のピントが合うにつれ、ここが先ほどまでの湿気と悪臭に満ちた洞窟ではないことがわかりました。

 足元には、無機質な石畳がどこまでも平坦に続いているようです。


 だが、問題はそんなことではありませんでした。

「……これは、どういう状況でしょうか」


 見上げた先にある光景に、私は再びめまいを覚えました。

 空がないのです。

 代わりに頭上に広がっていたのは、私が今立っているのと、同じ石畳の大地でした。


 まるで鏡合わせのように、巨大な大地が上空に覆い被さっています。

 上の大地からは、枯れ木のようなものが下に向かって、重力に逆らって生えており、土塊や岩石が落ちてくる様子もありません。

 巨大な箱庭の天井に、もう一つの世界がへばりついているような、奇妙な空間でした。


(強制転移のトラップ、ですかね)


 ひんやりとした石畳に手を当て、私はぐるぐると回る頭で現状を整理しました。

 アビゲイルさんも一緒にこの空間に飛ばされたのか、それとも私だけが弾き出されたのかはわかりません。


 ただ、確かなのは、あの方のことです。私が消えたと気づけば、寂しがって必死に探しに来るでしょう。

 とはいえ、ただその場で座って待っているのは、元社会人としてひどく怠慢な気がしてなりません。

『連絡が取れないなら、取れるまで行動しろ』。前世の上司の怒声が、こんな異空間でも私の背筋をピンと伸ばさせました。


「とりあえず、進まないことには始まりませんね」


 立ち上がり、修道服の埃を払います。

 無音の世界でした。風の音も、生き物の気配も一切ありません。


 コツ、コツという自分の硬い足音だけが、不気味なほど鮮明に鼓膜を叩きます。

 右も左も、見渡す限り同じような石畳。空腹や疲労を感じる様子もないことから、この空間自体が時間の流れから切り離されているのかもしれません。

 どれくらい歩いたでしょうか。時計がないため正確にはわかりませんが、ふくらはぎが張り始めた頃、行き止まりにぶつかりました。


 巨大な石の壁が、進路を塞ぐようにそびえ立っていたのです。

 しかし、その壁の足元には、微かに赤黒く発光する模様が浮かび上がっていました。

 転移魔法陣、のようです。


(……案内表示板の一つもないなんて、不親切極まりないですね)


 クレームを入れる相手もいないため、私は小さくため息をつき、その魔法陣の上に躊躇いなく足を踏み入れました。どうせ行き止まりなのです。他の選択肢はありません。


 再び、胃袋が持ち上がるようなあの不快感が全身を突き抜けました。

 視界が反転し、着地した瞬間に膝がカクンと折れ曲がります。


「っ……」


 えずきを堪え、涙目のまま顔を上げると、そこは先ほどと全く同じに見える石畳の空間でした。

 しかし、上を見上げて、私は息を呑みました。

 頭上に広がる反転した大地。そこに、うっすらと積もった埃に刻まれた「小さな足跡」が見えます。

 さっきまで私が歩いていた痕跡です。


(本当に、どうなってるんですかここは……)


 自分が箱庭のどの部分にいるのか、空間認識が完全にバグを起こしそうになります。

 それでも、歩みを止めるわけにはいきません。

 その後も、現れる魔法陣を何度も何度も踏み越えました。その度に三半規管が悲鳴を上げ、口の中は胃液の酸っぱい味で満たされましたが、足を動かすことだけは止めませんでした。


 そして、数時間後、 足元の質感が硬い石畳から、ふかふかとした柔らかいものへと劇的に変化しました。


「……?」


 空気が変わりました。

 埃っぽい無機質な匂いが消え去り、代わりに鼻を突いたのは、微かな甘い匂い。

 そして、それに混じって漂ってくる、生温かくてむせ返るような血の匂いです。


 視界が開けました。

 そこは、お城の中にある一室のようでした。

 大理石の壁には豪奢な燭台《しょくだい》が並び、足元には真紅の分厚い絨毯が敷き詰められています。

 見上げれば、クリスタルガラスのシャンデリア。先ほどまでの狂った空間から一転、あまりにも現実的な、しかし明らかに私の見知らぬ場所です。


 ズブッ


 不意に、前方の曲がり角の先から、重く湿った音が響きました。

 分厚い肉の塊を断ち切ったような、生々しい音。

 私は息を潜め、壁に背中を張り付けながら、そっと角から身を乗り出しました。


 視線の先、赤い絨毯の中央に、二つの影がありました。

 一人は、全身を黒い外套《がいとう》で覆った長身の男。

 もう一人は、薄水色のロングヘアを持つ少女でした。

 男は、少女の背後に立ち、その手には赤黒い液体を滴らせた長剣が握られていました。


 少女の背中から胸部にかけて、剣の刃が深々と貫通していました。


「……っ!」


 声を出しかけ、咄嗟に両手で自分の口を塞ぎます。

 男は、少女の背中から乱暴に剣を引き抜きました。

 ごばっ、と大量の鮮血が宙を舞い、シャンデリアの光を浴びて黒々とした飛沫となって壁や床に撒き散らされます。

 吊っていた糸を切られた人形さながらに、少女の身体がぐらりと傾き、そのまま絨毯の上にうつ伏せに倒れ込みました。


 男は倒れた少女を一瞥することもなく刃の血を払うと、まるでその場にいなかったかのように、ふっと消え失せてしまいました。


(暗殺……? 仲間割れ……?)

 状況は全く飲み込めません。しかし、目の前で血の海に沈んでいく命があることだけは確かです。


「――――っ!!」


 私は弾かれたように壁の陰から飛び出し、少女のもとへ駆け寄りました。

 絨毯が血を吸ってぬかるみ、足が滑りそうになるのを堪え、彼女の傍らに膝をつきます。


「しっかりしてください! 今、助けますから……っ」


 仰向けに抱き起こした瞬間、妙な違和感がありました。

 透き通るような白い肌、人形のように整った愛らしい顔立ち。どこからどう見ても美しい少女です。

 しかし、彼女の肩幅や背中を支えた時の骨格の感触に、同年代の少女にはないわずかな硬さと厚みを感じました。

 発育の個人差でしょうか? いえ、今はそんな些細な違和感を気にしている場合ではありません。


 少女のイエロー系の瞳は虚ろに濁り、焦点が全く合っていません。

 傷跡は凄惨を極めていました。

 左の肩甲骨の下から右の脇腹にかけて、そして背中から胸を貫通する裂傷。

 制服のような服はズタズタに裂け、開いた肉の隙間から、白っぽい骨と、ドクドクと脈打つ赤黒い臓器が晒されています。

 呼吸をするたびに、傷口からヒュー、ヒューと気泡混じりの血が溢れ出し、薄い桜色の唇からはごぼっ、と血の塊が吐き出されていました。


 致命傷です。数分、いや数秒後には命の灯火が消える状態。


 私の両手は、彼女の傷から溢れる生温かい血で真っ赤に染まり、ぬるぬると滑りました。

 手首に伝わる彼女の体温が、急速に冷え切っていくのがわかります。


「大丈夫です。絶対に、死なせませんから」


 私は震えそうになる心を必死に叩き伏せ、彼女の血まみれの手を両手で強く握り込み、意識を集中させました。

 スキル身代わりを発動。

 対象が負った一切の損傷、欠損、痛覚を、私の肉体へと引き写す力。


 自分の胸が同じように引き裂かれる代償を想像して、背筋が凍る思いです。

 でも、やるしかありません。

(この子を、安全な場所まで運ばないと。……それが今の、私の仕事ですから)


 恐怖を振り切るように、同時にスキル社畜アドレナリンが発動されます。


 凄まじい痛覚の信号が脳の中枢に到達する寸前で、厚い防音壁に遮断されたかのように完全にマスキングされました。

 視界の端が明滅し、心臓が破裂しそうなほどの異常な速度で警鐘を鳴らしているにもかかわらず、私の意識は恐ろしいほどにクリアに冴え渡っていきます。


 私の腕の中で、薄水色の髪の少女の身体に起きていた凄惨な傷跡が、まるで時間を巻き戻すかのように塞がっていきました。

 裂けていた肉が繋がり、血の気が引いていた頬にわずかな赤みが戻ります。


 やがて、少女のイエロー系の瞳が微かに動き、自分の体を一瞥した後、ゆっくりと私の顔を捉えました。

 私は、これ以上怯えさせないように、できる限り優しい笑顔を作ってみせます。


 その光景を前に、彼女の瞳の奥で、恐怖でも戸惑いでもなく、何か粘ついた奇妙な光が瞬いたように見えました。

 しかし、彼女は小さく甘い息を吐き出すと、ふっと糸が切れたように穏やかな表情になり、静かに目を閉じました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。