第12話 転移魔法は嫌です…
轍の跡がカチカチに固まった王都外れの街道は、歩きにくくて仕方ありません。
馬車の往来を避けるたびに土埃を被るし、足の裏はとっくに痛んできています。
それでも、東の森へ向かう私の足取りは決して重くはありませんでした。
「……マリー」
不意に呼ばれ、視線を横に向けます。
私の右手は先ほどからアビゲイルさんにきつく絡め取られたままで、彼女のひんやりとした体温が汗ばんだ掌にへばりついていました。
「はい、どうかしましたか?」
「……遠い、ね……。転移、しよっか……?」
転移。とても魅力的な提案です。
ただ、あの内臓が浮き上がるような転移魔法の不快感にはどうにも慣れません。
「お気持ちはとても嬉しいです。でも、行きは自分の足で歩きたい気分といいますか……」
「……そっか。マリーが、歩きたいなら……」
「それに」
私は彼女の歩幅に合わせながら、繋がれた手を少しだけ持ち上げてみせました。
「こうして、アビゲイルさんと手を繋いで歩きながらお話しするのも、とても楽しいですから」
言い終わる前に、私の腕がガクンと下に引かれました。アビゲイルさんが足を止めたのです。
振り向くと、私の指先を握り込む彼女の力が異常に強まっていました。
(痛い……関節が軋んで、血が止まりそうです)
覗き込んだ彼女の目は、大きな瞳孔が痙攣するように動いていました。
細い喉の奥から、ふっ、ふっ、という短い呼吸音が漏れています。
白い肌に、熱に浮かされたような赤みがじんわりと広がっていました。
「あっ、あの、ごめんなさい、気持ち悪かったですか……? 女同士で手を繋いでウキウキしてるなんて、ちょっと痛いですよね……」
「……ちが……っ、違う!!」
食い気味の否定でした。
「たのしい……。私もマリーと、手繋ぐとうれしい……ふふっ……へへっ」
彼女の指先が、私の手の甲をすりすりと、確かめるように撫でてきます。
こんな些細なスキンシップで顔を真っ赤にして喜んでくれるなんて。彼女の不器用な優しさに、私の胸の奥がじんわりと温かくなりました。
***
数時間後。
私たちは目的の東の森の入り口に到着していました。
街道の明るさから一転、森の境界線を越えた途端に、空気がねっとりと重くなります。
昼過ぎだというのに薄暗い視界の中を、雪のような灰がふわふわと舞い落ちていました。
「相変わらず、灰が降っているんですね」
私は手のひらでそれを受け止めました。
以前アビゲイルさんが迷い込んでいた時に蔓延していたという死の灰です。
「アビゲイルさんが離れても、森の環境ってすぐには変わらないんですね。」
「……」
ざくっ、ざくっ。
落ち葉ではなく、分厚く積もった灰を踏みしめる音が響きます。
奥へ進むにつれ、その灰の積もり方に奇妙な偏りがあることに気がつきました。
「……変わった形ですね」
朽ちた倒木の横。灰がこんもりと、人間の背丈ほどの山を作っていました。
よく見れば、それはただの山ではありませんでした。
地面を這いずり、手を伸ばしたような造形。頭部と思しき部分には、苦悶に満ちてポッカリと開いた口のような空洞と、眼窩らしき窪み。
まるで、人がもがき苦しむ瞬間にそのまま灰の彫像にされてしまったかのような、異様な生々しさ。
私は手で顔のような部分に軽く触れました。
すると、呆気なく崩れ落ち、中からドス黒く変色した欠片のようなものが転がり出てきました。
「……精巧な悪戯でしょうか。」
「…………マリーは、すごいね」
「え?」
「なんでもない……。いこっ」
彼女は私の手を引く力を少し強めました。
森の中は不気味なほど静まり返っていました。鳥の鳴き声はおろか、虫の羽音一つ聞こえません。
そして何より、肝心の魔物の姿が全くないのです。
さらに歩くこと小一時間。
巨大な洞穴の前に辿り着きました。
洞窟の入口付近には獣の骨や、得体の知れない糞のようなものが散乱しています。
間違いありません。ここが依頼書にあったゴブリンの巣でしょう。
しかし、やはり巣の周辺には見張りの一匹すらいません。
私は腕組みをして唸りました。
「困りましたね。討伐せずとも規模と数を報告しなければならないのに、一匹もいないとなると……ゼロでした。で報告書が通るでしょうか」
前世での嫌な記憶が蘇ります。
僻地エリアで『オーダーありませんでした』と伝えた際、『本当にちゃんと架電したのか?ないわけないだろう。やりなおせ』と突き返されたあの理不尽。
数時間の労力をかけて、銀貨3枚の報酬をふいにするわけにはいきません。
「……仕方ありません。巣の中に入って、生活の痕跡から規模を割り出しましょう。残飯の量や寝床の数で、ある程度の個体数は推測できるはずです」
「入るの……?」
「はい。お仕事ですから」
私が気合を入れて拳を握ると、アビゲイルさんはゆっくりと瞬きをして、空いている方の手をふらりと上げました。
「じゃあ……暗いから。明かり、つけるね」
以前、星空に展開したように、洞窟の空間がビリビリッと分厚い画用紙を破るような音を立てて左右に裂けました。
闇の裂け目から、カタカタと首を傾げながら這い出してきたのは、影絵たちでした。
片目の取れた羊のぬいぐるみ、歪な笑顔を浮かべるドレスを着た女性、メリーゴーランドの馬。どれもこれもひどく不格好でした。
それらが、手回しの古い映写機で回されているみたいに、ぎくしゃくとコマ落ちした動きで洞窟内を漂っています。
そして、影絵たちの輪郭が、じわじわと発光し始めました。
「相変わらず幻想的ですね! ランタン代わりになります」
「……えへへ」
アビゲイルさんはうっとりと目を閉じ、頬を桜色に染めてました。
かすかに開いた唇からは、甘い吐息が漏れているようです。
影絵たちが放つ青白い光を頼りに、私たちはゴブリンの巣の中へと足を踏み入れました。
瞬間、強烈な臭気が鼻腔を殴りつけました。
生ゴミを真夏の密室に一週間放置し、そこに腐った卵と硫黄を混ぜ合わせたような、目から涙が滲むほどの悪臭。
「うっ……! これは、なかなか……」
私はハンカチで鼻と口を覆いました。
足元は泥濘んでおり、一歩踏み出すごとに、水気の多い粘土を踏み潰したような嫌な音が鳴ります。
影絵の光が壁面を照らし出すと、私は思わず眉を顰めました。
洞窟の壁には、赤黒い何かがべったりとこびりついていました。
ペンキをぶち撒けたようなものではありません。もっと立体的で、質量を持った何か。
光を近づけてよく見ると、その表面は微かに脈打つように泡立ち、ブツブツとした無数の気泡が弾けては黄色い膿のような液体を垂れ流しています。
壁の所々には、それがかつて生物であったことを示す痕跡がありました。
半ば壁と融合し、ドロドロに溶けかかった緑色の肉塊。そこから突き出した、爪の剥がれた短い腕。
肉の表面では無数の白いウジ虫のようなものが蠢き、肉を喰らいながら自らもその粘液に溶け込んでいくという、おぞましい循環を繰り返していました。
さらに足元を照らすと、水たまりだと思っていたものは、どろりとした虹色の油膜が張った体液の海でした。
その中に、眼球だったとおぼしき白濁したゼリー状の球体がプカプカと浮いています。
「……ずいぶんと、まあ、悲惨なところで生活しているのですね」
(野戦病院である程度耐性がついたとはいえ、ここが異世界であることを実感しますね……)
私はなるべく足元の体液を跳ね上げないよう、慎重に歩を進めました。
ゴブリンというのは不衛生な魔物だと本で読んだことはありますが、ここまでとは。仲間同士で共食いでもしたのでしょうか。それにしても、原型を留めないほどミンチになっているのは異常ですが。
「……マリー、こわい?」
繋いだ手から、アビゲイルさんの声が響きます。
壁の惨状には目もくれず、彼女の暗い瞳は私の横顔だけを執拗に観察していました。
「怖くはありませんよ。ただ、報告書になんと書くべきか……壁にこびりついてましたでは、個体数の把握になりませんし」
ため息をつきながら、巣の最奥部まで一周しました。
結局、生きている魔物の姿はゼロ。残っているのは、壁一面に広がる溶けて混ざり合った肉のタペストリーと、底知れない悪臭だけ。
「はぁ……ダメですね。完全に徒労でした」
私は疲労感に襲われ、比較的汚れていない、奥にあった平らな岩の上に腰を下ろしました。
歩き通しだった足の筋肉が、じわじわと熱を持ち始めています。
「アビゲイルさん、申し訳ありません。せっかく付き合っていただいたのに、空振りに……」
言いかけた、その時です。
私の腰掛けた岩の表面、そして周囲の地面から、チカッと赤い光が漏れ出しました。
瞬きする間に、足元に複雑な模様が展開されます。
「え?」
「あっ……!」
初めてアビゲイルさんの顔から、余裕という名の無気力が剥がれ落ちました。
彼女の目が見開き、咄嗟に私の方へと手を伸ばします。
「マリー、だめ……っ!」
しかし、その指先が私の服の裾に触れるより早く。
強烈な閃光が視界を白く染め上げ、私の身体からふっと重力が消え去りました。




