第10.2話 アンナ視点 Anna Jeltree
ギルドマスターの執務室へと続く地下廊下は、嫌になるほど湿っぽかった。
冷たい空気を吸い込むたび、肺の奥が軋む。右手の中で、二枚の薄い金属製カードが手のひらに食い込んでいた。
痛い。でも、この感触だけが今の私を繋ぎ止めている。
先ほどカウンターの下で写し取った、マリーちゃんとあの忌まわしい魔女のギルドカード。
(確かめないと。早く、早く……)
突き当たりの扉の前で立ち止まる。
乱れた毛先を指で梳き、一つ、深く息を吐く。
顔の筋肉を無理やり引き上げ、「受付嬢のアンナ」の愛想の良い仮面を貼り付ける。
コン、コン、コン。
「どうぞ……」
部屋の中央、執務机の奥には羊皮紙の束に目を落とす初老の男。
ギルドマスターのジュードだ。白髪混じりの髪を後ろで縛り、仕立ての良いベストを隙なく着こなしている。片眼鏡の奥の、あの全てを見透かすような瞳がゆっくりと持ち上がった。
「マスター、ちょっとご相談が……」
ワントーン高い、馬鹿みたいな声を出して踏み出した途端。
ジュードはため息混じりに手元の羽ペンを置き、深く背もたれに体重を預けた。
「今はこの階層から人を払ってあります。……その薄気味悪い猫撫で声はやめなさい」
声の温度が、一気に下がった。
卓上で手を組み、彼は私の微かな表情の強張りすら逃さないよう目を細める。
「アンナ・ジェルトリー。……いえ、不老の戦乙女のジャンヌ」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
私の顔から「受付嬢のアンナ」の皮が、メリメリと音を立てて剥がれ落ちていくのがわかった。
「勇者と共に旅をした仲じゃないですか」
ジュードの口から発せられた単語が、鼓膜を突き破る。
……勇者
視界が明滅する……
『妹……?』
ぐちゃっと、執務室の湿っぽい匂いが、唐突に血の悪臭に変わった。
『ああ……彼女なら、死んだよ』
なんで?なんで勇者は笑っているの?
『頭が、破裂してね……ほら……』
足元に転がっている、頭部のない肉塊。血の海。
誰が食い破った? なぜ殺されなければならなかった?
何があった? なぜ、なぜ、なぜ……。
気づいた時、私の手には聖剣が握られ、ジュードの脳天へと振り下ろされていた。
怒声はない。荒い息一つ吐いていない。
瞳孔が狭まっているのがわかる。無表情で、戦乙女として相手を殺す条件反射として最短の軌道。
ギィィィィン……ッ!
展開された不可視の防壁と聖剣が軋み合う。
私は瞬きすら忘れたまま、ジュードの片眼鏡の奥の瞳を見つめ返し、無言で、じわじわと剣を押し込んだ。
ミシミシと結界にヒビが入る。
「……相変わらず、沸点が低いですね」
彼の呆れたような声を聞いてようやく、私は自分が息を止めていたことに気がついた。
ジュードは瞬き一つせず、防壁越しに私の剣を真っ向から見据えたまま、ただ静かに口を開いた。
「この部屋には、事前に聖域を張ってあります。……あなたのその沸点の低さも、考慮済みですよ」
「……」
ギリッ、と剣の柄を握る手に力を込めるが、これ以上は結界を破れない。
大きく息を吸い込み、冷たい空気を肺の底まで満たして、ゆっくりと吐き出す。
沸騰していた血液の温度が徐々に下がり、指先の感覚が戻ってくるのを確認してから、私は聖剣を固有スキルの空間収納にしまう。
「……悪趣味ね、ジュード。人の地雷をわざと踏み抜く癖、昔から全く治ってない」
地を這うような、ひどく掠れた声が出た。アンナの甲高い声帯はとうに死んでいる。
「あなたが猫を被ったままでは、話の進みが遅くなりますからね。荒療治ですよ」
ジュードは何事もなかったかのように防壁を解き、片眼鏡の位置を中指で直した。
「それで? 普段は私の顔など見ようともしないあなたが、自ら足を運んできた理由はなんです?」
「……これよ」
私は二枚のギルドカードを、バンッ!と音を立てて机の上に叩きつけた。
「先ほど、受付で登録手続きをした新人二人のステータス」
「ほう……」
ジュードが視線を落とす。
その瞬間、彼の白髪混じりの眉がピクリと跳ね、喉仏が小さく上下するのが見えた。
長年、勇者と旅をして、そしてギルドマスターとして数多の異常事態を処理してきた男の顔から、微かに余裕が削り取られる。
「この、黒塗りのほとんど何も見えないカードは……災厄の魔女のものですか」
「えぇ。水晶に触れただけで、灰に変わったわ。ステータスの数値はおろか、称号まで冒涜的な文字化けを起こしてる。……あんな歩く自然災害が、人間の街をうろついてるだけでも反吐が出る」
「なるほど。魔女の異常性は、今更驚くことでもないですね。問題は……こちらですね」
ジュードの指先が、もう一枚のカード……マリーちゃんのステータスが印字された文字をなぞる。
【HP】 #INF00
【DEF】 NaN
【RES】 Nan
【スキル】 │返|還|準|備|中
【称号】 ■ O ■ F E ■ A ■ I A
「……勇者や賢者などの規格外の魂を読み取った際の化けとは、根本的に性質が違いますね」
「そうなの。ジュード、あなたならこれが何を意味するかわかる?」
「……さすがの私にも、見当がつきません」
ジュードはその忌まわしい文字列を凝視した。
「マリーちゃんは……あの子は、ただのシスターよ。信じられないくらい純粋で、穢れたところが一つもない、ただの優しい女の子なの」
私の口から、無意識のうちに熱を帯びた言葉が溢れ出していた。
胸の奥底で、ドロドロとした感情がとぐろを巻いている。
「あの子は、私が少しでも怪我の心配をすれば『大丈夫ですよ、私には神様のご加護がありますから!』なんて、太陽みたいな笑顔で笑うのよ。自分がどれだけ危うい存在か、ちっともわかっていない!」
両手が勝手に震え出す。
私は机に身を乗り出し、ジュードに顔を近づけた。
「ねえ、聞いてジュード。あの子の純白の魂が、こんな狂った数値を出すわけないじゃない。あり得ない、絶対にあり得ないの。全部あの魔女のせいよ。あの魔女が垂れ流す瘴気が、マリーちゃんの魂を内側から蝕んで、おかしくさせてるんだわ……」
視界が歪む。血の海に沈む、かつての記憶。
もし、マリーちゃんまであんな風に壊れてしまったら。あの眩しい笑顔が、泥と血にまみれてしまったら。
「……外なんて、歩かせられない」
ポツリと、口から零れた。
「転んで怪我したらどうするの。泥が跳ねたら。虫に刺されたら……駄目よ。あの子は、自分がどれだけ美味しそうな匂いをさせているか分かってない」
爪が手のひらに深く食い込み、血が滲む。
「そうよ……マリーちゃんは、私が用意した安全な地下室で、私が息を吹きかけて冷ましたスープだけを飲んでいればいいの。あの真っ白な足首にぴったり合う、絹を巻いた綺麗な鎖だって見つけてあるんだから。擦れて痛くならないように、ちゃんと工夫してあるのよ」
笑みが零れた。
「ふふっ……ねえジュード。世界で一番、優しいアイデアだと思わない?」
ぽたり、と。
机の上に、私の指先から血の雫が落ちた。
恍惚とした熱に浮かされる私の顔を、ジュードは氷のように冷ややかな目で見据えていた。
「……相変わらず、あなたの愛の形は重すぎますね、ジャンヌ。度が過ぎれば、それは魔女の執着と何も変わらない」
「うるさいッ!」
血の滲む拳で机を殴りつける。分厚い天板が悲鳴を上げた。
「あんな化け物と私を一緒にしないで! 私は、マリーちゃんのためなら自分の命だって惜しくないのよ! あの子の笑顔を守れるなら、この街の冒険者全員を肉壁にしてでも……ッ」
息が上がる。
自分が何を口走っているのか、もうどうでもよかった。ただ、マリーちゃんが手の届かない場所で傷つくかもしれないという想像だけで、内臓が焼け焦げそうになる。
「ジュード、お願い。知っての通り、私は呪われてこの街から出られない。だからマリーちゃんが安全に任務をこなせてるか、監視できる人を用意して……」
ジュードは深い、本当に深い溜息を吐いた。
片眼鏡を外し、指の腹で目頭を揉むその仕草には、明らかな呆れと疲労が滲んでいる。
「わかりました……。しかし、あの魔女のことです。こちらの行動の邪魔をしてくるかもしれませんよ」
「その時は、私の命を削るときね」
ギルドカードを、私は再び乱暴に掴み取る。
(マリーちゃん。あぁ、マリーちゃん……)
あの世界から逸脱した狂った文字が、あの子の身に降りかかる理不尽な痛みの予兆なのだとしたら。
あの子がどれだけの痛みを抱え込んでいるのか、私にはまだ分からない。でも、絶対に離さない。絶対に。
お姉ちゃんが、守ってあげるからね……。




