第10.1話 アンナ視点 狂ったギルドカード
昼下がりの冒険者ギルドは、いつものようにむさ苦しいおっさんたちの熱気と、不快な匂いが入り混じっている。
私はカウンターの汚れを雑巾で拭きながら、退屈な時間をやり過ごしていた。
そんな時、ギルドの重たい木の扉が音を立てて開いた。
無意識にそちらへ向けた視線が、一人の少女の姿を捉えた瞬間、私の心臓はけたたましい音を立てて跳ね上がった。
マリーちゃんだ。
修道服に身を包んだ彼女は、この薄汚れたギルドには全く似つかわしくない、天使そのものだった。
彼女がそこにいるだけで、さっきまで充満してた安酒の臭いや汗の匂いすら、急にいい匂いに思えてくるから不思議だ 。
私は思わず手にしていた雑巾を放り出し、パッと顔を輝かせて彼女を迎え入れようとした。
「あっ、マリーちゃん!」
満面の笑みで彼女の名前を呼んだ。しかし次の瞬間、私は、口角を引き上げたマヌケな顔のまま、息を吸うのも忘れて固まった 。
マリーちゃんのすぐ隣、その細く可憐な腕のすぐそばに、黒い異物が立っていたからだ。
災厄の魔女、アビゲイル。
なぜ、今日もあんな魔女がマリーちゃんと一緒にいるのか。
私の声のトーンは、自分でも驚くほど低く、冷たいものへと急降下した。
「やっぱり、今日も魔女がいるのね……」
周囲の冒険者たちは魔女の姿に怯えつつも、今日は騒ぎ立てることはなかった。
それはそうだ。私が事前に「今の魔女は平和だから、余計な刺激を与えないでね」と裏でこっそり脅しをかけておいたからだ。
表向きは物騒な瘴気を撒き散らしていないように見えるが、私にはわかる。
あの女の存在そのものが、マリーちゃんという無垢な光を蝕む猛毒なのだ。
「まぁ……物騒な瘴気を撒き散らしてないだけ、助かるわね。それで?相談ってなあに?」
私はなんとか営業スマイルを取り繕い、マリーちゃんに問いかけた。
すると彼女は、少し申し訳なさそうに眉を下げて言ったのだ。今の仕事だけでは二人分の食費を賄うのが厳しく、割の良い依頼はないか、と。
「2人分……そう。マリーちゃんが、魔女と……一緒に……」
私の口から漏れた声は、ひどく掠れていた。
ドス黒いヘドロみたいなものがせり上がってくるようだ。
どうして、マリーちゃんがこんな得体の知れない魔女を養わなければならないの? 冗談じゃない。私が彼女の生活費を全部出してあげたい。私の家に住まわせて、毎日美味しいものを食べさせて、安全なベッドで眠らせてあげたい。
……でも、今はただのギルドの受付嬢である私に、彼女を囲う正当な理由なんてない。
「……それなら、冒険者登録をするしかないわね」
私は深呼吸を一つして、強引にいつもの笑顔を顔面に縫い付けた。
マリーちゃんに冒険者のような危険な真似は絶対にさせたくない。
……だが、彼女が自分でお金を稼ぎたいと願うなら、私が全力でサポートするしかない。
「もちろん、マリーちゃんに危険な討伐なんか絶対にさせない。薬草の採取とか、街の中での配達とか、安全が完全に保証されているクエストだけを私が厳選して回すから。……それでも、何が起きるか分からないのがこの仕事だけど」
言いながら、私はカウンターから身を乗り出した。マリーちゃんには聞こえないよう、魔女の耳元へ顔を寄せ、地を這うような声を絞り出す。
「あんた……マリーちゃんに傷一つでもつけたら、ただじゃおかないから。一緒にいるなら、あんたがしっかり守りなさいよ……災厄の魔女さん」
それは受付嬢の顔を捨てた、一人の女としての純粋な警告だった。
しかし、魔女はその凄みに全く動じる様子を見せず、首をこてんと傾けた。
そして、口元だけを歪に引き上げ、一切の感情の抜けた真っ黒な瞳で私を射抜いた。
「……私に指示をするな。人間」
平坦で、一切の熱を持たない声。
同時に、魔女の体から黒い靄のような瘴気が漏れ出した。
全身の毛穴が一気に開き、本能的な恐怖で顔の筋肉が引きつる。
カウンターを握る手が小刻みに震えた。
マリーちゃんが慌ててアビゲイルの手を握り、空気を和ませようと笑いかけてくれたおかげで、私はハッと我に返った。
マリーちゃんは自分の身は自分で守れると言うけれど、私から見れば、その辺のゴブリンがちょっと爪を立てただけで、消えてなくなっちゃいそうなのに。
「と、とりあえず! これが登録用紙だから、必要事項を書いてね」
私は引き出しから古い羊皮紙を出し、マリーちゃんに手渡した。
彼女が真剣な横顔でペンを走らせるのを見つめる。得意な技能に「治癒魔法と連続労働」などと書いているのを見て胸が痛んだ。
どれだけ過酷な環境で生きてきたのだろう。そこに魔女が「マリーの技能は……人たらし」などとねっとりした声で口出しをしてきたため、私は苛立ちのあまり、
「そういうのは書かなくていいから! ほら、早くサインして!」と声を荒げてしまった。
書類の記入が終わり、いよいよ基本ステータスをギルドカードに反映させる手順に入った。
私が奥から持ってきたのは、王国の祝福を受けた神聖な水晶だ。対象者が手をかざすことで、その者の魔力波長や魂の質を読み取り、ステータスとして具現化する。
マリーちゃんがそっと小さな手を水晶にかざした。
その瞬間だった。輝かしいはずの水晶の奥底から、ドロリとしたどす黒い何かが這い出してくるのが見えた。背筋を這い上がるような、ゾクッとする冷気。しかし、それは瞬きをする間に元の輝きへと戻っていた。
「どうしたの、マリーちゃん? もう手を離して大丈夫よ」
私は努めて明るい声を出した。
マリーちゃんは水晶が濁ったように見えたと不安げに言ったが、私は笑って誤魔化した。
「ギルドの水晶は王国の祝福を受けてるから、不吉なことなんてあるわけないじゃない」と。
そう、気のせいに決まっている。
彼女の純粋な魂が濁っているはずがないのだから。
しかし、薄い金属製のギルドカードを確認した時、私の思考は完全に停止した。
【HP】 #INF00
【DEF】 NaN
【RES】 NaN
【LUK】 NaN
【スキル】 │返|還|準|備|中
【称号】 ■ O ■ F E ■ A ■ I A
(……えっと……これは……なんだ、これ……?)
私は目を疑った。
過去に、「勇者」や「英雄」と呼ばれる者たちのギルドカードの発行に立ち会ったことは何度かある。
彼らのステータスは常軌を逸しており、数値が上限を突破して「9999」でカンストしたり、一部の項目が文字化けしたりするエラーは確かに存在した。
ギルドの水晶が彼らの強大すぎる規格外の力を完全に読み取り切れないからだ。
しかし、このマリーちゃんのカードは根本的に何かが狂っている。
数字がカンストしているのではない。「#INF00」や「NaN」という、この世界には存在しない、不可解な羅列。
そして、意味不明なスキルと黒塗りの称号。勇者たちの時のような「力が強すぎるゆえのエラー」ではなく、「世界そのものの理から逸脱しているバグ」のようだった。
背中に嫌な汗が伝う。これは、ただ事ではない。
とはいえ、この異常さをマリーちゃん本人に悟らせてはならない。
「アンナさん、その……表示おかしくて、文字化けも……」
「マリーちゃんすごいよっ!こういう表記される人は何かしら偉業を残す人達みたいだから、マリーちゃんも選ばれし人なのかもっ」
私は必死に声を上擦らせ、彼女が不安にならないように選ばれし人、という都合の良い言葉で繕った。
「ステータスをギルド内に登録するから、カード借りるねっ」
私はマリーちゃんから素早くカードをひったくり、カウンターの下へ隠した。もちろん、ギルド内の登録手続きなんてとうの昔に終わっている。
私がしようとしているのは、この異常なカードのコピーを密かに作成することだ。
後でギルドマスターに提出し、この不可解な現象について相談しなければならない。
息をつく間もなく、今度は魔女が水晶の前に立った。
「マリーちゃんみたいなバグはそうそう起きない」と私は吐き捨てるように言った。しかし、魔女の白く冷たい手が水晶に触れた瞬間……。
ビキィッ!
ギルドの喧騒を一瞬で凍らせるような、亀裂音が響き渡った。
水晶の内部から、先ほどとは比べ物にならないほど濃密で、吐き気をもよおすような瘴気が噴き出したのだ。
「あ……あんた!まさかっ……!?」
私は信じられないものを見る目で魔女を睨みつけた。
この水晶は王国の国宝級の魔道具だ。それが、ただ触れただけで……。
サァァ、と音を立てて、水晶はただの灰の山と化して崩れ去った。
パニックになりかける頭を必死に押さえつけ、私はカウンターの下に排出されたもう一枚のカードを拾い上げた。
【年齢】 ■■■
【HP】 ■■■■■■■■ / ■■■■■■■■
(以下略)
【称号】 諤帝ュ斐、・鬮疲ウ・。
(……狂ってる)
ステータスのほぼ全てが黒塗りのブロックで覆い尽くされ、称号に至っては見るだけで頭がおかしくなりそうな冒涜的な文字化けを起こしていた。
マリーちゃんの「世界から逸脱したバグ」とは違う、明確な「世界に対する破壊と拒絶」を体現したようなカード。
「……アビゲイルさん。これ、何が書いてあるのか、さっぱりわかりませんね」
マリーちゃんが困惑する中、アビゲイルは「マリーとお揃い……一緒。読めない文字……」と、心底嬉しそうに歪な笑みを浮かべていた。
その光景に、私は眩暈すら覚えた。
この魔女は、自分の異常性を誇示し、あまつさえマリーちゃんの抱える異常性と同化しようとしている。
「マリーちゃん、その魔女のカードも貸してちょうだい。登録するから……」
私は深いため息とともに、ひきつる頬を抑えながら魔女のカードも回収した。
水晶の弁償? 登録料? そんなもの、私がどうとでもする。ギルドマスターに泣きついてでも、私が全額被ってやる。
「……わかりました。アンナさん、本当に、色々とすみません」
マリーちゃんはアビゲイルの手を引き、ギルド内の食事用テーブルへと向かっていった。私はカウンターに突っ伏し、荒い息を吐き出した。
二人がテーブルに向かい合い、マリーちゃんが満面の笑みでアビゲイルに話しかけているのが見える。魔女もまた、不器用ながらも嬉しそうに微笑み返している。
どうして、あんな化け物に向けられる笑顔が、あんなにも美しいのだろう。
どうして、あの光のような笑顔を、私が独り占めできないのだろう。
(……あの子が、幸せに過ごしてくれますように)
狂気に片足を突っ込んでいることなど露知らず、ただ「平和な日々」を夢見て微笑むマリーちゃん。
私はカウンターの下で作った二枚のギルドカードの不気味なコピーを強く握りしめた。
彼女の平和は、私が裏から手を回してでも絶対に守り抜いてみせる。
私は食堂で楽しそうにメニューを覗き込む二人から目を逸らし、足早にギルドマスターの執務室へと続く暗い廊下へ消えていった。




