第一部 【 停滞の掟と、餓えゆく王国 】 第二章 【 異端の同盟 】 第二話 【 密輸船と消えた警備兵 】
旧ラグナ港での血判にも等しい契約から二日。
深夜、セルヴァ王国の南端に位置する監視砦では、奇妙な静寂が続いていた。本来であれば、数刻おきに松明を掲げた警備兵が巡回し、海からの侵入者を警戒しているはずの場所だ。
しかし、砦の最上階で見張りに立つ若い兵士の手は、寒さではなく強い空腹で震えていた。
「……。おい、交代の時間はまだなのか?」
「諦めろ。後任の奴らも腹を空かせて倒れてる。……。配給のパン、今日の分はもう食っちまったろう?」
二人の兵士が身を寄せ合い、暗い海を見つめながら力なく呟き合う。彼らに与えられていたのは、砂利と木の実の殻が混ざったような黒パンひと切れのみ。国を守る誇りなど、疾うに胃袋の空胞感と一緒に消え去っていた。
その時、暗闇の中から足音が近づいてきた。
現れたのは、第二王子リンと、その背後に佇む近衛騎士団長ラグナルであった。
「な! ……。リン殿下!? なぜこのような辺境の砦に、……」
慌てて礼を正そうとする兵士たちを、リンは手で優しく制した。
「苦労をかけるな。国を守る兵に、まともな食事すら与えられぬ無能な王宮を許してくれ」
リンは静かに微笑むと、ラグナルに目配せをした。ラグナルは、持っていた重い袋を床に降ろす。中から香ばしい匂いが立ち上った。
「これは、……!?」
「南方から密かに届いた本物の小麦で焼いたパンと、干し肉だ。食え。……。ただし、これから小一時間、お前たちは『極度の疲労により全員居眠りをした』ことにしてほしい」
袋を開けると、そこにはふっくらと焼き上がった白いパンと、塩気の効いた柔らかな干し肉がぎっしりと詰まっていた。兵士たちの目が血走り、喉がゴクリと鳴る。
「殿下。しかし、……。不審船の監視は我らの職務。……」
「職務で腹は膨れん」
リンは兵士の肩を強く叩いた。
「お前たちが守るべきは、王宮の古い掟ではない。自分と、その家族の命だ。これを食って、少し目を閉じろ。これは命令ではなく、俺からの頼みだ」
兵士たちは顔を見合わせ、やがて貪るようにパンに齧りついた。涙を流しながら干し肉を噛みしめる彼らの姿を見て、ラグナルは静かに目を伏せた。武力でも権威でもなく、「食料」という圧倒的な現実が、王国の末端の忠誠心をあっさりと塗り替えていく。
砦の明かりが不自然に暗くなると同時に、旧ラグナ港の入江へと滑り込んできたのは、カイゲン商業連合の大型密輸船三隻だった。
「おい、急げ! 役人が目を覚ます前に全部降ろせ!」
ガルド提督の指揮のもと、異国の船員たちと、リンが事前に話をつないでおいた街の闇商人たちが手際よく作業を進める。
船から次々と降ろされるのは、山のような食料だけではなかった。
大霊樹の周辺部を掘り起こすための巨大な採掘用魔導具、最新式の農具、そしてそれらを動かすための魔晶石。
「ハッ、見事な手際だな王子!」
汗を拭いながら歩み寄ってきたガルドが、不敵に笑う。
「兵士をパン一切れで買収とは、実に効率的なやり方だ。王宮の老いぼれどもが知ったら泡を吹いて倒れるぞ」
「買収ではない、相互扶助だ」
リンは積み上げられていく資材を見つめながら言った。
「兵士は腹を満たし、お前たちは資材を搬入し、俺はこの国を変えるチカラを手に入れる。誰も損をしていない」
「ふふふ! 違いねぇ」
ガルドはニヤリと笑うと、一通の密書をリンに手渡した。
「カイゲン本国からの回答だ。『未開拓地の試掘で一定の成果が出次第、正式に第一期投資として金貨五万枚を追加融資する』とよ。ただし、条件がある」
「条件?」
「この大量の資材と機材を、どうやって王宮の目を盗んで『大霊樹の聖域』まで運ぶつもりだ? 街の中央を通れば、いくら兵士を買収しても大公派の耳に入るぞ」
リンは密書を受け取ると、薄暗い港の向こう、遠くに聳え立つ大霊樹の黒い影を見上げた。
「中央を通る必要はない。アリスの街の地下には、千年前の戦争で使われた古代の地下水路が眠っている。……。そこを、俺たちの『新しい物流の動脈』にする」
地上では「清貧の掟」という死せるルールが支配し、地下では「欲望と生存」の新しい動脈が張り巡らされていく。
セルヴァ王国は今、王宮のあずかり知らぬところで、内部から決定的に変貌を遂げようとしていた。
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