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第一部  【 停滞の掟と、餓えゆく王国 】  第一章 【 巨樹の陰に沈む街 】 第二話 【 腐りゆく巨木 】

王宮の回廊には、打ち捨てられた骨董品のような静寂が満ちていた。


陽光を通さない重厚なステンドグラスから差し込む光は暗く濁り、壁に飾られた歴代の英雄たちの肖像画を、まるで棺の中の遺体のように薄暗く照らしている。歩くたびに響く自分たちの足音だけが、この巨大な墓場のような城で唯一の「音」だった。


「近接護衛の近衛兵すら、三分の一に減らされているな」


前を歩くラグナルに、リンは低い声で囁いた。

回廊の節目ごとに立つ兵士たちの装備は、かつての栄光を誇る重厚な鎧だった。しかし、よく見ればその表面は錆びつき、槍を握る手は飢えと疲弊で微かに震えている。彼らの瞳にもまた、街の配給所に並んでいた民と同じ「諦め」の色が沈んでいた。


「食料だけでなく、兵の俸給すら滞っておりますからな。大公閣下は『栄光の王国に仕える名誉こそが報酬である』とおっしゃり、兵たちの不満を力で抑えつけられている」


ラグナルが苦々しく吐き捨てる。


「名誉で腹が膨れるなら、誰も苦労はせんさ」


リンが失笑したその時、重厚な玉座の間の扉が、ギーと嫌な音を立てて開いた。


重苦しい空気、立ち込める高級な香料の匂い。

部屋の奥、一段高くなった壇上には、深々と玉座に腰掛ける王――リンの父であるレオンハルト三世がいた。かつて魔王軍との戦いでは陣頭に立ち、大剣を振るった傑物だった男は、今や見る影もなく瘦せこけ、虚ろな目で宙を見つめている。


そしてその傍ら、玉座の右手に立ち、王国を実質的に支配している男がいた。

リンの叔父であり、王国大公のガルシアである。


ガルシアは贅沢な金糸の刺繍が施された絹の長袍ローブを纏い、太った指にいくつもの宝石リングを光らせていた。彼らは民に「清貧」を強制しながら、自らは王室の蓄えを貪り続けているのだ。


「遅いぞ、リン」


ガルシア大公の、粘りつくような声が広間に響いた。


「第二王子ともあろう者が、また市井を徘徊していたそうだな。下賤な民と混ざり合い、身を落とすなど、聖なるセルヴァ王家の血を汚す愚行。幾度戒めれば理解するのだ?」


「叔父上」


リンは壇上の手前で足を止め、深々と一礼したあと、真っ直ぐにガルシアを見据えた。


「下賤と蔑む民たちが、いま街でどれほど死んでいるかご存知か。配給される黒パンは一人半個。しかも木の実の殻で嵩増しされた代物だ。配給所に並ぶ気力すら失い、路地裏で静かに冷たくなっていく子供たちがいる」


「黙れ!」


ガルシアが激しく杖を床に突いた。澄んだ金属音が広間に響き渡る。


「下々(しもじも)の貧乏くさい貧困劇など、王宮の議論に持ち込むな! 飢えなど一時的な試練に過ぎん! 我らは大魔国を打ち破った高潔なる聖国の民だ。苦しい時こそ教義を守り、清く正しく耐え忍ぶことこそが、神と大霊樹に対する誠意ではないか!」


「……試練、ですか」


リンの声から感情が消えた。冷ややかに、しかしはっきりと紡がれる言葉。


「大霊樹の魔素は枯渇し、土地は痩せ衰えています。このまま『清く正しく』耐え忍べば、試練の先にあるのは勝利ではなく、全員平等の死です。叔父上、今すぐ『清貧と均等』の教義を一時凍結し、他国との貿易を開始してください。南方の海原国カイゲンや、東西の商業連合に港を開き、食料を輸入するのです」


「な……なにを戯けたことを!」


ガルシアの顔が怒りで赤く染まる。


「異民族や商人どもの卑しい金貨を、この聖なるセルヴァに流し込めというのか!? 利益のために物を売り買いし、富の差を生むような強欲な真似は、魔国の蛮族と同義だ! 我が国は千年の歴史において、純潔と均等を保ってきた! 一度の飢饉くらいで、先祖代々の教義を捨てることなど断じて許さん!」


「一度の飢饉ではありません!」


リンが一歩踏み出し、声を張り上げた。広間の空気がピリリと緊張する。


「もう三年です! 三年間、我々は過去の栄光という毒杯を煽り続け、現実から目を背けてきた! 誇りや伝統で腹は膨れない! 綺麗な正義を守って餓死するくらいなら、泥を啜ってでも、商人どもの金に集たかってでも生き延びるべきだ!」


「控えよ、リン!!」


雷のような怒声が響いた。

声を上げたのは、ガルシアではない。今まで静観していた玉座の父、レオンハルト国王だった。


国王は重い身体を起こし、落ちくぼんだ目でリンを睨みつけた。その眼光には、かつて戦争を生き抜いた覇者の威光……ではなく、変化を極限まで恐れる老人の執着だけが宿っていた。


「……リンよ。お前の言葉は、かつて我らが流した血を、死んでいった英霊たちを愚弄するものだ」


「父上……」


「我がセルヴァは、正義であったが故に魔王に勝ったのだ。高潔であったが故に、大霊樹の加護を得たのだ。その誇りを捨てれば、我らはただの泥棒や強盗と何が違う? 誇りを捨てて生き永らえるなど、セルヴァの王家にあってはならん」


レオンハルト国王は深いため息をつき、疲れたように玉座に背を預けた。


「リン。お前にはしばらく謹慎を命じる。自分の愚かさと、王家の教義の尊さを部屋で考え直すのだ」


「父上! お待ちください!」


「下がれ!」


ガルシアが立ち上がり、冷酷な笑みを浮かべながら合図を出した。両脇から近衛兵たちが近づいてくる。だが、兵たちの手はやはり震えており、リンと目を合わせようとはしなかった。彼ら自身、リンの言っていることが「現実」だと分かっているからだ。


リンは拳を強く握りしめた。爪が皮膚に食い込み、微かに血が滲む。


(やはり、言葉では伝わらない。この者たちは、自分たちが腐った船に乗っていることすら認めようとしないのだ)


リンは制止しようとする兵の手を振り払い、静かに王に向かって一礼した。


「……承知いたしました。ですが、父上。覚悟しておいてください。あなたがたが抱きしめているその『高潔な誇り』は、まもなく国を滅ぼします」


リンは背を向け、大股で玉座の間をあとにした。ラグナルが静かにその後に続く。


背後で扉が重々しく閉まる音を聞きながら、リンの瞳には昏い決意の火が灯っていた。


「ラグナル」


「はっ」


王宮なかから変えるのは不可能だ。ならば、外から叩き潰す」


回廊の陰に入り、リンは囁いた。


「今夜、城を抜ける。……あの老婆がいた、闇市へ行くぞ」


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