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第一部  【 停滞の掟と、餓えゆく王国 】  第四章 【 新生の産声 】 第三話【 果てなき荒野の戴冠 】

「 ……さあ、サインを」


震える手が、

ついにインクを浸したペンを走らせた。


ガラガラと音を立てて崩れ去る、

千年の格式と過去の栄光。


老いた英雄の敗北と、

泥臭き新時代の到来が、

一枚の紙の上で

静かに決定づけられた瞬間だった。

老いた国王

レオンハルトの手から落ちたペンが、

硬い床に甲高い音を立てて転がった。


誓約書に滲む、不格好な王の署名。


千年の歴史を誇り、

「聖国」と称えられた

セルヴァ王国の古き秩序が、

完全に息絶えた瞬間だった。


「……満足か、リン」


ベッドに横たわるレオンハルトは、

光を失った目で天井を仰ぎ、

かすれた声でつぶやいた。


「お前は王家の血を汚し、

 伝統を叩き潰した。

 この国はもう、気高き聖国ではない。

 異民族と商人が跋扈する、

 ただの卑しい泥の街だ……」


「ええ、最高の褒め言葉です、父上」


リンは羊皮紙を慎重に丸めると、

うやうやしくふところへ収めた。


「気高き聖国のまま全滅するより、

 いやしい泥の街として生き残る。

 俺たちが選んだのは、

 それだけのことです。

 ……どうぞ、

 過去の栄光という温かい夢の中で、

 安らかにお眠りください」


リンは背を向け、

一度も振り返ることなく

玉座の間を後にした。


扉が重々しく閉まる音は、

まるで一つの時代に打ちこまれた

ひつぎくぎのようだった。


王宮の外へ足を踏み出すと、

まばゆいばかりの陽光と、

腹に響くような喧騒がリンを迎え入れた。


アリストの中央広場には、

何万という民衆が押し寄せていた。


彼らの手には、

もはや配給を待つためのうつろな器はない。


工廠こうびょうかせいだ銅貨、

自作の品物を詰めた袋、

そしてカイゲンから持ち込まれた

焼きたての白いパンが握られていた。


広場の中央、大霊樹の巨大な幹の前に、

粗末な木組みの演壇が設けられていた。


リンが演壇へ登ると、

地鳴りのような歓声が巻き起こった。


「リン様だ!」

「王子様! いや、摂政殿下だ!」

「パンをくれたお方だ! 俺たちの王だ!」


帽子を投げ出す者、

涙を流しながらパンを掲げる者、

仲間と肩を抱き合って大声を上げる者。


そこにいるのは、

整然と並んだ哀れな「臣民」ではない。

自らの手で生きる術を掴み取り、

泥臭くたくましく生きる「群衆」

そのものだった。


リンの手が上がると、

何万の歓声がピタリと静まり返った。


リンはつばの広い笠を脱ぎ、

人々の顔を一人ひとり見渡すように

視線をめぐらせた。


「アリストの民よ!

 そしてセルヴァの民よ!」


リンの声が、魔法の拡声器を伝って

街の隅々まで響き渡る。


「本日、前国王レオンハルト三世は退位し、

 全権が俺へと譲渡された!

 古い教義、

 清貧という名の自滅のルールは、

 今日この瞬間をもって完全に消滅した!」


地を揺らすような歓声が

再び上がろうとしたが、

リンはそれを手で制した。


「だが、勘違いするな!」


リンの厳格な声が広場を刺す。


「王が変わったからといって、

 明日から空からパンが

 降ってくるわけではない!

 俺はお前たちに、

 何一つタダで与えるつもりはない!」


民衆が息をのむ。


「かつての王宮は

 『耐え忍べば神が救う』と嘘をついた。

 だが俺は言う!

 お前たちを救うのは神でも、王でも、

 奇跡でもない!

 お前たち自身の『手』と『欲』だ!」


リンは大霊樹の根元に建つ、

黒煙を上げる巨大な工廠を指さした。


「あの工場を見ろ!

 カイゲンの技術を盗み、

 俺たちの手で動かし始めた

 『チカラ』の姿だ!

 これから我が国は、すべての港を開く!

 街道を広げ、鉱山を掘り、

 他国の知識と金を貪欲に呑み込んでいく!

 働く者には相応の富を!

 稼いだ者には相応の贅沢を許す!」


リンは演壇の淵へ踏み出し、

群衆に向かって拳を強く突き上げた。


「誇りで腹は膨れない!

 正義で未来は買えない!

 だが、泥を啜ってでも今日を這い上がり、

 他人の足を踏みつけてでも明日を掴み取る

 ……その『泥臭い商魂』こそが、

 我が国を世界一の富国へと変える

 唯一のエンジンだ!」


「ウオオオオオオオオオオッ!!!!」


天地を割るほどの狂乱の咆哮が爆発した。


民衆は手に持ったパンを、工具を、

金を高々と掲げ、

割れんばかりの歓声をあげた。


それは、かつて

「聖国の高潔な民」と呼ばれた者たちが、

綺麗事を完全に脱ぎ捨て、

己の欲と生への執着を肯定された

歓喜の叫びだった。


演壇の袖で、

近衛の鎧を脱ぎ捨てたラグナルが、

胸を熱くしながらその光景を見つめていた。

その隣には、

カイゲンのガルド提督も立っていた。


「……ハッ、凄まじいな」


ガルドは葉巻を噛み締め、呆れたように、

しかし愉快そうに笑った。


「『綺麗事を捨てろ』か。

 あの王子、

 カイゲンのサメどもよりも恐ろしい

『怪物』を育て上げやがった。

 この国の民はこれから、

 大陸中の富を喰らい尽くすぞ」


「怪物で結構」


ラグナルは静かに言った。


「正しく死ぬ国より、

 泥臭く生き続ける国を。

 我らが主君が創り出したのは、

 まさにそれです」


演壇の上で、リンは風に吹かれながら、

広がる街並みを見下ろしていた。


美しい聖都の面影はもうない。


あちこちから立ち上る黒煙、

乱立する怪しげな露店、

異国の言語と喧騒、

そして人々のギラギラとした熱気。

そこにあるのは、混迷と欲望が渦巻く、

泥臭くも圧倒的な「生命の荒野」だった。


リンは胸に手を当て、そっと呟いた。


(父上。あなたが愛した

 気高き聖国は死にました。……

 ですが見なさい。この泥の中から、

 決して倒れぬ

 最強の国が産声を上げたのです)


過去の栄光と

形式主義に殺されかけた大国が、

美徳を捨て、泥を喰らい、

欲望を牙として解き放った瞬間。


落ちこぼれ王子と、泥臭き民たちが紡ぐ

「爆発的成り上がり」の歴史が、

いまここから世界を塗り替えていく――。


(第一部・完)


©2026 [風風風]. All rights reserved.

アリストの街を飲み込んだ

熱狂の戴冠式から一年。


かつて

「神聖なる清貧」という名の呪縛じゅばくしばられ、

民が静かに餓死していったセルヴァ王国は、

いまや大陸南半において最も異様で、

最も爆発的な活気に満ちた

「欲望の巨大都市」へと変貌を遂げていた。


明日、18:30 に、第2部 第1章 第1話を投稿します。

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