第54話
「…………どうして……来たんですか……?」
思わず口から漏れたのはそんな言葉だった。
朝倉さんに退職の事は最後まで伝えなかった。
最初は相談したいと思ったけど……でも途中から考えが変わった。
きっと相談しても退職することは避けられないだろう。
それくらい経理室の雰囲気は悪くなってしまったし、あの環境にずっといようと思える程私は強くない。
……朝倉さんのことはずっと好きだった。
話をしている中で仕事にも他人にも真摯に向き合っていて、凄く誠実な人柄だと感じて、すぐにそこに惹かれ始めた。
その時はもうほとんど心は離れていて連絡もしていなかったけど一応まだ彼氏がいたので、私から連絡を取ってきちんと関係を終わらせた上で頑張ろうと決めた。
――定期的に飲みに行く約束を取り付けた。
断られないかと内心凄くドキドキした。
――連絡先を交換した。
嬉しくて何度も何度も見返した。
――お祭りでは『たまたま見た』と嘘をついたけど、本当は深森信用金庫が出るというのを見て、お昼休みに探した。
全力で踊っている姿は格好良かったし、出店を見てテンションが上がった時は子供みたいで可愛かった。
――お姉さんに自宅での飲みを提案してもらえた。
お姉さんに認められたみたいで嬉しかったし、自宅での飲み会も朝倉さんの色々な事を知れて楽しかった。
――好きなタイプを聞かれたから『……真面目で思いやりがあって……他人に対して誠実な人……ですかね……』と答えたのに、本人は全く気付いてない様子だったから、なんとなく悔しくなって去り際に『私は朝倉さん良いと思いますよ?』と言い逃げしてやった。
後になってほとんど告白じゃないかと気付いて電車の中で悶えた。
……凄く凄く……好きだった。
……幸せになって欲しいと思った。
――――だから私は身を引くことを決めた。
恐らくだけど奏さんも朝倉さんが好きだ。
何時も私服だけど火曜日はいつも以上に気合いが入っていた。
私が行けなくなったビュッフェは代わりに朝倉さんと行ったと聞いた。
日帰り旅行の参加も奏さんが立候補したらしい。
可愛くて元気いっぱいで天真爛漫で……そして本人は言われるのを嫌がるが、老舗中小企業の所謂社長令嬢だ。
……それに比べて私は無職になる。
4年で2回の退職……私は自分が思っているよりも弱い人間だった。
……だから……朝倉さんの本当の幸せを願うなら……私は諦めるべきだと思った。
……次の就職先を探すのに集中するべきだ、と。
……恋愛に現を抜かしている場合では無い、と。
そう理論武装のような事をして、自分の気持ちに蓋をする事を決めた。
であるならば、朝倉さんに退職の事は伝えなくて良いと思った。
決心が揺らがないように、何も伝えずに彼の前から消えるように居なくなる事を選んだ。
後でメッセージアプリをブロックしてしまえば、繋がりは無くなる。
それで良いと思った。
……なのに……。
「……なんで……どうして……」
名前を呼ばれ振り向いた先には肩で息をしている朝倉さんがいた。
……奏さんは……?
……集金は……?
予想していなかった事態に頭が混乱する。
朝倉さんは上がっていた息を少し整えると、私の目を真っ直ぐに見る。
「はぁ……はぁ……伝えたいことが……あるんです……」
何だろうか……私は無言で朝倉さんの言葉の続きを待った。
「あの……融資の件ありがとうございました……メッセージでも送りましたけど……藤森さんのアドバイスのお陰でなんとかなりそうです……」
そういうことか……顔を見て直接お礼をしたかったのだろう。
やっぱり他人に真摯で誠実な人柄だな、と思う。
……大丈夫、決心は揺るがない。
「いえ……お役に立てて良かったです……」
「あと……退職の件……気付けなくてすみません……」
そう朝倉さんは申し訳なさそうに言った。
「……いえ……寧ろ黙っていて……急に居なくなるみたいになってしまってすみません……」
涙が零れそうになるが我慢する。
……大丈夫……このまま今までのお礼を言い合って、別れてしまえば問題無い。
そう思って口を開こうとした時。
「あと……」
と朝倉さんは続けた。
まだ何があるんだろうか、と考えた次の瞬間――。
「……好き……です……藤森さんの事が……好きです」
耳に飛び込んできたその言葉の意味を脳が理解した時、私はもう駄目だった。
我慢していた涙が溢れ出る。
ボロボロと決壊した涙腺から涙が零れ落ち、肩が震える。
「……でも……私無職に……」
「……関係……無いです……」
そう言った朝倉さんの声は力強かった。
「……か……奏さんは……?」
「……僕が好きになったのは……藤森さんです……」
そう断言した朝倉さんの言葉で、私の決心は脆くも砕け散った。
欲しかったものを。
欲しかった言葉を。
目の前に並べられて我慢できる人間なんているのだろうか。
「……わた……私も……す……好き……です……」
私は泣きすぎて、そう言うのが精一杯だった。
それでも私の言葉は朝倉さんにちゃんと届いたようだ。
心底安心したように朝倉さんは大きく息をついた後『良かった……』と呟いた。
その様子を見て、どうして私を選んでくれたかは分からないが、その選択を後悔させたくないと心の底から思った。
この先の未来は誰にも分からないし、正直不安もあるけれど……2人で歩めるならきっと大丈夫だと思えた。
気持ちが昂ぶった私は彼の胸へと飛び込んだ。
朝倉さんはいきなりの事で驚いたようだが、ゆっくりと腕を回してくれた。
……そのまま私が泣き止むまで、只々優しく、優しく包み込んでくれたのだった。




