第53話
「……行かないで……」
そう子供のように駄々をこねてみたけれど、結局朝倉さんは行ってしまった。
残された私はソファーから立ち上がる気力も湧かず、ただ呆然と座ったまま……記憶を振り返る。
……何時からだったろう……朝倉さんの事を意識し始めたのは……。
最初は……会話をすると楽しい人だな、くらいの印象だった。
私の冗談も受け止めてくれて……冗談で返してくる時もあれば突っ込みを入れてくる時もあって……。
そんな会話は楽しくて……いつの間にか会うのを楽しみにしている自分に気が付いた。
その事に気付いてからは朝倉さんの私の中での存在は徐々に大きいものとなっていったが……でも……私にはこれがどういう感情なのか分からなかった……。
……だけど……おじいちゃんが居なくなってしまったあの時……泣いてしまった私の横でただただ優しく寄り添ってくれたあの時……。
――私は恋をした。
彼の優しさに救われたあの時から。
朝倉さんは私の中で特別な存在になった。
それを認識してからは朝倉さんに会える火曜日は朝から何処かそわそわとする気持ちで落ち着かなくなった。
藤森さんが朝倉さんの家に行ったと聞いた時は、胸の中に黒いもやもやが溢れ出るのを感じ、そんな自分自身に驚いた。
……多分だけど藤森さんは朝倉さんのことが好きだ。
何となくだけどそう気付いた時、漠然と焦る気持ちが湧いてきた。
藤森さんの退職のことは1ヶ月前から知っていたけど、本人が言わないのに私の口から言うのはどうかと思ったのであえて言わなかった。
……というのは言い訳だ。
本当は……退職の事を知ったら朝倉さんは藤森さんの事を色々と考えるだろう。
退職を止めるのか……他の方法を考えるのかは分からないけれど、きっと沢山相談に乗って色々な話をして……藤森さんの事で頭がいっぱいになる……朝倉さんはそんな人だ。
……それは嫌だな……と思った。
……もっと私を見て欲しい……と、そう思ってしまった。
だからあえて知らないふりをして、何も言わなかった。
日帰り旅行は本当は藤森さんが参加する予定だったけど、無理を言って私が行かせてもらうことにした。
……少しでも私を見てもらえるように……。
私はゆっくりとスマートフォンを取り出して、眠り猫の下で撮ったツーショットを画面に写す。
旅行から帰ってきて何度も何度も見返した写真。
「……やっぱり……顔硬い……」
ふふっと笑うと同時。
――画面に涙が落ちる。
ぽたり……ぽたり……と落ちる涙は止まらない。
今になって『私が引き留めたにも関わらず朝倉さんは藤森さんの所へ行ってしまった』という事実が重くのしかかる。
それが意味することが分からないほど私は子供ではない。
「……うううぅぅ……」
……涙が溢れ出る。
……悲しさで胸がいっぱいになる。
……でも今ここに、私の悲しさに優しく寄り添ってくれる人は……誰も居なかった。
――――
10分ほど経っただろうか、泣けるだけ泣いたら少しだけスッキリとした気持ちになる。
頭の中もさっきまでよりかは落ち着いた。
……2人は会えたのだろうか……。
いや……私の引き留めを無視してまで行ったのだ……会ってもらわなければ何だったのかと言いたくなる……。
……そして……きっとあの2人なら上手くいくのだろう……。
祝福する気にはとてもなれないが、なんとなくそんな未来予想が見えて、諦めのような気持ちが広がる。
……素敵な恋だった。
誰かをこんなにも想ったのは初めてだった。
今まで知らなかった気持ちや感情を沢山知ることができた。
……うん、そうだ。
好きになったこと自体に後悔は無い。
そう思うと少しだけ前向きになれる気がした。
「……でも今日はもう無理だな……」
酷い顔をしているだろうし、この状態で仕事をしても集中できないだろう。
半休をもらって午後の集金は他の人に代わってもらおう。
…………そして……朝倉さんとは来週からは何事も無かったように、今まで通り接しよう……。
……変にギクシャクするのも嫌だし……。
そう決めた後、私はゆっくりとソファーから立ち上がり……。
――1歩前へと足を踏み出した。




