第52話
「……行かないで……」
と言った奏の匠の服の袖を掴む手は微かに震えていた。
その様子から勇気を振り絞っての言動だということが伝わってくる。
『藤森さんを選ぶのではなく私を選んで欲しい』
その明確なメッセージを匠は受け取る。
そしてそれが意味するのは『奏が匠に対して異性としての好意を持っている』ということだ。
匠は一瞬悩む。
奏から感じる信頼のような気持ち。
奏とはお互いに冗談を言いながらからかい合えるような良好な関係を築いてきた。
そしてもちろん匠は奏の異性としての魅力も沢山感じてきた。
裏表が無く、自分の気持ちに素直でそれ故にコロコロと変わる表情。
子供みたいに無邪気で、屈託無く笑う笑顔に何度もドキリとさせられた。
それでもお洒落には人一倍気を使う大人の女性らしい一面も持っている。
そんな奏と一緒にいると正直楽しいし、匠の自惚れでなければ恋人同士としてもきっと良い関係を築けるだろう。
奏が冗談を言って匠をからかいケラケラと笑う。
それに対し匠も冗談で返し、奏が怒る。
怒った奏を匠が宥めながらも、コロコロと表情の変わる奏を愛おしく思う。
そんな未来はきっと楽しいだろう。
……だが……。
匠が瞼を閉じると浮かんだのは……。
その事実で匠は気付く。
匠はゆっくりと目を開けるとそっと袖を掴んでいる奏の手に触れる。
触れられた奏はびくっと震えた。
何と言うべきか匠は逡巡するが、覚悟を決めた後、ゆっくりと口を開く。
「……すみません……」
そう申し訳なさそうに匠が言うと、少しの間の後奏はゆっくりと袖から手を離した。
離した手は力無くぶらりと下に落ちる。
相変わらず奏は俯いていた為感情は読み取れなかったが、そのまま動かない奏に対し匠は『すみません……』ともう一度言うと、肩に鞄を担ぎ花岡事務所のエントランスから外へと飛び出した。
――――
「はぁ……! はぁ……!」
匠は今までに無いくらい全力で自転車を漕ぐ。
既に太ももはパンパンになっているし、肺も痛い。
口の中では血の味がしている気がするが、それでも構わず芽依の背中を探しながら全力でペダルを回す。
何時だって穏やかで一緒に居ると居心地が良くて。
自分を卑下すると『そんなことない』と褒めてくれて。
落ち込んでいたら自分の悩みを隠してまで応援してくれる程お人好しで。
目尻と眉が下がる特徴的な笑顔の……そんな芽依に。
――会いたい。
――会ってあの時のお礼をちゃんと言いたい。
――会ってあの時苦しんでいたことに気付けなくてごめんなさいと謝りたい。
――そして会って……顔を見て、さっき気付いたこの気持ちを伝えたい。
「あああああああああ!!」
体力は限界に近かったがそれでも漕ぎ続ける。
間に合う保証は何処にも無いが、それでもただ会いたいという一心で。
――――
駅前に着くと匠は自転車から降り鞄を肩に担ぐと駅舎に向かって走り出す。
平日の昼ということもあり人影はまばらだった為、探していた後ろ姿はすぐに見つかった。
「藤森さん!」
そう匠が大きな声で名前を呼ぶと、今まさに駅舎に入ろうとしていたその人物はびくっと肩を揺らした後ゆっくりと振り向いた。
その表情は心底驚いている様子で、目が少し潤んでいるようだった。
芽依は匠の姿を認識すると少し困ったような表情になる。
「…………どうして……来たんですか……?」
そう言った芽依の声は震えていた。




