第51話
鎌蔵興業の大型受注が取れたと聞いた後、次の金曜日。
花岡事務所を何時もの集金で訪れた匠はそわそわと芽依を待っていた。
今回の件がなんとかなりそうだという報告はメッセージアプリで既にしていたものの、やはり顔を見て直接アドバイスへのお礼を言いたかったのだ。
エントランスの白いソファに座りどうお礼を言おうか考えながら待つこと3分、自動ドアの向こうから現れたのは芽依ではなく奏だった。
「あれ……? 藤森さんは今日はお休みですか?」
奏はその言葉を聞くと少し目を伏せ『やっぱり言ってなかったんだ……』と小さく呟いた。
「え……? どういうことですか?」
ただただ困惑している匠に奏はやや言い辛そうに告げる。
「……藤森さんは……今日付けで退職しました……」
「…………え……?」
全く予想していなかった言葉に匠の口から素っ頓狂な声が漏れる。
「え……? え……? ど……どういうことです……?」
奏は戸惑う匠を見た後、白いソファに座ると経緯を説明し始めた。
――――
「そんなの……! 藤森さんは悪くないじゃないですか……!」
説明を聞いた匠は何とも言えない憤りを感じていた。
「……そう……ですね……」
匠の様子を見た奏は少し申し訳なさそうに再度目を伏せる。
事の発端は経理部長が経験を積ませようと芽依を小口現金の担当にしたことだった。
社員が事前に立て替えた支払いの領収書を元に、現金の入った金庫からお金を出し帳簿に付けた後精算したり、支払い予定が分かっているものであれば仮払いとして事前に現金を渡しておき、後日領収書をもって精算したりといった業務である。
業務自体はなんてこと無いものだが、問題はその金庫のある場所であった。
花岡事務所の金庫は経理室の1番奥の部屋の中にあり、尚且つその部屋には電話機が無かった。
その為小口現金の業務をしている間は、芽依は来客への対応や電話対応が出来ない状態となってしまうのだ。
その状況が面白く無かったのが経理部に古くからいる女性社員の1人……所謂お局と呼ばれる存在の人物だった。
『1番新しく入った新人が来客対応や電話対応をしなくて済むのはずるいしおかしい』
『そもそも小口現金は今までベテランがやっていたのに急に新人にやらせるなんて贔屓だ』
『経理部長のお気に入りだからって特別扱いしている』
と周りに不満を言うようになったのだ。
経理部長はそんな不満が出るとは事前に思っていなかったようで、後手後手の対応になってしまったのも状況を悪くした。
後日になって経理部長はその人物と話し合い、なんとか理解を求めようとしたが結局は上手くいかなかった。
この件以降その人物は芽依に直接何かをしたりする訳では無いものの芽依を完全に無視をするようになり、また事ある毎に周囲に不平不満を口にするようになったせいで、経理部全体の雰囲気も酷い状態になったそうだ。
そして芽依はその雰囲気の原因になってしまっていることに苦しさを感じるようになり、最終的に辞めることを選んだらしい。
「言われたことをやってただけなのに……それで居づらくなって藤森さんが辞めないといけなくなるなんて……そんなのおかしいじゃないですか……」
そう言った匠の言葉に奏も小さく頷く。
「そう……ですね……正直経理部長の見通しが甘かったというか……事前の根回しとか無しでいきなり担当にしたのが良くなかったんだと……私も思います……」
奏の言葉通り『経理部長の見通しが甘かった』に尽きる話なのだろう。
芽依がいつ辞めることを決めたのかは分からないがそんな素振りは……。
「……あ……」
あった……。
匠が保証協会から鎌蔵興業への融資にゼロ回答を告げられ苦しんでいた時に、芽依も何かを言おうとしていた……。
だがきっと匠が苦しんでいることを知って『これ以上匠の負担が増えないように』と言えなくなったのだ……。
あの時もっとちゃんと芽依の話を聞けていたら……。
そんな後悔が湧いてくると同時に、匠はとにかく芽依に会いたいと思った。
「……今日付けってことは……まだ社内に……?」
「あ……いえ……私がここに来るタイミングで『退職の手続きが終わった』と言って出ていきましたので……」
それを聞き匠はスマートフォンを取り出しメッセージアプリに書き込もうとするが、なんと書けば良いか思い浮かばなかった。
それに……。
何となくだが永遠に既読は付かないような気がした。
このままもう2度と会うことは無くなるような……そんな焦燥感が胸に湧き上がる。
まだ奏が来てからそんなには経っていない……。
以前帰りに会った時芽依は徒歩で駅まで帰っていた……。
今からなら自転車で急げば間に合うのでは……。
匠は逸る気持ちを抑えながら鞄を手に取る。
「あ……あの……集金はまた午後に来ますので……」
そう言いながら立ち上がろうとした瞬間、袖を引っ張られる。
匠が驚き横を見ると俯いたまま袖を掴んだ奏がいた。
「あ……の……」
奏の表情が見えず感情が読み取れなかったこともあり、戸惑っている匠の耳に聞こえたのは。
「……行かないで……」
と、懇願するような小さな呟きだった。




