第3話
美浦印刷の奥様の発言の真意が分からず、匠は状況を整理しようと試みる。
「えっと……『融資が実行できなかったら』ではなく『実行したら』で合ってますか?」
と匠が尋ねると。
「はい、そうです」
と奥様ははっきりと返してきた。
「えっと……それはどういう……」
「いえね……もう私はずぅっと経理としてこの会社を見てきたでしょう? もうね、この先会社が良くなるどころか悪くなっていくとしか思えないんです」
そう言われ匠は先ほどの美浦社長の言葉を思い返す。
印刷業界全体としては依然厳しい状況が続いている。
今まで通り仕事を続けていても、美浦印刷が今後業況が改善する要因は正直思い当たらないのが実情だ。
特別な加工を施す特殊印刷や包装印刷等、一部伸びている業態もあるようだが、今から美浦印刷が専用設備に設備投資をし、業態をガラッと入れ替えられるとはまず思えない。
「であればね? もう借金なんてこさえないで、会社を畳んで2人で田舎に帰りましょう? って主人に言ったんですが、聞く耳すら持たないんですよ」
「そういうことですか……」
話を聞いて匠は腑に落ちた。
今現在美浦印刷には借入が無い。仮に今廃業した場合、自社ビルさえ売却できれば未払金等を清算した後でもそれなりの金額が手元に残る可能性は高い。
田舎で夫婦2人が慎ましく生活していくには十分だろう。
今回借入は500万だが、もし今後どんどん業況が悪くなり雪だるま式に借金が増えてから廃業となった場合、それこそ目も当てられない事態となる。
今この時点で廃業を選択する、というのはそういった意味ではとても合理的な判断だとも匠には思えた。
「……奥様の意向は分かりました。それを踏まえ明日もう一度社長と話をしてみようと思います」
と匠が告げると。
「よろしくお願いします……」
と何処か不安と期待が入り混ざったような声で、奥様は応えた。
――――
翌日の朝、早速匠は朝一に美浦社長にアポを取り、自転車を漕いで美浦印刷へと向かう。
約束の時間になり匠が美浦印刷の玄関を開けると、入り口すぐ左手の机に美浦社長が座っていた。
心なしか昨日よりも疲労の色が濃くなっているように見えるのは、奥様の昨日の話を社長も聞いたせいだろう、と匠は想像する。
美浦社長は匠の姿を確認すると、少し恥ずかしそうに苦笑した。
「朝倉さんすみませんね……うちの家内が変なことを言い出して……『何を馬鹿なことを言ってるんだ!』と叱ったんですがどうにも意固地になってるようで……」
そう言いながら美浦社長は力無く笑う。
「いえ……奥様からお電話を頂いた時は驚きましたが……」
匠はそこで少し逡巡するが……ふぅ……と一息つき、昨日から考えていた言葉を紡ぐ。
「選択肢としては、ありかと」
そう匠が言うと美浦社長の目が大きく見開かれる。
「あ……朝倉さんまで何を……」
「いえ……奥様からお電話をいただいた後上司とも相談し、色々と考えたのですが……」
匠は美浦社長に改めて現状や、今廃業の選択肢を取った場合のメリット等を説明する。
脳裏に浮かぶのは、昨日奥様の電話の内容を営業課長に報告した際――。
『俺たちはただ数字を見て融資を実行することだけが仕事じゃない。それだけなら機械にだってできる。
それだけじゃなく、もっと総合的に判断し、もし融資をすることでお客様がより悪い未来を迎えそうなら、それを止めるのも俺たちの仕事だ』
と言われた言葉だ。
融資をすることで今後の業況がどうなるかは分からないが、少なくとも確実に美浦社長と奥様は離婚となる。
勿論匠達に会社の運営について決定権は無い。
……だが、できる限りの説得はしても良いはずだ。
そう思い匠は丁寧に説明を重ねていく。
匠の説明を聞き終えた美浦社長は、少し考えを巡らせるようにゆっくりと室内に目線を彷徨わせた後、匠を見据え口を開く。
「言いたいことは分かりました……」
「でしたら……」
そう言った匠の言葉を遮るように、美浦社長はゆっくりと首を振る。
「ですが……それは出来ません……私は生涯現役を貫くと決めているのです……」
――でも。
と匠が言いかけた瞬間、美浦社長は感情が爆発したかのように畳み掛ける。
「それにこのビルは私の城なんです……! それを手放すことなんて絶対に出来ません……! この会社も!! ビルも!!
…………全て私の人生そのものなんです!!」
突然感情を露わにした美浦社長に対し、匠は何も言えなくなり固まる。
「それに……!! それに社員はどうするんです!? あいつらに路頭に迷えと!? そんな不義理なことを私にしろと言うんですか!?」
そう言い放った美浦社長の目は、微かに涙で滲んでいるようで、少し赤くなっていた。
社長が言ったことももっともだ。
以前より減ったとはいえ美浦印刷には今現在5人の従業員がいる。
廃業にするということは、この5人は職を失うということに他ならない。そしてその影響はこの5人のみならず、その家族にまで波及する。
そして社長が言った通り会社も自社ビルも、社長が自身の人生のそのほとんどを費やして築き上げてきたものだ。
その自身の半身とも言えるものを『捨てろ』と言われて『はいそうですか』と簡単にできる訳がないのは想像に難くない。
匠は今自分が言っている言葉は、美浦社長にとって酷く残酷で鋭利な刃なのだということを改めて認識をする。
極論を言ってしまえば匠にとって美浦社長はただのお客様だ。
ここで融資を実行し奥様に離婚されようと、仮に十年後に業況が悪化し多大な債務を背負ったまま廃業しようと、匠の人生には一切の影響がない。
もっと言ってしまえば融資が実行できれば匠の成績になる。美浦印刷は現在借入が無い為、新規開拓扱いとなりかなりのポイントが手に入る。
そうやって一線を引けてしまえれば、どれだけ楽だろうかと匠は思う。
それでも……。
それでも――!!
匠は右手をギュッと握り締め、思いの丈を告げる。
「意固地になっているのは社長もじゃないですか……? 社長の言うことも奥様の言うことも正直どっちも分かります……きっと100点満点の正解なんて無いんです……」
匠が言い返してくるとは思っていなかったのか、美浦社長は驚きの表情を隠さない。
「でも…………だからこそ…………だからこそ……!! 選択に後悔はして欲しくないんです……!!」
匠は心の底から湧き上がった思いを美浦社長にぶつける。
それを聞いた美浦社長は少し困ったように。
「それならば私はどうすれば良いのでしょうか……」
と呟く。
そう言われ、匠は自然と頭を下げる。最早匠自身、何が正解で何が不正解なのかも分からないぐちゃぐちゃとなった頭で、それでも最低限伝えたいと思った言葉を紡ぐ。
「せめて……一度奥様と……ちゃんと腰を据えて話し合いをしてもらえませんか……? その上でそれでも事業継続を社長が望むのなら、再度借入の件は受け付けますので……」
匠のその言葉を聞いた美浦社長は少し驚いた表情を見せた後、何かに考えを巡らせるように机の上の一点を見つめる。
……少しの沈黙の後。
美浦社長は顔を上げ匠の目を見た後、ゆっくりと深く頷いた。
「分かりました……今夜家内と2人で……一度ちゃんと話してみます……」
その言葉を聞き匠は心の底から安堵し、思わずほぅっと息が漏れる。
匠自身最初から考えていたわけではないが、今になって思う。
この『話し合う』ことこそが、美浦社長と奥様にとって何よりも必要なことだったのではないか……と。
『そういえばあいつとちゃんと話しをするのは何時以来だっけか……』という美浦社長の呟きを耳にしながら『失礼します』と言い、匠は美浦印刷を後にした。




