第21話
「電子カルテですか?」
「……えぇ前回入れてから5年経つのでそろそろ入れ替えようかと」
そう言ったのは小佐野 誠だ。
今現在匠がいるのは小佐野クリニックの診療室の一室である。
前回の小佐野家での集金から1週間後、夕方に誠から匠に電話があり『融資の件で相談があるので明日の昼休みの時間に来て欲しい』と言われたのだ。
診療室の扉は開いており、そこから見えるクリニックの受付は昼休みの為薄暗く、本来患者が待っている間に座るソファーにはスタッフが横になって毛布をお腹にかけた状態で寝ているのが見える。
「これが見積もりです」
そう言いながら誠は電子カルテの見積書を差し出す。
小佐野クリニックでは月々費用を払うクラウド型では無く、一括で支払うオンプレ型を採用しているらしく、その金額は諸費用込みでおよそ400万円程だ。
「……あとこちらが昨日仰っていた申告書です」
電話の際匠が聞いたところ小佐野クリニックは法人化しておらず、個人事業主とのことだった。
法人であれば決算書を用意してもらうのだが個人事業主では決算書は無い為、代わりに決算書と同様に売上や利益が分かる個人の確定申告書を準備してもらう。
『ありがとうございます』と言いながら匠は3年分の申告書を見るが、思った以上の売上と利益を目の当たりにし『さすが毎月40万円積み立てられるだけあるな……』と思うが、あまり深く考えると悲しいことになりそうなので、あくまでただの数字として見ることにする。
融資に関しては何ら問題は無いだろうと匠は思いつつ、ふと目を誠の左手の薬指に目線を向けると、そこには結婚指輪はされていなかった。
匠は先週の由香里の話を思い出しつつ、結婚指輪を着けていないことになんとなく違和感を覚える。
由香里は誠が由香里に一目惚れをして、何度もアプローチをしてきたと言っていた。
本当にそれだけべた惚れだったのならば結婚指輪はしている方が自然だと匠には思えたのだ。
それとも結婚や出産を経て一気に気持ちが冷めてしまったのだろうか……。
などと匠が考えていると誠は匠の視線に気付いたようだ。
「あぁ……仕事中は衛生面のことがあるので外しているんです」
そう言った誠の言外には『仕事中以外は着けている』という意味があると匠は思い至り、少しだけ安堵する。
「そうなんですね……えっと融資の件はかしこまりました。一度これらを預からせていただきます」
匠がそう言いながらタブレットを鞄から取り出し、預かり物件の入力を始めつつ、目の前の誠について思いをはせる。
歳は由香里と10歳差の40歳で、所謂スポーツ刈りのような坊主頭に縁の太い眼鏡をしており、体格も中肉中背といった感じである。
表情はやや硬く、場合によっては怒っているようにも見えるかもしれないが、そこから受ける印象はやはり『真面目そう』といった感じだ。
また匠は少し話をしただけだが、誠の内面についても由香里の話の通りだと思う。
確かに見た目は普通だし口も特別上手いタイプでは無さそうだが、人柄についても同様に真面目そうな、所謂職人気質な人物に見えた。
結婚指輪についても着けたり外したりは面倒だろうに、それを行っているのであればやはり由香里への気持ちが冷めてしまったとは思えない。
そう思えば思うほど匠は由香里の話に対する違和感がじわじわと大きくなるのを感じていると。
「……そういえば妻がお世話になっております」
と誠が小さく頭を下げるのが見えた。
「いえいえ……こちらこそいつも良くしていただいて……あ、駿太郎君にも何度かお会いしているんですが先日幼稚園のお友達に『銀行の人が家に来てる』と言ったら『銀行は行くところだよ』と言われてしまったらしく……少し困ってました」
と匠が少し冗談っぽく言うと誠は小さく笑った。
「あの子がそんなことを……いや子供の成長は早くて驚きますね」
そう言った誠の言葉には何か愛おしいものを見ているような柔らかさを含んでおり、やはり違和感が目を逸らせないほどに大きくなったので、匠は慎重に言葉を選びながらその原因を探り始めることを決める。
「……あの……駿太郎君とは普段どういった遊びをされるんですか……?」
あえて何も知らないふりをしながら匠がそう聞くと、誠は少し恥ずかしそうな表情になる。
「いえ……実は子供とどう接したら良いのか良く分からなくて……」
「そうなんですか……その……休日とかも……?」
「まぁ……そうですね……」
……この先の会話をどうしようかと匠は考えるが、何も思い浮かばず診療室の中に沈黙が訪れるものの、その沈黙を先に破ったのは意外にも誠だった。
「……私は真面目だけが取り柄の……つまらない人間なので……子供も妻も……一緒にいても辛気臭くなるだけでしょうし……」
そう言った誠の顔はどこか達観しているようだった。
「……そんな……事は無いと思いますが……」
匠がそう言うと誠は静かに首を振る。
「自分の事は自分が1番分かっています……」
誠は自嘲気味に小さく1つ笑うと続ける。
「……妻は美人で器量も良くて……実のところ私が一目惚れしたんです……正直なところ分不相応なのは分かっていたのですが……それでも諦められなくて……無我夢中でアプローチしました」
「……それで結婚までいくなんて凄いじゃないですか」
そう匠が言うと誠は頷く。
「えぇ……望外の幸せでした……ただ……」
「ただ……?」
「冷静に考えた時、妻がこんな私と結婚するメリットは……まぁ……お金だろうな……と……」
『そんなことは』と言おうとした匠を誠は手で制止し続ける。
「それでも良いんです……それが目的だとしても……彼女と結婚できるなら何の文句もありませんでした……」
そう言った誠は目線を下に下げると、困ったように言う。
「ただ結婚してからは『いつ自分の元を離れるのだろう』という恐怖を感じるようになってしまって……とにかくお金だけは稼がないと……と」
そう言った誠は自分自身を納得させるように再度頷く。
「まぁ……少し古い言い方ですが『亭主元気で留守が良い』ってやつですね」
そう言った誠の声には自虐的なニュアンスが含まれていた。
そこまで言われて匠は2人の間の違和感の正体に気付く。
決してお金が目的で結婚したわけではない由香里に対して、お金目的で結婚したと思っている誠は、お金を稼がないと自分から由香里は離れるだろうという恐怖に駆られてしまっているのだ。
いやお金を稼いでいたとしても『いつ他に好きな人ができたと言われてもおかしくない』という恐怖すら感じているのかもしれない。
真の意味で家族になりたい由香里に対し、誠は惚れてしまったが故に俗っぽく言うならATMになることを自ら選んだ。
……それが自分の役割だと思い込んでしまった。
そして恐怖心から、いつ自分の元から離れても傷付かないよう無意識に誠は家族と距離を取ることを選んだ。
そのボタンの掛け違いのような齟齬が2人の間に違和感を作ってしまったのだ。
そこまで考え匠は逡巡する。
果たして他人の家族に口を出して良いものだろうか……と。
由香里の言葉を勝手に伝えてしまって良いのだろうか……と。
だがその時匠の脳裏に浮かんだのは、駿太郎の無理に大人びているような……どこか寂しさを感じているような横顔だった。
――そしてその顔の……駿太郎の笑顔が見たいと思った。
匠は右手をギュッと握り締めると、意を決したように口を開く。
「そんなことありません……!」
突然そう言った匠を誠は驚いた顔で見るが、匠は構わず続ける。
「……奥様は以前言っていました……愛情はいつか消えるかもしれないけど……尊敬の念は消えないと思っている、と……」
そう言って匠は誠の目を正面から捉える。
「そして……夫を人として尊敬していると……! だからこそずっと一緒に居られると思ったと……そう言ってたんです……!」
そう言われ誠はショックを受けたように目を見開く。
「『亭主元気で留守が良い』なんて思ってないです……! 奥様相談したいことも沢山あるって言っていました……! 駿太郎君だってお父さんと遊びたいと思っているはずです……!」
匠は自分の父と母は無理だったが、小佐野家はまだ修復可能なはずだ、と思いながら言葉を紡ぐ。
「ですから……自ら家族になるのを……諦めないでください……!」
そう言った後匠は頭を下げる。
『すみません……若輩者の私が勝手を言って……』と言った匠に対し、誠は『……いえ……』と言った後、呆然と視線を彷徨わせていた。
――――
次の集金日匠が小佐野家を訪れると、玄関には駿太郎が出迎えてくれた。
前の土曜日が発表会だったらしく、今日は振替休日らしい。
「きいてきいて! あのね! きのうのきのう、げきをやったんだけど! おとうさんみにきてくれたの!」
「そっか劇やったんだ? お父さん来て緊張しなかった?」
「ちょっときんちょうしたけどがんばったよ!」
そう匠に話す駿太郎は興奮気味だ。
「あとね! あとね! あと5かいねたらおとうさんとおかあさんといっしょに、きゃんぷにいくんだ!」
そう言った駿太郎の顔はまさに6歳の子供らしい。
――無邪気な満面の笑顔だった。




