第四十七話 弱点
巨大な脚が持ち上がる。
その影が覆いかぶさるように迫ってくるのを見上げながら、カナトは歯を食いしばった。体は巣に絡め取られたまま動かない。腕を引いても、肩を捻っても、糸は岩と天井の巣に張り付いたままびくともしなかった。
短剣を握り直す。
刃を糸へ叩きつける。
乾いた音が返るだけだった。硬化した巣は、刃を弾くように滑る。もう一度切りつけても結果は変わらない。糸の表面をなぞるだけで、刃は食い込まない。
「……くそ」
小さく吐き出す。
巣は切れない。
だが、よく見ると体を固定している糸は、天井と床の間で張られているだけだった。岩壁に貼りついた束もあるが、体そのものを絡めている部分は、いくつもの糸が引き合って張力を保っている形になっている。
引き裂けないなら、張り方を崩すしかない。
カナトは視線を足元へ落とした。
岩の床。
そこに意識を向ける。
操れる範囲は狭い。ほんのわずかしか動かせない。それでも今は、それで十分かもしれない。
足元の岩を、少しだけ歪ませる。
ぎ、と小さな音がした。
岩がわずかに沈み、その瞬間、体を固定していた糸の張り方がわずかに変わる。ぴんと張り詰めていた糸の一本が、一瞬だけ緩む。
その瞬間を逃さなかった。
カナトは体を強引にねじる。肩を引き、腕を押し込み、硬い巣の隙間へ体を滑り込ませる。糸は裂けない。だが張力が崩れたことで、体がすり抜けるだけの余白が生まれていた。
次の瞬間、カナトの体は床へ落ちていた。
ほとんど同時に、巨大な脚が振り下ろされる。
岩が砕ける音が空洞に響く。
カナトは反射的に横へ転がった。砕けた岩の破片が肩をかすめ、床を跳ねていく。さっきまで体があった場所には、蜘蛛の脚が深くめり込んでいた。
そのまま体を起こす。
視界のすぐ上に、蜘蛛の腹があった。
脚の外殻は岩のように硬い。さっき短剣を突き立てても、ほとんど通らなかった場所だ。だが腹は違う。膨らんだ腹部が、脚の間に吊り下がるように揺れている。
カナトはそれを見た瞬間、迷わなかった。
蜘蛛だ。
なら、腹を刺す。
短剣を突き上げる。
刃が深く沈んだ。
脚の外殻とは明らかに違う感触だった。抵抗を押し切るように刃が入り込み、黒い体液が刃の周りから溢れ出す。腹の下へ滴り落ち、岩の床へ黒い斑点を広げていった。
蜘蛛が激しく体を揺らす。
巨大な脚が暴れ、空洞の床を叩く。岩が砕け、巣が軋む。天井の糸が震え、白い束が揺れた。
カナトはすぐに短剣を引き抜き、距離を取る。
その様子を見ていたグランが、子蜘蛛を斧で薙ぎ払いながら叫んだ。
「通ったのか!?」
斧が振り抜かれ、二匹の子蜘蛛が壁へ叩きつけられる。だがすぐに別の個体が脚へ絡みつく。グランはそれを踏み潰しながら、なお視線をこちらへ向けていた。
カナトは短く答える。
「腹です!」
蜘蛛が怒りをあらわにするように腹を持ち上げた。
次の瞬間、白い糸が吐き出される。
「糸、来ます!」
カナトは横へ跳んだ。糸が床へ叩きつけられ、粘つくように広がる。その直後、天井の巣がきしみ、別の糸束が落ちてくる。
空洞の空気が変わる。
蜘蛛は脚を踏み鳴らしながら巣を揺らしていた。張り巡らされた糸が引き寄せられ、壁から垂れ下がる。通路の端が白い糸で塞がれ始める。
同時に、黒い影がいくつも落ちてきた。
子蜘蛛だ。
人ほどの大きさの個体が床へ着地し、迷わずカナトへ向かって走る。
グランは斧を振り抜きながら声を上げる。
「数が増えやがった……!」
斧が唸り、子蜘蛛の一匹を叩き潰す。だがすぐに別の個体が脚へ絡みつき、足場を削ってくる。
カナトは腹を押さえて暴れる蜘蛛を見上げた。
傷は入っている。
だが、それだけでは倒れない。
蜘蛛は脚を踏み鳴らしながら、さらに巣を揺らす。天井の糸が大きく軋み、白い塊がいくつもぶら下がる。
グランが斧を構え直す。
「子蜘蛛も脚も邪魔だが、全部掻い潜って腹に入る!合わせて突っ込んで、そこで仕留めるぞ!」
カナトは短剣を握り直し、蜘蛛の腹へ視線を据えた。
「分かりました!潜り込めた瞬間に刺します!」
その瞬間、天井の巣が大きく揺れた。
太い糸の束が、空洞の中央へ落ちてくる。
グランが前へ出る。
斧を握り直し、蜘蛛を睨む。
カナトも短剣を構えた。
二人の視線が、一瞬だけ交わる。
巨大な巣が、頭上から落ちてきた。




