第四十六話 最奥
岩壁を突き破って現れた巨体を見上げた瞬間、空洞の空気が一段重くなったように感じられた。さっき倒した蜘蛛よりも明らかに大きい。脚一本だけでも岩柱のような太さがあり、天井の巣の奥で体をわずかに動かすたび、張り巡らされた糸が低くきしむ。
カナトは短剣を握り直しながら、その姿を見上げた。
「……さっきのより、だいぶ大きいですね」
グランも同じように巣の奥を見ていた。
「さっきのが主じゃなかったってことだろう」
その言葉の直後、蜘蛛の脚がゆっくり動く。すると天井の巣がきしみ、張り巡らされた糸の一部が引かれるように動いた。壁から壁へ張られていた糸がわずかに縮み、通路の端に垂れ下がる。
カナトはそれを見て眉を寄せる。
「……巣、動きました」
グランも気づく。
「操ってるのか」
次の瞬間、蜘蛛が岩壁を蹴った。巨体が空洞の中央へ落ち、着地の衝撃で小石が跳ねる。床の岩肌が砕け、鈍い音が空洞に響いた。
グランは迷いなく踏み込む。斧を振り上げ、そのまま蜘蛛の脚へ叩きつけた。
重い音が空洞に響く。
だが、折れない。
外殻が削れ、傷はつく。しかし脚はびくともしない。さっきの蜘蛛なら確実に折れていた一撃だった。
グランは斧を引き戻しながら低く言う。
「硬いな……さっきのとは別物だ」
カナトも横から脚の関節を狙って短剣を突き立てる。刃は外殻の隙間に入るが、浅い。引き抜いた刃先に黒い体液がわずかに滲むだけで、蜘蛛の動きは変わらなかった。
蜘蛛の脚が振り下ろされる。
カナトは体を横へ流して避けた。岩が砕け、破片が床を転がる。
「……ほとんど通ってません」
カナトが息を整えながら言う。
グランは蜘蛛の脚を睨んだまま答えた。
「削れてはいるが、一本さえ落ちない」
そう言いながらもう一度斧を振る。関節へ叩き込まれた刃が外殻を削り、浅い傷が増える。しかし脚は折れず、そのまま体を支え続けていた。
カナトは足元へ意識を向ける。蜘蛛の脚が踏み込んでいる岩の下を崩そうとするが、操れる範囲があまりに狭い。地面はわずかに沈むだけで、巨大な脚の重さを崩すには到底足りない。
カナトは小さく息を吐く。
「……崩れません。俺の魔法じゃ、足一本分も沈められない範囲しか操れない」
グランは一度蜘蛛の脚元を見て、それから言った。
「つまり、足場を崩しても体勢は崩れないってことか」
カナトは首を横に振る。
「いえ、そこまでいきません。そもそも一本分の足場すら崩せない範囲しか動かせないんです」
グランは蜘蛛の体を見上げ、短く息を吐いた。
「なるほどな。確かにこの体じゃ倒れない」
その時、蜘蛛の腹が持ち上がった。
カナトが気づく。
「糸、来ます!」
白い糸が吐き出された。
カナトは横へ跳ぶ。糸は背後の岩壁へ叩きつけられ、広がるように張り付いた。
その瞬間、天井の巣がきしむ。
次の瞬間、太い巣の塊が上から落ちてきた。白い塊が床へ叩きつけられ、岩の上に広がる。粘つく糸が床を覆い、通路の一部を塞いでいく。
「……巣も落としてきます」
カナトが言う。
グランは斧を構え直した。
「吐くだけじゃないってことか」
言葉と同時に踏み込み、もう一度斧を振る。脚の関節へ叩き込まれた刃が外殻を削り、鈍い音が響いた。傷は増えるが、脚は折れない。巨体はわずかに揺れるだけで、すぐに体勢を保ったまま動き続ける。
その瞬間、蜘蛛の脚が震えた。
天井の巣が揺れる。
黒い影がいくつも落ちてくる。
子蜘蛛だった。人ほどの大きさの個体が床へ着地すると、ほとんど間を置かずに動き出す。迷う様子もなく、まっすぐグランの方へ向かっていく。
グランはそれを見て斧を構え直した。
「……厄介な方から潰すつもりか」
子蜘蛛が脚や腕にまとわりつく。斧を振るうと数匹が吹き飛ぶが、次の瞬間には別の個体が這い寄ってくる。床にも壁にも巣が張られているせいで動きにくく、距離を詰める余裕がない。
カナトはその様子を横目で見ながら、ボスへ向き直った。
蜘蛛がゆっくり体を動かす。腹が持ち上がり、再び糸が吐き出される気配が走る。
カナトは体を横へ流す。
だが、その瞬間だった。
壁の巣が動く。
張られていた糸が引き寄せられ、通路の端を塞ぐように垂れ下がる。さっきまで空いていた逃げ道が、白い糸の壁で狭められていく。
「……!」
次の糸が吐き出された。
カナトは避ける。しかし同時に、天井の巣が揺れた。白い塊が頭上から落ちてくる。粘つく巣と吐き出された糸がほとんど同時に広がり、空洞の中央へ降り注ぐ。
カナトは体をひねる。
だが両方は避けきれない。
白い糸が肩へ当たり、そのまま腕と背中へ広がる。さらに落ちてきた巣が体にかかり、粘着質の糸が胴へ絡みついていく。
カナトはすぐに短剣を振るう。刃を巣へ叩きつけ、絡みついた糸を切ろうとする。
しかし刃は滑る。
糸がすでに硬化している。
もう一度振るう。刃先が外殻に当たるような乾いた音が返るだけで、巣はびくともしない。
体を引こうとする。
だが糸は岩壁と天井の巣へ固定されている。動けば動くほど絡みが増え、腕も肩も引き戻される。
短剣を握り直す。
もう一度切りつける。
だが刃は滑るだけだった。
カナトは歯を食いしばる。
完全に動きを止められている。
視線を上げる。
蜘蛛が近づいてくる。
巨大な脚が岩を踏み砕きながら、ゆっくりと距離を詰めていた。床の巣がその動きに合わせてきしみ、白い糸が揺れる。
グランはまだ子蜘蛛に囲まれている。斧を振るい続けているが、距離がある。子蜘蛛が足元にまとわりつき、簡単には抜けられない。
蜘蛛はカナトの前で止まった。
巨大な脚がゆっくり持ち上がる。
カナトは巣に絡め取られたまま、それを見上げていた。




