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記録されない落下者 ~世界の外側から来た存在~  作者: 黒谷レイ
異変

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第三十六話 選択

 氾濫から、数日が経っていた。


 街はすでに動き出している。市場は開き、荷車はいつも通り通りを行き交い、ギルドの扉も朝から開いている。冒険者も、完全に止まっているわけではない。装備を整える者、依頼掲示板を見上げる者、精算を待つ者。表面だけ見れば、街は普段の姿に戻りつつあった。


 それでも、どこか空気は重い。


 死者が出た。


 その事実だけは、数日で消えるものではなかった。


 ギルドの扉を押して中に入ると、いつもの喧騒が広がっている。依頼の紙が貼り替えられる音、受付でやり取りする声、奥から聞こえる金属音。だが、耳に入ってくる会話の端々に、あの日の話が混じっているのが分かった。声は小さいが、完全に忘れられているわけではない。


 俺はそのまま受付へ向かった。


 カウンターの向こうで書類を整理していたリシアが、顔を上げる。


「おはようございます」


 いつもと変わらない声だった。


「……おはようございます」


 俺がそう返すと、リシアは特に前置きもなく続けた。


「グランが目を覚ましています」


 一瞬、言葉の意味を理解するまでに間が空く。


「治療室にいます」


 それだけ告げると、リシアは視線を奥の廊下へ向けた。


 俺は頷き、そのままカウンターを離れて奥へ向かう。廊下は静かだった。さっきまでの騒がしさが、ここでは嘘のように遠く感じられる。足音だけが床に響く。


 治療室の扉の前で、一度だけ呼吸を整えた。


 それから扉を押す。


 中には薬の匂いが漂っていた。窓から入る光が白い床に落ちている。ベッドがいくつか並んでいて、その一つにグランがいた。


 体を起こし、背中を壁に預けている。


 左側の肩口には、厚く包帯が巻かれていた。


 腕は――ない。


 包帯の先は空白のまま途切れている。


 グランは俺を見る。


 その視線は、いつもと変わらない。


 数秒、言葉が出なかった。


 俺はようやく口を開いた。


「……すみません」


 グランの眉が、わずかに動く。


「それは何に対しての謝罪だ?」


 低く、落ち着いた声だった。


 俺は視線を落とす。


「あの時、俺が動いたから」


 言葉を探しながら続ける。


「グランが庇って……」


 肩口の包帯に視線が行く。


「腕を」


 そこから先が続かなかった。


 グランは少し息を吐いた。


「助けられると思った範囲を助けようとしただけだ」


 あっさりした声だった。


「それを見誤ったのは俺だ」


 責任を押し返される。


「でも!」


 思わず声が出た。


「――はいはいそこまでですよ〜」


 横から声が割り込んだ。


 ミレイアだった。


 いつの間にか部屋に入ってきていたらしい。


「患者の前で喧嘩しないでください〜」


 軽い調子の言葉だが、手は真面目に動いている。包帯の状態を確認し、薬の匂いを確かめるように顔を近づける。


「腕は戻りません」


 事実だけを言う。


「ただ、命は助かってます」


 それだけだった。


 慰めでも励ましでもない。必要なことだけを伝える声だった。


 ミレイアが手を離す。


 その横で、もう一人が口を開いた。


 リシアだった。


「助けようとすること自体は否定しません」


 静かな声でそう言う。


 そのまま一瞬だけ間を置く。


「ですが」


 こちらを見る。


「自分の生還も判断に含めるべきです」


 事務的な言葉だった。


 誰もすぐには答えない。


 リシアはそのまま続ける。


「蒼閃は」


 その名前が出た瞬間、空気が少しだけ変わる。


「二名死亡、一名生存です」


 ライアス。


 あの怒鳴り声が、頭の中に蘇る。


「彼は戦線を離れると言っています」


 短い説明だった。


 リシアはさらに続けた。


「今回の件で、戦線を離れる冒険者も出ています」


 それは特別なことではない、という口調だった。


「続ける者もいれば、離れる者もいる」


 その言葉のあと、リシアは静かにこちらを見る。


「あなたはどうしますか」


 問いは短かった。


「続けますか」


 少しだけ間を置く。


「それとも、戦線を離れますか」


 すぐには答えられなかった。


 頭の中に、いくつもの光景が浮かぶ。


 ダンジョンの通路。


 ゴブリンの群れ。


 手を伸ばした瞬間。


 セラの顔。


 あと少しで届くと思った距離。


 その次に浮かんだのは、あの衝撃だった。


 視界が白くなった瞬間。


 覆い被さる重さ。


 グランの体。


 そして、今も手放せていないあの杖。


 あの時。


 俺は、弱かった。


 助けたいと思った。


 だが、届かなかった。


 なら。


 やることは一つしかない。


 俺は顔を上げる。


「続けます。強くなります。」


 短く言った。


 グランが小さく笑う。


 リシアは頷くだけだった。


 治療室の中には、静かな空気が戻る。


 扉の向こうでは、いつものギルドの音が続いていた。

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