第三十四話 空白
広間には、まだ焦げた匂いが残っていた。
さっきまでの混乱が嘘のように、空気は重く沈んでいる。倒れたゴブリンの死体が床を覆い、壁際には焼け跡が黒く広がっていた。崩れた石の破片と血が混ざり、足を動かすたびに鈍い感触が伝わってくる。
カナトはしばらくその場に立ち尽くしていた。
何かを考えようとしても、うまく形にならない。頭の奥がまだぼんやりしていて、目の前の光景をどう受け止めればいいのか分からなかった。
遠くで、金属の擦れる音が響く。
鎧の音だった。
通路の奥から、整然とした足音が近づいてくる。やがて広間の入口に、白い鎧の列が現れた。
聖堂騎士団。
先頭に立つ男が、広間の中へゆっくりと歩み出る。周囲の騎士より一回り大きく見える鎧。歩くだけで、周囲の空気がわずかに張り詰める。
男は広間を一度見渡した。
焼け跡。
倒れたゴブリン。
動けない冒険者。
そのすべてを確認するように視線を巡らせる。
「生存者を確認しろ」
短い声だった。
すぐに騎士たちが散開する。
負傷者を探し、倒れている者の呼吸を確かめ、動ける者には退避を指示する。動きは無駄がなく、まるで決められた手順をそのままなぞっているようだった。
広間に残っていた冒険者たちは、まだ動けずにいた。
座り込んでいる者。
壁に寄りかかっている者。
ただ周囲を見回している者。
誰も、何も言わない。
何が起きたのか、理解が追いついていない顔だった。
カナトの背後では、リシアがグランの処置を続けていた。
肩口を押さえ、血を止める。騎士が担架を運んできて、その横に膝をつく。
グランの体が持ち上げられる。
カナトは振り返った。
グランの顔は青白い。意識は戻っていない。鎧は血で濡れ、左側は肩の先で途切れていた。
担架が動き出す。
リシアも立ち上がり、それに付き添う。
「離れないでください」
短く、それだけ言った。
カナトは頷くこともできず、その背中を見送った。
担架は騎士団の列の中へ消えていく。
広間の奥では、まだ騎士たちが生存者を確認していた。
その光景を見ながら、カナトはゆっくりと視線を移す。
灰狼団のいた方向。
セラは見た。
だが、他の三人が見えない。
ダイン。
クレス。
リアナ。
広間を見回す。
倒れているのは、ほとんどがゴブリンだ。だが人の死体も混ざっている。焼け焦げたもの、崩れたもの、壁際に押しつぶされたもの。
カナトは歩き出した。
足元の死体を跨ぐ。
焼け跡の上を通る。
広間の奥へ進むほど、戦闘の痕跡が濃くなる。床には深い裂け目が残り、石の表面が溶けたように黒く変色していた。
その途中で、見覚えのある装備が目に入る。
盾。
ダインのものだった。
少し離れた場所に、剣が落ちている。
クレスの剣。
さらにその先には、矢筒が転がっていた。矢が半分ほど散らばっている。リアナのものだ。
そして、そのすぐ近くに、杖が落ちていた。
細い木製の杖。
先端の装飾は砕けているが、見間違えるはずがない。
セラの杖だった。
カナトはしゃがみ込み、それを拾い上げる。
杖は血で濡れていた。
手に持つと、妙に軽く感じる。
しばらく、そのまま握っていた。
それから、ゆっくりと立ち上がる。
装備の近くに、何かが倒れている。
人の形をしている。
だが、よく分からない。
焼けている。
裂けている。
ゴブリンの死体と重なり合い、血と泥で形が崩れている。
誰なのか、判別できない。
カナトはしばらくその場に立ったまま動かなかった。
背後で、担架の音が遠ざかっていく。
騎士団が動き始めている。
それでも、カナトは振り返らなかった。
手の中には、セラの杖。
足元には、灰狼団の装備。
そのすぐ横に、誰かだったもの。
広間の空気は、まだ焦げた匂いを残したまま、静かに沈んでいた。




