第三十三話 静寂
視界が、白く塗り潰された。
次の瞬間、耳の奥で何かが弾けたような音がして、世界の音が消えた。衝撃が背中から体を貫き、そのまま地面へ叩きつけられる。石の床が頬に当たり、肺から空気が押し出された。
何が起きたのか分からない。
目を開けているはずなのに、しばらく何も見えなかった。白い光の残像が視界の奥に残り、焦点が合わない。耳の奥では高い音が鳴り続けている。
数秒。
いや、もっと短い時間かもしれない。
やがて白さが薄れ、ゆっくりと色が戻り始める。
最初に感じたのは、熱だった。
空気が焼けた匂いを含んでいる。焦げた石の匂いと、血の匂いが混ざり合い、広間の空気を重くしていた。
カナトは息を吸い込む。咳き込みそうになるのをこらえながら、顔をわずかに上げた。
広間の景色が、変わっていた。
さっきまで視界を埋めていたゴブリンの群れが、ほとんど動かない。床の上に転がり、壁際に崩れ、通路の入り口に重なって倒れている。
焼けている。
石の床も、壁も、ところどころ黒く焦げていた。
さっきまでの混乱が、嘘のように静かだった。
完全な静寂ではない。
遠くで、誰かが咳き込む音がする。どこかで石が崩れる小さな音も聞こえる。だが、それ以外の音はほとんどない。
カナトはゆっくりと体を起こそうとした。
その瞬間、背中に重さを感じた。
体が、動かない。
何かに押さえつけられている。
腕を動かし、横へ手を伸ばす。触れたのは、鎧だった。
硬い金属の感触。
指先で確かめるまでもない。
グランだ。
「……グラン」
声がかすれる。
返事はない。
もう一度、呼ぶ。
「グラン」
体を少し揺らす。
反応はない。
胸の奥に、嫌な感覚が広がる。
カナトは無理やり体を動かし、上に覆い被さっている体を横へずらそうとした。
そのとき、手に触れたものがあった。
温かい。
だが、妙に滑る。
視線を落とす。
血だった。
鎧の下から、濃い血が流れている。
カナトの呼吸が止まる。
視線をさらに下へ動かす。
そして、そこで固まった。
グランの左腕が、なかった。
肩の先で、鎧が途切れている。
その下には、血で濡れた布と、押し潰された金属の歪みだけが残っていた。
一瞬、頭が理解を拒む。
何を見ているのか分からない。
いや、分かっている。
分かっているのに、認めたくない。
カナトの手が震える。
「……グラン」
声が、ほとんど出ない。
そのときだった。
横から足音が近づいてくる。
軽い足音ではない。
落ち着いた、速い足取り。
リシアだった。
剣を手にしたまま近づき、二人の姿を見る。
ほんの一瞬だけ、その視線が止まった。
だが、すぐに動く。
膝をつき、グランの体を押さえる。
「動かさないでください」
短い声だった。
落ち着いている。
カナトは何も言えないまま、その手の動きを見ていた。
リシアは素早く布を取り出し、肩口を押さえる。血が溢れるのを抑え、圧迫する。
「意識はありますか」
グランに向けて言う。
返事はない。
それでもリシアは手を止めない。
「……生きています」
小さく、そう言った。
その言葉は確かに耳に入ったはずなのに、カナトの中ではうまく形にならなかった。
視線だけが、勝手に広間の奥へ引き寄せられていく。
さっきまでセラがいた場所。
そこは黒く焦げた石の床と、崩れたゴブリンの死体で埋まっていた。爆心地のように床が割れ、壁には焼け跡が広がっている。
だが、その手前に――人影があった。
倒れている。
カナトは立ち上がろうとする。
足にうまく力が入らない。膝がわずかに震える。それでも体を起こし、ふらつきながら一歩、また一歩と前へ進んだ。
後ろでリシアが何か言っていた。止める声だったのかもしれない。
だが、もう耳には入らなかった。
ゴブリンの死体を跨ぐ。
足元で何かが潰れる感触がした。
血で濡れた床が滑る。
それでも止まらない。
近づくほど、倒れている人影の形がはっきりしてくる。
セラだった。
仰向けに倒れている。
魔法の光に焼かれた跡はない。
その代わり、体のあちこちが裂けていた。
腕も、脚も、鎧も。
布は引き裂かれ、肌が露出している。
その肌には、無数の傷が残っていた。
鋭く裂けた傷。
深くえぐれた傷。
そして、噛みちぎられたような跡。
ゴブリンの牙。
その痕が、全身に刻まれている。
戦いの途中で押し倒され、そのまま群れに食い荒らされたのだと、見れば分かる状態だった。
セラは動かない。
胸も、上下していない。
目は閉じられたままだった。
カナトは、立ち尽くしたまま動けなかった。
頭の中で何かがぐるぐると回っているのに、言葉にならない。
助けようとしていたはずだった。
ほんの少し前まで、あと一歩で届くと思っていた。
その距離は、確かにあった。
それなのに、間に合わなかった。
遠くから、重い音が響いてくる。
金属が触れ合う音。
規則的な足音。
鎧の音だった。
広間の入口から、複数の影が現れる。
聖堂騎士団。
その先頭に立つ影が、ゆっくりと歩みを進めてきた。




