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紫間さんがカードをかかげた直後、何かが、変わった。
何が変わったのかはわからないけれど、何かが起こったのは間違いない。
部屋の中の空気が、あきらかに異変を起こしたのだ。
肌の上を何かが撫でていき、胸の底にひたひたと何かが滴り落ち、喉がゾワリと何かを飲み込み、それらは違和感という名では片付けられないほどの感覚を与えてくる。
その違和感の正体が ”転移の扉” から放たれる魔法であることはわかりきっているのに、それでも、私は部屋の中を見まわさずにはいられなかった。
コンクリートの壁と床は何ら変化なく、もっと言うならば、”転移の扉” だって、目に見えた変化はない。
ただ、私が何かを感じただけで。
ただ、この扉を開いた先にここと違う場所が広がっている気配があるだけで。
どうしてそんな気配をキャッチしたのかなんてわからない。
ただ、わかるのだ。
「うん、問題なしだね。もうこの扉の向こうはホテル ミスルトゥになっているよ。僕が扉を通って向こうから扉を閉じる、或いは改めて設定し直さない限りはずっとつながったままだから、きみたちはただ通過するだけで構わないよ。ああそれから、今はみんなにもわかるようにこのカードを取り出したけど、別にポケットや鞄の中に入っていても大丈夫。魔法の力が弱い人や急いでる人は、今みたいにカードを扉に近付けた方がベストかもしれないけど、だいたいの人はポケットに入れっぱなしにしてるんじゃないかな。仮に鞄も持ってなくて、ポケットもついてない服を着ていたとしても、基本的にこの扉はカードの持ち主を判別することができるから、心配には及ばないよ。さっきちらっと話したけど、カードはどんな状況になっても必ず持ち主のもとに戻ってきて、いつの間にか鞄やポケットの中に入ってることも多いと思う。MMMコンサルティングの社員にも携帯義務があるわけではないしね。でも、新入社員には入社してからしばらく携帯することをすすめているんだ。魔法に慣れるまでは、何が起こっても不思議じゃないからね」
だからきみたちもそうしてくれるかな?
あくまでも強制ではないという温度で私たちに言いながら、紫間さんはカードをしまった。
そして
「それじゃ、行こうか。扉の向こうでは青街くんのお母様でホテル ミスルトゥのオーナーの青街夫人が出迎えてくださるはずだ。はじめてだから、ひとりずつ通っていこうか。じゃあまず……緑堂さん」
一番前にいた緑堂さんを笑顔で指名したのだった。
「まあ、わたくしを一番に選んでくださいますの?」
緑堂さんは跳び上がらんばかりに喜んだ。
「なんて光栄なんでしょう。わたくし、こちらの ”転移の扉” を通ることを、ずっと夢見ておりましたのよ?その夢が叶うなんて、なんて素敵なことでしょう!」
テンション高く足元に置いていたトランクケースを持ち上げると、緑堂さんは弾む足取りで扉の前に立った。
「準備はいいかい?」
「もちろんですわ」
即答した緑堂さんはワンピースのポケットからカードを取り出した。
「それではどうぞ」
紫間さんは扉の取っ手を握ると、恭しく、エスコートするように押し開いたのだった。
ふわり……
扉が開いた瞬間、風が吹いた。
窓ひとつない部屋なのに、扉の向こうから風が流れてきたのだ。
扉の向こうには、どこかの森のような風景が広がっていた。
ホテル ミスルトゥは森の中にあるホテルらしいから、この扉は、ホテルの中ではなく、ホテル近くの森の中につながっているのだろう。
森の中といっても鬱蒼と草葉が茂る暗い陰りはなく、空から春の光がシャワーのように注いでいる、気持ちよさそうな森の景色だ。
「扉を通り抜けたら、左側にホテルの入口があるはずだ。そこを入ったところでホテルオーナーの青街夫人が待っているはずだよ」
「わかりましたわ。それでは、みなさま、お先にごめんあそばせ」
緑堂さんは半身だけ捩って私たちに優雅な微笑みを投げると、すぐさま前に向き直り、軽やかなステップで扉をくぐっていった。
スゥ―――と、爽やかな緑の景色に吸い込まれるようにして、緑堂さんの姿が見えなくなった。
「うん、問題なしだね」
紫間さんは扉の向こう側をのぞきこんでから、「それじゃあ、次は……」と、私たちを見まわしてくる。
無無コンビはまったく無反応で紫間さんを見返していたけれど、私の斜め前にいた灰霧くんは、胸に楽器ケースを抱えたまま、隣りにいる紺咲さんのジャケットをきゅっと摘んでいた。
心細そうな後ろ姿は気の毒なほどで、喜々と扉をくぐっていった緑堂さんや、1mmも表情を変えない無無コンビよりも、私の心境に近いと言えるだろう。
その心細さを訴えられている紺咲さんは困ったような苦笑を浮かべつつも、立ち位置的にはすっかり保護者のようだ。
すると紫間さんは灰霧くんと紺咲さんに視線を止めて。
「それじゃあ、次は紺咲くんに行ってもらおうかな」
紺咲さんが呼ばれるや否や、灰霧くんはびくりと肩を震わせた。
ところが紫間さんはそんな反応を予想していたように、間髪入れずに先を続けたのだ。
「先に紺咲君が行って、そのすぐあとに灰霧くんが行けばいいと思うんだけど、どうかい?」
紫間さんの提案に、灰霧くんがパッと紺咲さんのジャケットを離して
「かたじけない!……です」
いたって真剣に、紫間さんに返事した。
決して彼がふざけているわけじゃないのは理解しているけど、その言葉遣いはやっぱりおかしく聞こえる。
私は思わず笑ってしまいそうになって、でも、真面目に紫間さんに礼を伝えたつもりの灰霧くんを見て笑うのは気が引けて、唇を噛んでどうにか笑いを堪えた。
無無コンビは灰霧くんの癖強めの言葉遣いに慣れてきたのか、無反応を維持はしていたものの、その雰囲気は若干柔らかくなったような気もした。
そして紫間さんの提案通り、紺咲さん、灰霧くんの順で扉をくぐっていくと、次に指名されたのは白蘭さんだった。
白蘭さんはクイッとマスクを直すと、残された私と青街さんを横目で見てから、先の三人と同様にカードを取り出し、扉の向こうに進んでいった。
一瞬寄越された視線が、何かもの言いたげに感じられたのは、気のせいだろうか………?
けれど、その疑問について考える時間はなかった。
次に名前を呼ばれたのは私だったからだ。
「じゃあ、紅守さん。どうぞ」
「…………はい」
私は返事したあと、ポケットにある二枚のカードのうち、迷わず律ちゃんの方のカードを選んで触れた。
けれど
「ああ、紅守さんはカードを使わなくても問題ないと思うよ。それだけの力があれば、いくら新人でもカードに頼る必要はないだろうからね」
紫間さんにそう言われてしまい、カードを握った手をポケットに戻すことになった。
…………やっぱり、私の力は他の同期たちよりも強いんだ………
実感は今もないけれど、紫間さんがそう言うのならば、あえてどちらか一枚のカードを選ばなくてもいいだろう。
私はカードを持たずに扉の前に進み出た。
そのとき、ふと紫間さんと目が合って、なんだかその目が私を見守るような色合いを含んでいる気がして、私はさっき律ちゃんから聞いたばかりの話を思い出した。
「………あの、紫間さん?」
「うん?なんだい?」
「私………生まれて間もない頃に、紫間さんにお世話になっていたんですよね」
「ああ、黒凪くんに聞いたんだね。うん、そうだよ?赤ん坊のきみに会ったことがあるね。あんなに小さかった子がこんなに立派になるなんて、感慨深いよ」
「それだけじゃなくて、二度の事故のときも、たくさんお世話になってたんですよね。………すみませんでした。そんなにお世話になっておきながら、私…………」
魔法のことも知らなければ、MMMコンサルティングのことも知らなかった。
それどころか、魔法を信じず、はじめて目の当たりにした魔法に驚いて気まで失う始末。
まだまだ完全に魔法を受け入れられたとは言い難いけれど、何度もお世話になった相手に対して、今日の私の態度はあまりに礼に欠けるものだった。
けれど紫間さんは、楽しそうにクスクス笑ったのだ。
「やっぱりきみたちはよく似てるね。ああ、きみと黒凪くんのことだよ。どちらも真面目で、嘘がつけない」
「そう……ですか?」
「うん。よく似てる。まあ、それはともかく。さあ、どうぞ」
紫間さんに促されて、私は扉の前に立った。
ふわり………
また風が吹いた感覚がした。
あたたかくも冷たくもない、まろやかな風だ。
私は、この ”風” が魔法に関する何かなのだろうとなと思いながら、扉の中に一歩、二歩と足を踏み入れていった。
そのとき。
背後で、青街さんと紫間さんの声が聞こえてきたのだ。
「――――何か言いたげだね?」
「…………あの件は試験と関係してるんですか?」
「さあ、どうだろうね?」
「あいつらを危険な目にあわせるなんて、反対です」




