第七話 『みんな』が決めたこと
第七話 『みんな』が決めたこと
## 1 誰も反対しなかった
月曜日の朝、会議室の窓から、薄い秋の日差しが差し込んでいた。
長机の上には、人数分の資料と、蓋のついた紙コップが並んでいた。
月初の業務連絡会。
本来なら、各部署の進捗状況や、来月の予定を確認するための会議だった。
黒田課長が資料をめくりながら、最後の項目を読み上げた。
「それでは、最後に感染対策についてです。田辺さんは、まだ療養中です。皆さんも、引き続き体調管理と基本的な感染対策をお願いします」
何人かが頷いた。
「それから、社内での情報共有についても、少しお願いがあります」
黒田課長は、そこで一度、言葉を切った。
「感染症に関する情報は、信頼できる情報源を確認し、必要以上に不確かな情報を広めないようにしてください。もちろん、分からないことを確認するのは構いません。疑問や相談があれば、総務にも声をかけてください」
誰も異議を唱えなかった。
それは、当然のことだった。
不確かな情報を広めない。
分からないことは確認する。
どちらも、間違ってはいない。
真帆も、資料に目を落としたまま頷いた。
ただ、「分からないことを確認するのは構いません」という言葉が、なぜか少し引っかかった。
構わない。
その言い方には、許可を与える側と、許可を受ける側がいる。
もちろん、黒田課長にそんな意図はなかったのだろう。
真帆は、そう考え直した。
言葉の端々に意味を探し始めたら、何も話せなくなってしまう。
そう思った。
「小野寺さんからも、何かありますか?」
黒田課長が尋ねた。
玲奈は、少し驚いたように顔を上げた。
「そうですね……」
一瞬、迷いがあった。
先週から、玲奈は自分の言葉について考えていた。
自分は、本当に相手の話を聞いていたのだろうか。
自分が安心するために、周囲にも同じ考えを求めていたのではないか。
その問いは、まだ消えていなかった。
それでも、会議室にいる人たちの顔を見ると、玲奈は、何かを言わなければならないような気がした。
みんなが不安にならないように。
みんなが安心して仕事を続けられるように。
「私たちも、こういうときだからこそ、周りへの配慮を大切にしたいと思います」
玲奈は話し始めた。
「不安になることは、誰にでもあると思います。ただ、その不安をどう扱うかも大切ですよね。ひとりの発言で、周りの人まで不安になってしまうこともあると思うので」
話しながら、玲奈は自分の声を聞いていた。
少し、違う。
何が違うのかは、はっきりしなかった。
不安を口にすること自体が、いけないわけではない。
先週、自分でもそう考えたはずだった。
けれど、今の言葉では、不安を口にすることと、周囲を不安にさせることが、ひとつにつながってしまっている。
玲奈は、そのことに気づいた。
気づいたのに、話を止められなかった。
「お互いに、安心して働ける環境を守っていきたいですね」
最後にそう言って、玲奈は頭を下げた。
会議室に、短い沈黙が流れた。
そして、誰かが言った。
「そうですね」
別の誰かも頷いた。
「本当に、そう思います」
玲奈は、ほっとした。
反対する人はいなかった。
誰も、不快そうな顔をしていなかった。
会議は、そのまま次の議題に進んだ。
誰も反対しなかった。
その事実だけが、玲奈のなかに残った。
けれど、会議室にいた人たちが、本当に同じことを考えていたのかどうか。
それを確かめた人は、誰もいなかった。
## 2 頷くということ
会議が終わると、社員たちは、それぞれの部署へ戻っていった。
廊下で、二人の社員が話していた。
「小野寺さんの話、もっともだよね」
「うん。職場で変な空気になるのは困るし」
「そうそう。みんなで協力しないと」
その会話を聞いた玲奈は、足を止めそうになった。
自分の話が、伝わっている。
そう感じた。
少なくとも、今の二人は、賛成してくれているようだった。
玲奈は、胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
そのとき、後ろから別の声が聞こえた。
「でもさ、何を言ったら不安にさせることになるのか、難しくない?」
玲奈は振り返った。
声の主は、経理部の女性社員だった。
「普通に質問しただけでも、そう受け取られちゃうことがあるのかなって」
隣を歩いていた社員が答えた。
「うーん。まあ、言い方にもよるんじゃない?」
「そうだよね……」
二人の声は、廊下の向こうへ遠ざかっていった。
玲奈は、その場に立ったまま、しばらく動けなかった。
自分の話は、伝わったのだろうか。
それとも、別の意味で伝わったのだろうか。
先ほどの会議では、誰も反対しなかった。
けれど、誰も反対しなかったということは、全員が賛成したということなのだろうか。
玲奈は、頭のなかで、さっきの会議を再生した。
頷いた人。
目を伏せていた人。
資料をめくっていた人。
何も言わなかった人。
そのなかに、反対していた人がいたのかもしれない。
ただ、口にしなかっただけで。
そう考えると、さっきまでの安心が、少しずつ形を失っていく。
玲奈は、歩き始めた。
いや、でも。
反対することがあれば、言えばいいのだ。
自分は、誰にも発言を禁じていない。
質問してはいけないとも言っていない。
そう考えて、玲奈は自分を落ち着かせた。
けれど、ふと、真帆の顔が浮かんだ。
真帆は、何度も、自分の考えを説明していた。
誰かを否定したいわけではない。
ただ、自分で理解して決めたいのだと。
それなのに、真帆は最近、以前よりも口数が少なくなっていた。
玲奈は、それを知っていた。
知っていたのに、どうしてだろう。
その沈黙を、真帆が周囲に配慮するようになった証拠だと、受け取りかけていた。
## 3 言わない理由
高橋修は、会議室に資料を取りに戻っていた。
机の上に残された紙コップを片づけようとして、手を止めた。
さっきの会議のことを思い返していた。
玲奈の話には、反論しにくいところがあった。
周囲への配慮は必要だ。
職場で不必要な不安を広げるべきではない。
誰もが安心して働ける環境は大切だ。
どれも、正しい。
だからこそ、高橋は何も言えなかった。
けれど、会議中、ひとつの疑問が頭をよぎっていた。
何をもって、不必要な不安というのだろう。
不安を口にすることと、不安をあおることは、同じなのだろうか。
分からないことを尋ねることと、誰かの選択を否定することは、同じなのだろうか。
高橋は、資料を手に取った。
自分には、専門的な知識があるわけではない。
ワクチンについて、すべてを理解しているわけでもない。
だから、断定的なことは言いたくなかった。
それは、真帆と同じだった。
ただ、高橋には、もうひとつの理由があった。
面倒な人だと思われたくなかった。
会議で余計な質問をすれば、場の空気を壊してしまうかもしれない。
誰かの発言に異議を唱えれば、協調性がないと思われるかもしれない。
その後、仕事を頼みにくくなったり、雑談に入れてもらえなくなったりするかもしれない。
実際に、そんなことが起きるかどうかは分からなかった。
けれど、起きるかもしれないと思うだけで、言葉を飲み込むには十分だった。
高橋は、自分の胸に手を当てた。
本当に、自分は何も言うべきことがなかったのだろうか。
それとも、言うべきことがあったのに、言わなかったのだろうか。
答えは、分かっていた。
言いたいことは、あった。
ただ、それを口にしたあとのことを考えると、怖かったのだ。
高橋は、資料を抱えて会議室を出た。
廊下の窓から、秋の空が見えた。
誰も反対しなかった。
だから、あの話は、みんなの意見になった。
そう考えるのは簡単だった。
けれど、自分は賛成していたのだろうか。
高橋は、もう一度、考えた。
自分はただ、黙っていただけだった。
## 4 みんな、という人
午後、玲奈は総務部の黒田課長のところへ行った。
「課長、午前中の会議のことなんですが」
「うん。どうしたの?」
「感染対策について、皆さん、理解してくれたように感じたんですけど……」
玲奈は、そこで言葉を切った。
自分が何を確認したいのか、分からなくなった。
黒田課長は、椅子の背にもたれた。
「理解というのは、どの部分かな?」
「周囲への配慮を大切にすることです」
「それについては、異論はないと思うよ」
黒田課長は答えた。
「ただ、それぞれが何を考えているかまでは、分からないからね」
玲奈は、黙った。
「みんなが同じ意見である必要はないんだよ。感染対策に協力することと、個人の考え方が一致することは別だから」
黒田課長の口調は穏やかだった。
玲奈を責めているわけではない。
それは分かっていた。
「そうですね」
玲奈は答えた。
「私も、そう思います」
黒田課長は、玲奈を見た。
「小野寺さんは、どうして、それが気になったの?」
玲奈は、すぐには答えられなかった。
どうしてだろう。
職場がまとまっていてほしいから。
誰も不安にならないでほしいから。
みんなが安心して働けるようにしたいから。
それは、どれも本当だった。
けれど、その奥に、もうひとつの気持ちがあった。
自分の判断が正しかったと、確かめたかった。
自分が周囲に話してきたことが、間違いではなかったと知りたかった。
誰かに、そうだね、と言ってほしかった。
玲奈は、その気持ちを口にすることができなかった。
「……皆さんに、安心して働いてほしいと思っているんです」
ようやく、それだけ答えた。
黒田課長は頷いた。
「それは大切なことだね」
玲奈は、少し安心した。
けれど、黒田課長は続けた。
「ただ、安心してもらうことと、不安を口にさせないことは違うからね」
玲奈は顔を上げた。
「不安があるなら、話せるほうがいい。質問があるなら、質問できるほうがいい。会社としては、そこを大切にしたいと思っている」
玲奈は、何も言えなかった。
「もちろん、事実と違う情報を広めないことは大切だよ。でも、分からないことを確認するのは、悪いことじゃない」
その言葉を聞きながら、玲奈は真帆のことを考えていた。
真帆が知りたかったのは、そういうことだったのだろうか。
何が正しいのか、すべてを教えてほしいということではなく。
自分が何を分かっていないのか、確かめる機会がほしいということだったのだろうか。
玲奈は、会議で自分が話した言葉を思い返した。
ひとりの発言で、周りの人まで不安になってしまうこともある。
あのとき、自分は、真帆の質問を思い浮かべていたのではなかったか。
玲奈は、息を吸った。
「課長。もし、誰かの質問が、周りの人を不安にさせてしまうとしたら……」
黒田課長は、黙って聞いていた。
「その質問を、しないほうがいいんでしょうか」
自分で口にしてから、玲奈は驚いた。
それは、ずっと考えないようにしていた問いだった。
黒田課長は、少し考えた。
「質問の内容にもよるだろうね。ただ、不安になる人がいるという理由だけで、質問そのものを封じてしまうのは違うと思うよ」
玲奈は、視線を落とした。
「そうですよね」
そう答えた。
けれど、胸の奥では、まだ何かが抵抗していた。
質問が増えたら、迷う人も増えるかもしれない。
迷う人が増えたら、自分の選択に自信を持てなくなる人もいるかもしれない。
そうなったら、どうすればいいのだろう。
玲奈は、その答えを知らなかった。
## 5 真帆が言わなかったこと
夕方、真帆はコピー機の前で、由紀と顔を合わせた。
「真帆、今日の会議、どうだった?」
由紀は、印刷された資料を揃えながら尋ねた。
「普通だったよ」
「小野寺さんの話、聞いた?」
「うん」
由紀は、少し声を落とした。
「周りへの配慮って、大事だよね」
真帆は、由紀の顔を見た。
「そうだね」
「私も、そう思う。みんな、いろいろ心配してるんだし」
由紀は、真剣な表情だった。
真帆は、由紀が自分を責めようとしているわけではないことを知っていた。
由紀は、本当に心配しているのだ。
家族のこと。
職場のこと。
もし、自分の選択が誰かに影響を与えるとしたら、どうすればいいのかということ。
それらを考えると、由紀も不安になるのだろう。
だからこそ、真帆は言葉を選んだ。
「私も、周りへの配慮は必要だと思うよ」
「うん」
「ただ、質問することまで、誰かへの迷惑だと思われると、ちょっと難しいなって」
由紀の手が止まった。
「質問って?」
「何が分かっていて、何が分かっていないのか、知りたいってこと。接種するかどうかに限らず、自分の体に関わることだから、納得して考えたいんだ」
由紀は、すぐには答えなかった。
「でも、真帆。あんまりいろいろ考えすぎると、余計に不安にならない?」
その言葉に、真帆は一瞬、胸が痛んだ。
以前にも、聞いたことのある言葉だった。
心配しているから。
あなたのためだから。
考えすぎないほうがいい。
どれも、相手を気遣う言葉だった。
だからこそ、反論しにくかった。
「そうかもしれないね」
真帆は答えた。
「私も、調べれば調べるほど、分からなくなることはあるよ」
由紀は、少し安心したように笑った。
「でしょう? だから、あんまり自分を追い詰めないでね」
真帆は頷いた。
本当は、そのあとに言いたいことがあった。
分からないことがあるから、調べたいのだ。
不安だからこそ、根拠を確かめたいのだ。
考え続けることが、必ずしも不安を増やすとは限らない。
けれど、それを説明しようとすると、由紀の心配を否定することになってしまう気がした。
真帆は、言葉を飲み込んだ。
由紀は、真帆が頷いたことに安心した。
真帆は、由紀を傷つけずに済んだことに、少しほっとした。
二人とも、相手を思いやっていた。
それなのに、二人のあいだには、言えなかった言葉がひとつ、残った。
## 6 玲奈の物語
その夜、玲奈は帰宅してからも、黒田課長の言葉を思い返していた。
不安を口にさせないことと、安心してもらうことは違う。
質問そのものを封じてしまうのは違う。
分かっていたはずだった。
玲奈は、テーブルに置いたスマートフォンを手に取った。
社内のチャットには、会議についての短いコメントがいくつか届いていた。
〈今日の話、よかったです〉
〈感染対策、引き続き頑張りましょう〉
〈みんなで協力していきたいですね〉
どれも、穏やかな言葉だった。
玲奈は、ひとつずつ読んだ。
やはり、みんな、同じように考えている。
そう思いたかった。
そのほうが、安心できた。
けれど、ふと、疑問が浮かんだ。
この人たちは、本当に、自分と同じことを考えているのだろうか。
それとも、それぞれが違うことを考えながら、同じ言葉を使っているだけなのだろうか。
「協力」という言葉を、ある人は感染対策を続けることだと考えているかもしれない。
別の人は、周囲と揉めないことだと思っているかもしれない。
また別の人は、何も言わずに仕事を進めることだと受け取っているかもしれない。
同じ言葉を使っていても、その意味は、人によって違う。
玲奈は、画面を見つめた。
自分は、その違いを、どこまで考えていただろう。
真帆が質問をしたとき、自分は、その質問の意味を確かめようとしただろうか。
真帆が何を心配しているのか。
何を知りたいのか。
何に納得できていないのか。
それを聞く前に、自分は、周囲への影響を考えていた。
真帆の質問が、ほかの人を不安にさせるかもしれない。
そう考えていた。
でも、それは、まだ起きていないことだった。
自分が想像した未来だった。
想像した未来を、起きるかもしれない事実として扱い、その未来を防ぐために、今の言葉を選んでいた。
玲奈は、ゆっくりと息を吐いた。
自分は、真帆の言葉を、そのまま受け取っていたのだろうか。
それとも、真帆の言葉を、自分が恐れている物語のなかに置き直していたのだろうか。
答えは、まだ分からなかった。
玲奈は、真帆にメッセージを送ろうと思った。
〈この前の話なんだけど、少し考えていて〉
そこまで入力した。
続けて、何を書けばいいのだろう。
〈あなたの考えを聞かせてほしい〉
そう書こうとして、指が止まった。
もし真帆が、自分の予想とは違うことを言ったら。
もし、自分がこれまで正しいと思っていたことに、疑問を投げかけられたら。
自分は、きちんと聞くことができるだろうか。
相手の言葉を聞きながら、すぐに反論を考えてしまわないだろうか。
自分の不安を、相手の問題として押し返してしまわないだろうか。
玲奈は、入力した文章を消した。
まだ、送れなかった。
それは、真帆を嫌っているからではなかった。
むしろ、真帆に、自分がどんな人間だと思われているのかが怖かった。
周囲を気遣う人。
頼りになる人。
みんなのことを考えてくれる人。
そう思われていたかった。
もし、真帆が、自分の言葉に傷ついていたとしたら。
もし、自分が思っているほど、周囲を思いやれていなかったとしたら。
自分は、どんな顔をして真帆と話せばいいのだろう。
玲奈は、スマートフォンを伏せた。
今夜は、まだ答えを出せそうになかった。
## 7 『みんな』が決めたこと
翌日の昼休み、給湯室で、社員たちが雑談をしていた。
「最近、感染対策の話が多いよね」
「まあ、田辺さんのこともあったしね」
「うん。でも、会社としても、みんなが安心して働けるようにしたいんでしょう」
「そうだよね」
そこまでは、何の変哲もない会話だった。
そのとき、別の社員が、ふと思い出したように言った。
「そういえば、水野さんって、まだ接種するかどうか考えているんだっけ?」
真帆の名前が出た瞬間、会話がわずかに止まった。
「そうみたいだね」
「まあ、個人のことだから、いろいろあるんじゃない?」
「そうだけど……。こういうときは、周りへの配慮も大切だよね」
誰も、強い口調では話していなかった。
真帆を非難するような言葉も、出てこなかった。
ただ、ひとりが口にした「周りへの配慮」という言葉に、ほかの社員たちが、静かに頷いた。
その場にいた人たちは、真帆の事情を詳しく知らなかった。
彼女が何を調べているのか。
どんな情報を確認しているのか。
何に納得できず、何を心配しているのか。
知っている人は、ほとんどいなかった。
それでも、会話は進んでいった。
真帆は、慎重な人なのかもしれない。
考えすぎるところがあるのかもしれない。
周囲への配慮が足りないと思われることもあるのかもしれない。
誰かが、そんなふうに言ったわけではなかった。
けれど、それぞれが心のなかで思い浮かべた印象は、少しずつ重なり合っていった。
そして、最後には、ひとつの結論のようなものが残った。
真帆は、少し周囲と違う。
その違いは、もしかすると、職場の安心に影響するかもしれない。
だから、みんなで気をつけたほうがいい。
誰も、その結論をはっきりと口にしなかった。
誰も、真帆を排除しようと決めたわけではなかった。
それでも、その場にいた人たちのなかでは、真帆についての見方が、少しずつ形になっていった。
そして、その見方は、やがて「みんながそう感じている」という言葉に変わっていくのかもしれなかった。
## 8 沈黙の値段
午後、真帆は資料を持って、会議室へ向かった。
廊下の角を曲がったところで、給湯室から声が聞こえた。
「水野さんも、もう少し周りのことを考えてくれるといいんだけどね」
足が止まった。
続いて、別の声がした。
「まあ、本人にも考えがあるんでしょうけど」
「そうだよね。でも、みんなが安心して働けることも大事だから」
真帆は、資料を持つ手に力を込めた。
その場にいた人たちは、誰も怒っていなかった。
声を荒らげてもいなかった。
悪意のある噂話をしているという自覚も、なかったのかもしれない。
彼女たちは、ただ、職場のことを心配していた。
みんなのことを考えていた。
そういうつもりだったのだろう。
真帆は、給湯室に入らず、そのまま廊下を歩いた。
胸の奥が、重くなっていた。
自分は、何をしたのだろう。
誰かに、接種しないよう勧めたわけではない。
ワクチンに関する情報を、周囲に一方的に広めたわけでもない。
ただ、分からないことを調べていた。
それだけだった。
それなのに、いつの間にか、自分の考え方そのものが、周囲への配慮という物差しで測られている。
真帆は、会議室のドアの前で立ち止まった。
入る前に、深呼吸をした。
今、給湯室へ戻って、何かを言うこともできた。
「私のことですか」
そう尋ねることもできた。
けれど、その先を考えると、足が動かなかった。
もし、相手が驚いたら。
もし、「そんなつもりじゃなかった」と言われたら。
もし、自分が気にしすぎだと思われたら。
何より、自分がその場に入っていくことで、周囲の人たちが、さらに話しにくくなってしまうのではないか。
真帆は、目を閉じた。
自分が黙れば、今日のところは、何も起きない。
誰かと揉めることもない。
職場の空気を乱すこともない。
ただ、その代わりに、自分のなかに、ひとつの言葉が残る。
自分は、ここでは、あまり話さないほうがいいのかもしれない。
その言葉は、誰かから直接、告げられたものではなかった。
誰かが命令したわけでもなかった。
それなのに、真帆は、その言葉を、自分のなかに取り込もうとしていた。
ドアを開けると、会議室には、すでに何人かの社員が集まっていた。
高橋が、窓際の席に座っていた。
真帆と目が合うと、彼は小さく会釈した。
真帆も、会釈を返した。
高橋は、何かに気づいたように、真帆の顔を見た。
けれど、何も尋ねなかった。
彼もまた、言葉を選んでいた。
声をかけるべきか。
何も聞かないほうがいいのか。
自分が口を出すことで、かえって真帆を困らせてしまわないか。
考えているうちに、会議が始まった。
高橋は、結局、何も言わなかった。
その沈黙は、真帆への反対ではなかった。
玲奈への賛成でもなかった。
ただ、どうすればいいのか分からない人間の、迷いだった。
けれど、外から見れば、沈黙は沈黙でしかなかった。
誰が何を考えていたのか。
何を言いたかったのか。
何を怖がっていたのか。
そんなことは、見えなかった。
見えないものは、なかったことにされやすい。
そして、残った言葉だけが、みんなの意見として扱われていく。
## 9 誰も決めていないのに
その日の夕方、玲奈は、真帆が会議室へ入っていく姿を見かけた。
声をかけようと思った。
けれど、真帆の表情が、いつもより硬いように見えた。
玲奈は、足を止めた。
もしかすると、自分のせいなのだろうか。
そんな考えが浮かんだ。
すぐに、別の考えが続いた。
いや、まだ何も分からない。
自分が何かをしたと決まったわけではない。
真帆が何を考えているかも、分からない。
それなのに、自分が悪いのだと決めつけるのも、違うのではないか。
玲奈は、そう考えた。
それは、もっともなことだった。
事実が分からないうちに、結論を出すべきではない。
玲奈は、そう自分に言い聞かせた。
けれど、その言葉を口にするたび、別の疑問が浮かんだ。
自分は、真帆のことについて、どれだけの事実を知っているのだろう。
真帆が何を考えているのか、直接聞いたことはある。
それでも、自分が聞きたいように受け取っていた部分があるのではないか。
真帆が何を言ったかよりも、自分が何を心配したか。
そこに、意識が向いていたのではないか。
玲奈は、窓の外を見た。
夕方の空は、少しずつ暗くなっていた。
誰も、真帆を排除しようと決めたわけではない。
誰も、真帆に黙るよう命じたわけではない。
誰も、職場で意見を述べる自由を奪おうとしたわけではない。
それなのに、真帆は、少しずつ話さなくなっている。
なぜだろう。
玲奈は、答えを探した。
自分の言葉が、何かを変えたのだろうか。
それとも、周囲の人たちが、それぞれの不安から、真帆のことを違う形で受け取っていったのだろうか。
おそらく、どちらか一方ではない。
誰かの言葉が、別の誰かの不安を呼び、その不安がまた別の言葉を生む。
その繰り返しのなかで、最初に何を言いたかったのかさえ、分からなくなっていく。
玲奈は、自分の手を見つめた。
自分は、みんなのために話してきた。
そう思っていた。
今も、その気持ちが嘘だったとは思わない。
けれど、「みんな」とは、誰なのだろう。
自分が心配している人たちのことだろうか。
自分と同じ考えを持つ人たちのことだろうか。
それとも、まだ話を聞いていない人たちも、含まれているのだろうか。
玲奈は、真帆のことを思い浮かべた。
真帆も、みんなのなかの一人だった。
それなのに、自分は、いつの間にか、真帆の考えを「みんなの安心」と対立するものとして見始めていた。
真帆の安心は、どこへ行ったのだろう。
真帆が、自分の考えを口にできる安心。
分からないことを尋ねられる安心。
周囲と違う考えを持っていても、仕事仲間として受け入れられる安心。
それもまた、みんなの安心の一部ではないのだろうか。
玲奈は、目を閉じた。
問いは、少しずつ形になっていた。
けれど、問いが形になったからといって、すぐに答えが出るわけではなかった。
## 10 決めたのは、誰だったのか
帰り道、真帆は駅までの道を歩いていた。
空気は少し冷たかった。
街路樹の葉が、風に揺れていた。
今日、職場で起きたことを、真帆は何度も思い返していた。
誰かが、自分を嫌っていると決まったわけではない。
誰かが、自分を排除しようとしていると決まったわけでもない。
由紀は、今も自分を心配してくれている。
高橋も、何かを言おうとしているように見えた。
玲奈だって、悪意から行動しているわけではないのだろう。
それでも、自分は、少しずつ話せなくなっている。
真帆は、歩道の端で立ち止まった。
誰かが決めたわけではない。
会社が命じたわけでもない。
会議で、全員が賛成したわけでもない。
なのに、気がつくと、自分の考えを口にすることが、以前よりも難しくなっていた。
真帆は、思った。
もしかすると、誰も決めていないのかもしれない。
誰かひとりが、悪意を持って決めたのではない。
それぞれが、少しずつ気を遣い、少しずつ不安になり、少しずつ言葉を飲み込んでいく。
その結果として、まるで、みんなが決めたことのような空気が生まれる。
誰もが、周囲に合わせているつもりだった。
誰もが、周囲の意見を尊重しているつもりだった。
けれど、本当は、周囲が何を考えているのか、誰もよく知らなかった。
真帆は、スマートフォンを取り出した。
画面には、田辺からの返信が届いていた。
〈ありがとうございます。少しずつよくなっています。ご心配をおかけしてすみません〉
真帆は、画面を見つめた。
田辺は、謝る必要などないのに。
病気になったことを、誰かに謝らなくてもいいのに。
そう思った。
そして、自分もまた、いつの間にか、似たようなことを考えていたのではないかと思った。
質問することで、周囲に迷惑をかけてしまうのではないか。
自分が迷うことで、誰かを不安にさせてしまうのではないか。
自分の考えを口にすることで、誰かに謝らなければならなくなるのではないか。
真帆は、スマートフォンをしまった。
自分は、何も悪いことをしていない。
そう言い切ることは、まだできなかった。
自分にも、思い込みがあるかもしれない。
自分に都合のよい情報を選んでしまうこともあるかもしれない。
自分だって、誰かの話を十分に聞かずに、決めつけてしまうことがあるかもしれない。
だからこそ、考えたい。
自分の考えを疑うことも含めて、考えたい。
それなのに、考えたいと言うことさえ、誰かの安心を脅かすように感じられる。
真帆は、空を見上げた。
夕暮れの向こうに、薄い雲が広がっていた。
みんなが決めたこと。
そう呼ばれているもののなかに、本当に、みんなの意思はあるのだろうか。
それとも、誰もが少しずつ黙った結果、誰かの考えだけが、みんなの考えのように見えているのだろうか。
真帆は、答えを知らなかった。
ただ、ひとつだけ、分かっていることがあった。
誰も反対しなかったからといって、誰も疑問を持っていなかったとは限らない。
誰も何も言わなかったからといって、誰も傷ついていなかったとは限らない。
そして、みんながそう思っているという言葉ほど、その「みんな」の一人ひとりに、何を考えているのかを尋ねる必要があるのかもしれなかった。
真帆は、再び歩き始めた。
職場の空気は、明日もすぐには変わらないだろう。
玲奈が、明日から急に別人になるわけでもない。
高橋が、突然、何でも話せるようになるわけでもない。
由紀が、真帆の不安をすべて理解できるようになるわけでもない。
それでも、まだ、何も決まってはいない。
そう思いたかった。
誰かが決めたように見えることも、誰かが決めたわけではないのなら。
これから、誰かが違う言葉を口にする余地も、まだ残されているはずだった。
その夜、玲奈は、机の引き出しから社内報を取り出した。
「一人ひとりの違いを尊重し、誰もが安心して働ける職場へ」
その一文を、もう一度、読んだ。
そして、初めて、その言葉のなかに、真帆の姿を探した。
みんなのなかに、真帆もいる。
自分と違う考えを持つ真帆も。
まだ答えを出せずにいる真帆も。
質問することをためらっている真帆も。
そのすべてを含めて、みんななのだ。
玲奈は、そう考えた。
けれど、その考えを、明日からの行動にどうつなげればいいのかは、まだ分からなかった。
彼女は、社内報を閉じた。
自分が正しいと信じてきたことを、すべて捨てる必要があるわけではない。
ただ、自分の正しさだけを、みんなの正しさと呼ばないようにすること。
まずは、そこからなのかもしれなかった。
玲奈は、真帆にメッセージを送ろうとした。
今度は、短い言葉を入力した。
〈今度、少し話せるかな〉
それだけだった。
送信ボタンの上で、指が止まった。
返事が来なかったら。
断られたら。
何を話せばいいのか、自分でも分からなくなったら。
不安は、いくらでも浮かんできた。
それでも玲奈は、今度は文章を消さなかった。
まだ送信もしなかった。
ただ、その画面を閉じずに、しばらく見つめていた。
誰も反対しなかった。
だから、みんなが賛成した。
そう考えるのは、簡単だった。
けれど、もし、その沈黙のなかに、言えなかった疑問や、飲み込まれた不安があったとしたら。
自分は、それを、いつまで見ないふりをするのだろう。
玲奈は、静かに息を吐いた。
答えは、まだ出なかった。
けれど、問いを消さずにいることは、できる気がした。
その問いが、いつか誰かの言葉を聞くための、小さな入口になるかもしれなかった。
そして、玲奈はまだ知らなかった。
自分が「みんなのため」と信じて選んできた言葉が、すでに、誰かのなかで別の意味を持ち始めていることを。
その意味に向き合う日は、そう遠くなかった。
**みんなって、誰なんだろう。**
その問いは、まだ、誰の口からも、はっきりとは発せられていなかった。




