第六話 善意とは、なにか 改訂版
第六話 善意とは、なにか
## 1 ひとつの知らせ
月曜日の朝、総務部から社内メールが届いた。
件名は「新型コロナウイルス感染症に関するお知らせ」。
水野真帆は、パソコンの画面に表示されたその文字を見て、マウスを動かす手を止めた。
本文には、営業部の田辺が新型コロナウイルスへの感染を確認されたこと、現在は自宅で療養していること、そして、接触の可能性がある社員には個別に連絡することが記されていた。
最後に、こんな一文が添えられていた。
「引き続き、基本的な感染対策へのご協力をお願いいたします」
それだけだった。
誰が感染したのか。誰と接触したのか。職場で感染が広がる可能性はあるのか。必要な情報は、必要な範囲で整理されていた。
けれど、メールを読み終えた社員たちのあいだには、文面には書かれていない問いが広がっていった。
「田辺さん、ワクチン打ってたよね?」
給湯室で、誰かが言った。
「うん。二回打ってたと思う」
「それでも感染するんだね……」
言った本人は、驚いているようでもあり、何かを確かめようとしているようでもあった。
「感染はするよ。重症化を防ぐ効果が期待されているんだから、感染しないこととは別でしょ」
別の社員が、少し早口で答えた。
「そうなんだよね」
最初の社員は頷いた。
「分かってはいるんだけどさ」
そこで会話が途切れた。
誰も、田辺の病状を詳しく知らなかった。
どの程度の症状が出ているのか。熱はあるのか。食事は取れているのか。いつ頃から体調が悪かったのか。
本来なら、まず心配すべきことは、そういうことだったのかもしれない。
けれど、感染の知らせは、いつの間にか別の問いを呼び込んでいた。
接種していても感染する。
では、接種することには、どんな意味があるのだろう。
その問いは、まだ誰の口からも、はっきりとは発せられていなかった。
それでも、職場の空気のなかに、確かに存在し始めていた。
真帆は自分の席で、その話を聞いていた。
田辺とは、何度か仕事をしたことがある。
いつも穏やかで、頼まれた仕事を嫌な顔ひとつせず引き受ける人だった。昼休みには、家で飼っている犬の写真を見せてくれたこともある。
真帆はスマートフォンを手に取り、田辺にメッセージを送ろうとした。
けれど、仕事を休んで療養している相手に、何と書けばいいのか分からなかった。
大丈夫ですか。
お大事にしてください。
ありふれた言葉なら、いくらでも浮かんだ。
真帆は結局、短いメッセージを送った。
〈体調はいかがですか。どうか無理せず、ゆっくり休んでくださいね〉
送信ボタンを押してから、彼女は画面を閉じた。
田辺が感染したという事実は、誰かの議論に勝つための材料ではない。
当たり前のことだった。
当たり前のことなのに、すでに周囲では、この出来事が何かを証明するかのように扱われ始めている。
真帆は、胸の奥に小さな違和感を覚えた。
自分も、同じことをしてしまうのだろうか。
自分が信じたいことに合う事実だけを拾い、それを根拠にしてしまうのだろうか。
そう考えたとき、彼女は少しだけ、自分の足元が頼りなくなった。
自分は、ただ慎重に考えているだけなのだろうか。
それとも、自分が納得できる答えを探しているだけなのだろうか。
その二つは、よく似ていた。
少なくとも、真帆には、いつも簡単に区別できるわけではなかった。
## 2 善意という言葉
午前十時を少し過ぎた頃、小野寺玲奈が総務部の前を通りかかった。
玲奈は、田辺の感染について話している社員たちに気づくと、足を止めた。
「田辺さん、感染しちゃったんだってね」
「そうなんです。今、自宅療養みたいです」
「心配だね。ひどくならないといいけど」
玲奈は、本当に心配していた。
田辺とは、以前、本社で一緒に働いたことがある。仕事の進め方が丁寧で、誰かが困っていれば、さりげなく手を貸してくれる人だった。
玲奈の記憶のなかの田辺は、いつも穏やかに笑っていた。
その人が今、ひとりで療養している。
そう思うと、胸が痛んだ。
「接種はしていたんだよね?」
玲奈が尋ねると、社員のひとりが頷いた。
「たしか、二回は打っていたと思います」
「そう……」
玲奈は、それ以上、何も言わなかった。
感染を完全に防げるわけではないことは、知っていた。
接種の効果は、感染を防ぐことだけではない。重症化のリスクを下げることも期待されている。効果の程度は、時間の経過や流行する変異株、個人の状態などによっても異なる。
そうした説明を、玲奈は何度も耳にしていた。
だから、田辺が感染したからといって、ワクチンに意味がなかったと結論づけられるわけではない。
それは理解していた。
理解していたはずだった。
それでも、心のどこかが落ち着かなかった。
これまで、自分は周囲に何を伝えてきただろう。
安心してほしかった。
できることをして、大切な人を守ってほしかった。
自分が選んだ行動を、無意味なものだと思いたくなかった。
そして、できることなら、周囲の人にも同じ選択をしてほしかった。
みんなが同じ方向を向いていれば、少なくとも、自分だけが間違っているのではないかという不安からは、少し離れられる気がした。
玲奈は、そんな自分の気持ちを、これまで深く考えたことがなかった。
誰かを守りたいという気持ちと、自分の選択を肯定してほしいという気持ち。
二つは、いつもきれいに分かれているわけではなかった。
「でも、感染対策は続けないとね」
玲奈は言った。
「接種していても感染することはあるんだし、できることは、みんなで続けていかないと」
「そうですね」
社員が答えた。
玲奈は頷いた。
その返事を聞いて、少し安心した。
やはり、自分の考えは間違っていない。
そう思いかけたところで、玲奈はふと、別のことに気づいた。
今の社員は、何に頷いたのだろう。
感染対策を続けることにだろうか。
それとも、自分との会話を早く終わらせたかっただけなのだろうか。
分からなかった。
けれど、その場で確かめることはしなかった。
確かめて、もし違う答えが返ってきたら。
そのことを考えるだけで、玲奈は少し疲れた。
## 3 言葉は、送り主を離れていく
昼休み、玲奈は水野真帆と給湯室で顔を合わせた。
「田辺さんのこと、聞いた?」
玲奈が尋ねた。
「うん。さっきメールが来ていたね」
「心配だよね。早くよくなるといいけど」
「本当にね」
真帆は、持っていたマグカップにお湯を注いだ。
しばらく、二人とも黙っていた。
以前なら、何でもない話を始めるのは簡単だった。最近見た映画のこと、駅前にできた店のこと、週末の予定。
けれど今は、言葉を選ぶ時間が少しずつ長くなっていた。
相手の何気ない一言が、別の意味に受け取られるかもしれない。
そんな予感が、二人のあいだに薄い膜のように張っていた。
「真帆さんは、どう思う?」
玲奈が言った。
「何を?」
「接種していても感染するっていうこと。やっぱり、心配になるよね」
真帆は少し考えた。
「田辺さんのことは心配だよ。それに、感染するかどうかだけじゃなくて、重症化を防ぐ効果も含めて、考えないといけないんだと思う」
「うん。そうだよね」
玲奈は頷いた。
真帆は続けた。
「だからこそ、何が分かっていて、何が分かっていないのか、きちんと知りたいなって思う」
その言葉を聞いたとき、玲奈の表情がほんの少しだけ変わった。
「もちろん、知ることは大切だと思うよ」
玲奈は慎重に言った。
「ただ、情報がたくさんあると、かえって不安になってしまう人もいるでしょう?」
「それは、そうかもしれないね」
真帆は答えた。
「だから、何を根拠に考えればいいのか、知りたいんだよ」
玲奈は、すぐには返事をしなかった。
真帆は、自分の言い方が強くなっていなかったか、頭のなかで振り返った。
責めるつもりはなかった。
玲奈を困らせたいわけでもない。
ただ、分からないことを、分からないままにしておきたくなかった。
「真帆さんは、真面目だね」
玲奈が微笑んだ。
「ちゃんと調べて、自分で納得して決めたいんだよね」
「うん」
「でも、こういう問題って、自分だけのことでもないから」
玲奈の声は、やわらかかった。
「職場には、家族に高齢の人がいる人もいるし、持病のある家族を守りたい人もいる。みんな、それぞれ事情があるでしょう? だから、できるだけ同じ方向を向いていたいなって思うんだ」
真帆は、マグカップを両手で包んだ。
「私も、誰かに感染させたいわけじゃないよ」
「うん。分かってる」
玲奈はすぐに答えた。
本当に、分かっているつもりだった。
真帆が誰かを傷つけたいわけではないことも、感染を軽く考えているわけではないことも。
それでも、玲奈は、真帆の迷いが周囲に広がっていく場面を想像してしまった。
ひとりが迷えば、別の人も迷うかもしれない。
迷いが広がれば、これまで安心していた人まで、自分の判断に自信を持てなくなるかもしれない。
それは、よくないことではないのか。
玲奈は、自分の考えを確かめるように、心のなかで繰り返した。
「みんなが安心して働けることも、大切だと思うんだ」
最後に、玲奈はそう言った。
真帆は頷いた。
「うん。それは、私もそう思う」
二人の会話は、そこで終わった。
玲奈は、真帆を説得したつもりはなかった。
真帆もまた、玲奈に反論したつもりはなかった。
それなのに、二人は別々の思いを抱えて、その場を離れた。
玲奈は、真帆が周囲への影響を理解してくれたことを期待した。
真帆は、自分の質問が、また「周囲を不安にさせるもの」と受け取られたのではないかと心配した。
同じ会話をしていたのに、二人が持ち帰ったものは、少しずつ違っていた。
そして、言葉は二人のあいだを離れたあと、さらに別の意味を持ち始めた。
## 4 誰も嘘をついていない
午後、玲奈は黒田課長に呼び止められた。
「小野寺さん、少し確認したいんだけど」
「はい」
「最近、職場の感染対策について、社員からいくつか質問が来ているんだ」
玲奈は、背筋を伸ばした。
「何か問題がありましたか?」
「いや、問題というより、確認だね。会社としては、基本的な感染対策を続けてもらいたい。それは今までどおり。ただ、接種については、一律に求めているわけではないから」
「はい。分かっています」
玲奈は答えた。
黒田課長は、少し間を置いた。
「それと、個人の考え方について、必要以上に話が広がらないようにしたい。誰かが何かを調べているとか、まだ決めていないとか。それ自体を問題にするつもりはないんだ」
玲奈は、返事をするまでに一瞬、時間がかかった。
「もちろんです」
そう答えた。
黒田課長は、玲奈を疑っているわけではなかった。
ただ、職場のなかで、事実と推測が混ざり始めていることを気にしていた。
「何か気になることがあったら、事実と受け止め方を分けて考えてほしい。これは小野寺さんだけに言っているわけじゃないよ。私自身も含めてね」
「はい」
玲奈は微笑んだ。
その笑顔は、いつもと変わらなかった。
黒田課長の席を離れてから、玲奈は自分の発言を思い返した。
誰かを名指ししたことはない。
真帆が接種していないと、周囲に言いふらしたこともない。
ただ、職場の安心について話しただけだ。
感染対策の大切さを確認しただけだ。
そのどこが、いけなかったのだろう。
玲奈は、そう考えた。
けれど、その考えのあとに、もうひとつの問いが浮かんだ。
自分が何を言ったかだけでなく、相手が何を受け取ったかも、考える必要があるのではないか。
そう思った瞬間、玲奈は足を止めた。
もし、自分の言葉が、誰かに別の意味で伝わっていたとしたら。
もし、自分が話した「みんなの安心」が、誰かにとっては「自分の考えを口にしないでほしい」という意味になっていたとしたら。
それは、自分の意図とは違う。
違うけれど、意図と結果が違うことは、珍しくない。
玲奈は、それを認めるのが怖かった。
自分は、人を困らせるために話したのではない。
むしろ、困らせないために話してきたのだ。
誰かが不安にならないように。
誰かが傷つかないように。
職場の雰囲気が悪くならないように。
そうやって言葉を選んできた。
なのに、その言葉が誰かを追い詰めているかもしれない。
その可能性を認めたら、自分がこれまでしてきたことを、どこから見直せばいいのか分からなくなる。
玲奈は、再び歩き始めた。
考えるのをやめたわけではなかった。
ただ、今は、答えを出せなかった。
## 5 みんなのために
夕方、玲奈は社内の共有スペースで、高橋修と顔を合わせた。
高橋は、紙コップのコーヒーを片手に、窓の外を眺めていた。
「高橋さん、田辺さんのこと、聞きました?」
玲奈が声をかけると、高橋は頷いた。
「聞きました。心配ですね」
「本当に。早くよくなってほしいです」
二人は、しばらく田辺の体調について話した。
そのあと、高橋がぽつりと言った。
「こういうことがあると、いろいろ考えちゃいますね」
玲奈は、彼の顔を見た。
「感染対策のことですか?」
「それもありますし……。自分が何を分かっていて、何を分かっていないのか、よく分からなくなるというか」
高橋は苦笑した。
「専門家でもないのに、分かったようなことを言うのも違う気がするし、かといって、何も考えないのも違う気がするし」
玲奈は、黙って聞いていた。
高橋の言葉は、彼女自身が心のなかで感じていたことに、少し似ていた。
「そうですよね。難しいですよね」
玲奈は言った。
「だからこそ、基本的な感染対策を続けて、みんなで協力していくことが大切なんじゃないかなって思うんです」
高橋は、紙コップを見つめた。
「そうですね」
そして、少し迷ったように付け加えた。
「ただ、協力することと、同じ考えになることは、別なのかもしれませんね」
玲奈は、すぐには答えられなかった。
高橋は、誰かを批判するような口調ではなかった。
自分自身に言い聞かせるような、静かな声だった。
「いや、すみません。うまく言えないんですけど」
「いえ……」
玲奈は微笑んだ。
「私も、考えてみます」
その場を離れてから、玲奈は高橋の言葉を何度も思い返した。
協力することと、同じ考えになることは、別。
そんなことは、当たり前なのかもしれない。
職場には、さまざまな人がいる。
家族構成も、健康状態も、経験も違う。何を心配するかも、何を大切にするかも、人によって違う。
玲奈は、そうした違いを尊重することが大切だと、ずっと思っていた。
本社に戻ってきたときも、久しぶりに会った同僚たちに、そんな話をした。
一人ひとりの違いを認めること。
誰もが安心して働ける職場をつくること。
それは、会社が掲げるダイバーシティ&インクルージョンの理念とも重なっていた。
けれど、玲奈は今、ひとつのことに気づき始めていた。
自分は、違いを認めているつもりで、違いがいつかなくなることを期待していたのではないか。
真帆が自分と同じ考えになれば、安心できる。
高橋が自分の言葉に頷けば、安心できる。
周囲が同じ方向を向いていると感じられれば、自分の選択を疑わずに済む。
それは、本当に、違いを尊重することなのだろうか。
玲奈は、自分の席に戻った。
パソコンの画面には、以前、社内報で読んだ文章が表示されたままになっていた。
「一人ひとりの違いを尊重し、誰もが安心して働ける職場へ」
玲奈は、その一文を見つめた。
誰もが安心できる職場。
その言葉に、間違いがあるとは思わない。
ただ、安心とは、何を意味するのだろう。
みんなが同じ考えを持っていると感じられることなのか。
それとも、考えが違っていても、その違いを理由に居場所を失わずにいられることなのか。
玲奈は、答えを出せなかった。
答えを出せないまま、画面を閉じた。
## 6 真帆の沈黙
その日の帰り際、真帆は高橋と廊下ですれ違った。
「水野さん」
「高橋さん。お疲れさまです」
「田辺さん、心配ですね」
「うん。早くよくなってほしいね」
高橋は少し迷ってから、口を開いた。
「それで……最近、どうですか」
何について尋ねているのか、真帆には分かった。
玲奈が戻ってきてから、職場の空気は少しずつ変わっていた。
誰かに直接、何かを言われたわけではない。
接種を強制されたわけでもない。
黒田課長も、会社として一律の接種を求めていないと説明していた。
それでも、真帆がワクチンについて調べていると話すたび、会話の終わりには、周囲への配慮や、みんなの安心という言葉が現れるようになった。
まるで、自分が質問を続けること自体、誰かに負担をかけているかのようだった。
「どうって?」
真帆は、少し笑ってみせた。
「まあ、普通だよ」
高橋は、それ以上、聞かなかった。
真帆も、話さなかった。
本当は、誰かに聞いてほしかった。
自分は何か、間違ったことをしているのだろうか。
ただ調べて、考えて、納得して決めたいと思うことは、そんなにいけないことなのだろうか。
けれど、そう尋ねることさえ、誰かに自分の味方になってほしいと求めることになるのではないか。
真帆には、それが分からなかった。
自分は、事実を知りたいのだと思っていた。
けれど、自分の考えを否定されるたび、心のどこかで、誰かに「あなたは間違っていない」と言ってほしくなっていた。
それは、玲奈が周囲に求めているものと、どこが違うのだろう。
真帆は、ふと、そんなことを考えた。
自分は、玲奈を責めることができるのだろうか。
不安だから、誰かに理解してほしい。
自分の判断に、確かな根拠がほしい。
ひとりで考え続けることに、疲れてしまう。
その気持ちは、真帆にも分かる気がした。
ただ、分かることと、受け入れることは同じではない。
誰かが不安だからといって、その不安を理由に、別の誰かが黙らなければならないわけではない。
真帆は、そこだけは手放したくなかった。
「高橋さん」
真帆は、呼び止めるように言った。
「私、まだ、ちゃんと考えたいんだ」
高橋は彼女を見た。
「うん」
「誰かに何かを勧めたいわけでも、誰かの選択を否定したいわけでもない。ただ、自分のことだから、自分で理解して決めたい。それだけなんだ」
言い終えたあと、真帆は自分の声が思ったより小さかったことに気づいた。
高橋は、ゆっくり頷いた。
「そうですよね」
それだけだった。
それだけだったけれど、真帆は少しだけ、息がしやすくなった。
高橋は、彼女に正解を教えたわけではない。
彼女の選択を肯定したわけでも、否定したわけでもない。
ただ、彼女が何を言おうとしているのか、聞こうとしてくれた。
真帆に必要だったのは、もしかすると、そういうことだったのかもしれない。
誰かに同意してもらうことではなく、同意できない可能性も含めて、話を聞いてもらうこと。
けれど、その小さな会話が、職場全体を変えるわけではなかった。
高橋もまた、自分の考えをどこまで口にしていいのか、まだ迷っていた。
彼は真帆を励ましたあと、廊下の先を見た。
もし自分が何かを言えば、それが誰かの立場を悪くするかもしれない。
そう考えると、次の言葉が出てこなかった。
二人は、それぞれの不安を抱えたまま、別れた。
## 7 善意の行き先
その夜、玲奈は自宅のソファに座り、スマートフォンを眺めていた。
田辺から、社内の連絡網を通じて、短い報告が届いていた。
症状は出ているものの、今のところ自宅で療養できていること。しばらく休み、回復に専念すること。
玲奈は、ほっとした。
よかった。
本当に、よかった。
画面を閉じようとして、指が止まった。
田辺が感染したことは、何かの答えなのだろうか。
違う。
感染したという事実だけで、ワクチンの効果について、すべてが分かるわけではない。
では、自分は何を怖がっているのだろう。
玲奈は、ソファの背にもたれた。
自分が選んだことが、間違いだったと分かるのが怖いのだろうか。
それとも、自分が誰かに勧めたことが、相手にとって負担になっていたと分かるのが怖いのだろうか。
たぶん、どちらもだった。
玲奈は、これまで、周囲の人を守りたいと思ってきた。
その気持ちに嘘はなかった。
感染症が怖かった。
大切な人が病気になるのも怖かった。
自分が何もせずにいて、あとから、できることがあったのにと思うのも怖かった。
だから、できることをしようと考えた。
周囲にも、できることをしてほしいと思った。
その願いが、いつから、周囲にも同じ考えを持ってほしいという願いに変わったのだろう。
玲奈には、はっきりとは分からなかった。
ある日、突然、変わったわけではないのだと思う。
心配しているだけ。
念のために言っているだけ。
みんなのためだから。
そうした言葉を重ねるうちに、少しずつ、境目が分からなくなったのかもしれない。
自分が心配していることを、みんなも心配しているはずだと思う。
自分が安心できる選択を、みんなにもしてほしいと思う。
そして、誰かが違う選択をしようとすると、その人が何を考えているのかを尋ねる前に、周囲への影響を心配する。
玲奈は、目を閉じた。
真帆の顔が浮かんだ。
真帆は、何かを断言していたわけではなかった。
ワクチンは危険だとも、打つべきではないとも、言っていなかった。
ただ、考えたいと言っていた。
自分で理解して決めたいと。
それなのに、玲奈は、真帆の言葉を聞くたび、職場の空気が揺れることを心配していた。
真帆が何を考えているのかよりも、真帆が何を言い出すかを気にしていた。
そのことに気づくと、玲奈の胸が重くなった。
私は、あの人の話を、本当に聞いていたのだろうか。
問いが浮かんだ。
答えは、すぐには出なかった。
玲奈は、自分が悪い人間だとは思いたくなかった。
実際、誰かを傷つけたいと思ったことはない。
けれど、傷つけるつもりがなかったことは、誰も傷つけなかったという証明にはならない。
その二つが違うことを、玲奈は頭では理解していた。
理解していたのに、自分のこととなると、受け止めるのが難しかった。
玲奈は、スマートフォンを手に取った。
真帆にメッセージを送ろうかと思った。
〈今日の話、気になっていて〉
そこまで入力して、指が止まった。
続きに何を書けばいいのだろう。
〈あなたの考えを尊重しているよ〉
そう書けば、真帆は安心するだろうか。
けれど、尊重していると言葉にすることで、自分が本当に尊重できているかのように振る舞うだけではないのか。
玲奈は、入力した文章を消した。
今、何かを伝えるよりも、もう少し考えたほうがいいのかもしれない。
そう思った。
その一方で、真帆との距離がこれ以上、広がっていくことも怖かった。
玲奈は、スマートフォンをテーブルに置いた。
窓の外では、車のライトがゆっくりと流れていた。
自分の言葉が、誰かに届く。
それは、悪いことではない。
誰かを励ますこともできる。
不安な人を支えることもできる。
けれど、届いた言葉が、相手のなかで別の意味に変わることもある。
自分が意図していなかった方向へ、言葉が歩いていくこともある。
そして、言葉を受け取った人が、その言葉を別の誰かに伝えるとき、最初の意味は、さらに少しずつ変わっていく。
誰も嘘をついていなくても。
誰も、誰かを傷つけようとしていなくても。
善意は、ときに、思いもしなかった場所へ届いてしまう。
玲奈は、そのことを初めて、自分自身の問題として考え始めていた。
けれど、まだ、何かを変えるところまでは行けなかった。
自分の不安を認めることと、その不安から他人を自由にすることは、別のことだった。
玲奈は、まだその違いを、十分には理解できていなかった。
## 8 誰のための安心なのか
翌朝、真帆は出勤すると、デスクの上に置かれた社内報に目を留めた。
表紙には、笑顔で並ぶ社員たちの写真が載っていた。
その下に、大きな文字があった。
「一人ひとりの違いを尊重し、誰もが安心して働ける職場へ」
真帆は、その言葉をしばらく見つめていた。
違いを尊重する。
誰もが安心して働ける。
どちらも、間違っていない。
けれど、二つの言葉のあいだには、ときどき、見えにくい溝ができる。
違う意見を持つ人がいる。
その人の話を聞けば、自分が当然だと思っていたことが、少し揺らぐかもしれない。
安心していた人が、不安になるかもしれない。
そのとき、私たちはどうするのだろう。
不安にさせるような話をしないでほしいと、相手に求めるのだろうか。
それとも、不安になった自分の気持ちを抱えながら、相手の話を聞こうとするのだろうか。
真帆は、社内報を閉じた。
自分も、いつも後者を選べるわけではない。
自分の考えを否定されれば、腹が立つこともある。
自分の不安を分かってもらえなければ、相手の言葉を冷たく感じることもある。
人は誰でも、自分が安心できる場所を求める。
それ自体は、悪いことではない。
ただ、自分が安心するために、誰かが黙らなければならないとしたら。
自分が安心するために、誰かが自分の考えを隠さなければならないとしたら。
その安心は、本当に、みんなのためのものなのだろうか。
真帆は、パソコンを立ち上げた。
画面の向こうには、いつもと変わらない仕事が待っていた。
メールを確認し、資料を作り、会議に出席する。
誰も、真帆に接種を命じてはいない。
誰も、彼女の意見を明確に否定したわけではない。
それでも、真帆は、自分の言葉を口にする前に、何度も考えるようになっていた。
この質問をしたら、どう思われるだろう。
この話をしたら、誰かを不安にさせるだろうか。
自分は、周囲に配慮できていない人だと思われるだろうか。
そうやって言葉を選ぶうちに、言いたいことが少しずつ、心の奥へ押し戻されていった。
真帆は、自分が何を怖がっているのか、分かっていた。
感染症だけではなかった。
人からどう見られるか。
これまで築いてきた関係が変わってしまうこと。
自分の考えを口にしたことで、誰かとの距離が広がってしまうこと。
そして、自分が本当は何を望んでいるのかさえ、分からなくなってしまうこと。
真帆は、画面の端に表示された日付を見た。
昨日と同じ今日が始まっていた。
けれど、昨日よりも少しだけ、言葉を口にすることが難しくなっている。
そのことを、誰かに説明するのは、もっと難しかった。
真帆は、ゆっくりと息を吐いた。
誰もが安心して働ける職場。
その言葉を、彼女は否定したくなかった。
ただ、ひとつだけ、確かめたいことがあった。
その「誰も」のなかに、周囲と違う考えを持つ自分も、含まれているのだろうか。
そして、その問いを口にすることさえためらう職場で、私たちは本当に、違いを尊重できているのだろうか。
答えは、まだ見つからなかった。
その頃、玲奈もまた、同じ言葉について考えていた。
誰もが安心して働ける職場。
彼女は、その言葉を信じていた。
今も、信じていたかった。
けれど、安心を守ろうとする自分の言葉が、誰かの居場所を狭めているかもしれない。
その可能性を、もう、知らなかったことにはできなかった。
玲奈は、真帆にメッセージを送らなかった。
真帆もまた、玲奈に何も尋ねなかった。
二人のあいだには、まだ言葉になっていない問いが残されていた。
善意は、どこまで届くのか。
そして、届いた先で、誰かの自由を奪ってしまったとき。
その善意を、私たちは、どうやって見つめ直せばいいのだろう。




