第五話 頼れるはず、だった人
人を追い詰めるのは、悪意だけではない。
誰かを守りたいという願いも、みんなのためという善意も、ときに異なる声を押しつぶす力になる。
本当に恐ろしいのは、誰かが悪意を持っていることではなく、誰もが善意を信じているとき、自分たちが誰かを追い詰めていることに気づけなくなることなのかもしれない。
◾️主な登場人物
**水野真帆/34歳**
会社員。周囲がワクチン接種を当然のこととして受け止めるなか、自分なりに情報を調べ、納得してから判断したいと考えている。誰かの選択を否定したいわけではない。ただ、自分の疑問を口にすることが、いつの間にか周囲との距離を生んでいく。
**佐伯由紀/35歳**
真帆の友人で同僚。家族や周囲の人を守りたいという思いから、ワクチン接種を選んだ。真帆のことも心配しているが、その善意は、ときに相手の気持ちを聞くことよりも、自分が安心できる結論へ導くことを優先してしまう。
**黒田課長**
真帆たちの上司。職場の安全と秩序を守ろうとする管理職。誰かに明確な命令を下すつもりはないが、「皆さんのご協力をお願いします」という曖昧な言葉が、意図しない同調圧力を生み出すことがある。
**高橋修**
真帆の同僚。周囲の空気に違和感を覚えながらも、職場で孤立することを恐れ、自分の考えを口にできずにいる。彼の沈黙は、いつしか周囲から賛同と受け取られていく。
**水野澄江**
真帆の叔母。一時期、体調を崩して一か月以上寝込んだことがある。その経験は、真帆が健康や医療について、自分自身で考えたいと思うきっかけの一つになっている。ただし、体調不良の原因は明らかにされていない。
**小野寺玲奈/32歳**
仕事ができ、気配りに優れ、周囲からの信頼も厚い女性。以前は本社で働いていたが、仙台への赴任を経て、本社に復帰する。
人の話を聞き、対立する意見を調整し、場の空気を和らげることに長けている。困ったときには頼りになる存在であり、本人もまた、誰かの役に立ちたいと願っている。
しかし、玲奈自身も不安を抱えている。自分が選んだ判断は正しかったのか。自分が信じてきたものは、本当に揺るがないのか。その不安を直視することが怖いからこそ、周囲にも同じ方向を向いてほしいと願うようになる。
彼女は、他人を傷つけようとして行動するわけではない。むしろ、みんなが安心して暮らせることを心から望んでいる。
だからこそ、彼女の言葉には力がある。
そして、その善意が、いつしか誰かの声を小さくしてしまうことがある。
玲奈は、誰もが認める悪人ではない。頼れる人であり、信頼される人であり、同時に、自分でも気づかないうちに同調圧力を生み出してしまう人でもある。
第五話 頼れるはず、だった人
小野寺玲奈が本社に戻ってくる。
その知らせが社内メールで届いたのは、月曜日の午前十時を少し過ぎたころだった。
件名は、簡潔だった。
**「人事異動のお知らせ」**
仙台支社に赴任していた小野寺玲奈さんが、来月一日付で本社に復帰します。
メールには、それだけのことが事務的に記されていた。
けれど、社内の反応は事務的ではなかった。
「えっ、玲奈さん、戻ってくるんだ」
「本当? 懐かしいなあ」
「仕事、早かったよね。あの人」
「気も利くし。困ったときに相談すると、ちゃんと話を聞いてくれるんだよね」
給湯室でも、廊下でも、昼休みの食堂でも、玲奈の名前が聞こえてきた。
小野寺玲奈、三十二歳。
以前は本社の企画部に所属し、調整役として社内外の案件を数多く担当していた。相手の話を聞くのがうまく、会議で対立が起きれば、双方の言い分を整理して、誰も傷つかない着地点を探す。
少なくとも、周囲はそう評価していた。
真帆も、玲奈には何度か助けられたことがあった。
以前、部署をまたぐ仕事で行き違いが起きたとき、真帆が説明しても理解してもらえなかった事情を、玲奈は根気よく聞いてくれた。
「真帆さんが言いたいのは、相手の部署を責めたいんじゃなくて、そもそもの手順を見直したい、ということですよね?」
そう言ってくれたのは玲奈だった。
真帆の言葉を、真帆が意図したとおりに受け取ってくれた。
そのことが、真帆にはうれしかった。
人は、自分の話を正確に理解してくれる人を、信頼する。
そして、一度信頼した人の言葉は、ほかの人の言葉よりも、少しだけ疑いにくくなる。
*
玲奈が本社に復帰した日、部署のメンバーは小さな歓迎会を開いた。
大げさなものではなかった。会議室の隅に菓子と飲み物を並べ、昼休みに十五分ほど集まるだけの、ささやかな会だった。
「お帰りなさい、玲奈さん!」
「仙台はどうだった?」
「いやあ、やっぱり本社に玲奈さんがいると安心するよ」
口々に声をかけられ、玲奈は笑顔で応じた。
「ただいま。みんな、変わってないね」
「変わったよ。いろいろあったんだから」
「そうなの? あとでゆっくり聞かせて」
玲奈は相手の目を見て話した。誰かが会話に入れずにいると、さりげなく話を振った。
「高橋さん、最近どう? 前に担当していた案件、まだ続いているの?」
「ああ、はい。まあ、なんとか」
「高橋さん、そういうところ、相変わらず真面目だよね」
高橋は照れたように笑った。
玲奈がいると、場の空気がなめらかになる。
誰もが、そう感じていた。
真帆も、その輪の中にいた。
「真帆さん、久しぶり」
玲奈が声をかけた。
「お久しぶりです。戻ってこられたんですね」
「うん。仙台もよかったけど、やっぱり本社は知っている人が多いから、ほっとするね」
「お帰りなさい」
「ありがとう。真帆さんも元気そうでよかった」
玲奈は少し首を傾けた。
「そういえば、最近どう? 仕事、大変?」
「まあ、それなりに」
「それなり、っていう顔じゃないけど」
玲奈は笑った。
「何かあった?」
その聞き方が、以前と変わらなかった。
無理に聞き出そうとはしない。けれど、話してもいいのだと思わせる余白がある。
真帆は、ほんの少し迷った。
今、話していいのだろうか。
けれど、玲奈なら。
「実は、最近、ワクチンのことで少し考えていて」
玲奈の表情が、一瞬だけ変わった。
ほんの一瞬だったので、真帆は気づかなかった。
「ワクチン?」
「はい。接種するかどうか、自分なりに調べているんです」
「そうなんだ」
玲奈は、すぐに否定しなかった。
眉をひそめることも、驚いた声を上げることもなかった。
「自分の体のことだものね。ちゃんと考えたいよね」
真帆は、ほっとした。
少なくとも、ここでは話ができる。
「感染を防ぐことと、重症化を防ぐことって、同じではないじゃないですか。それに、効果も、時間がたったり、流行している変異株が変わったりすれば違ってくる。そういうことを整理してから、自分で判断したいと思っていて」
「うん」
「もちろん、感染対策が必要ないと言いたいわけじゃないんです。ただ、何を期待して接種するのか、自分でも理解しておきたくて」
玲奈は黙って聞いていた。
真帆は、自分が一方的に話しすぎているような気がして、言葉を止めた。
「すみません。なんだか、説明みたいになっちゃって」
「ううん。いいと思うよ」
玲奈は微笑んだ。
「自分で調べるのは大事だよね」
その言葉に、真帆の肩から少し力が抜けた。
やはり、玲奈は話のわかる人だ。
ところが、玲奈は続けた。
「ただね」
声の調子は、変わらなかった。
「感染症って、自分一人の問題ではないでしょう?」
真帆は、顔を上げた。
「ええ。それは、そうですね」
「家族もいるし、職場の人もいる。自分がどうするかによって、周りの人の安心にも関わってくることがあるでしょう?」
「はい」
「だから、個人の判断を大切にすることと、周りへの配慮を考えること。その両方が必要なんだと思うの」
玲奈は、誰かを責めるような口調ではなかった。
むしろ、真帆の考えを理解したうえで、別の視点を加えているように聞こえた。
「みんなが不安な時期だからこそ、職場でも、できるだけ同じ方向を向けたらいいよね」
同じ方向。
真帆は、その言葉を心の中で繰り返した。
「同じ方向、ですか」
「うん。もちろん、全員が何もかも同じ考えになる必要はないよ。でも、安心して働ける環境をつくるという目的は、みんなで共有できるでしょう?」
それは、反論しにくい言葉だった。
安心して働ける環境。
誰もが望んでいることだ。
真帆だって、望んでいる。
ただ、安心という言葉の中に、何が含まれているのか。
そのときの真帆には、まだうまく言葉にできなかった。
「そうですね」
真帆は答えた。
玲奈は、ほっとしたように笑った。
「真帆さんなら、ちゃんと考えてくれると思っていた」
その一言を、真帆は好意として受け取った。
自分の考えを理解してもらえたのだと思った。
玲奈のほうも、真帆を否定したつもりはなかった。
むしろ、真帆が自分の言葉を受け入れてくれたことに、安堵していた。
自分と違う意見を持つ人がいる。
そのこと自体は、頭ではわかっている。
けれど、その人が自分の考えを理解し、最後には同じ方向を向いてくれたなら。
それは、やはり安心できることだった。
玲奈は、その安心を手放したくなかった。
*
その日の午後、玲奈は黒田課長のところへ挨拶に行った。
「課長、ご無沙汰しております」
「おお、小野寺さん。戻ってきてくれて助かるよ。仙台でも活躍していたそうだね」
「いえ、周りの方に助けていただいただけです」
玲奈は軽く頭を下げた。
仕事の話をひととおり終えたあと、玲奈は、何気ない雑談のように切り出した。
「ところで、こちらの部署では、感染症対策の方針は今も変わっていないんでしょうか?」
「基本的な感染対策は、引き続きお願いしているよ」
「そうですよね」
玲奈は頷いた。
「こういう時期って、いろいろな考え方があると思うんです。だからこそ、会社として、何を大切にしているのかが、みんなにきちんと伝わっていると安心だなと思って」
「何を大切に、か」
「はい。もちろん、個人の判断を尊重することも大切です。でも、周りの人が不安を感じないように配慮することも大切ですよね」
黒田課長は、机の上の書類を揃えた。
「そうだね。会社としては、感染対策について必要な情報を共有し、皆が安心して働ける環境を整えることが基本だと思っているよ」
「そうですよね。私も、そう思います」
玲奈は笑った。
「ただ、方針が曖昧だと、社員同士で余計な誤解が生まれることもあると思うんです」
「なるほど」
「何か問題が起きている、ということではないんです。ただ、復帰したばかりなので、今の職場の雰囲気も知っておきたいなと思って」
玲奈は、真帆の名前を出さなかった。
誰かを告げ口したわけでもない。
何かを要求したわけでもない。
ただ、職場の安心について話しただけだった。
黒田課長も、特定の社員について何かを調べるつもりはなかった。
「わかった。感染対策については、改めて基本事項を共有しておこう」
「ありがとうございます。みんなが安心して働けるのが一番ですから」
玲奈は、丁寧に頭を下げて部屋を出た。
廊下を歩きながら、彼女は自分の言葉を振り返った。
おかしなことは言っていない。
会社の方針を確認するのは、必要なことだ。
感染対策について、皆が共通の認識を持つのも大切だ。
そう考えれば、何も問題はない。
それでも、胸の奥に、小さな引っかかりが残っていた。
自分は、何を確認したかったのだろう。
会社の方針だろうか。
それとも、自分の考えが間違っていないという保証だろうか。
玲奈は、その問いを最後まで考えなかった。
考えれば、自分の足元まで揺らいでしまいそうだったからだ。
*
数日後、部署内に一通のメールが届いた。
件名は、**「感染症対策に関する基本事項の再確認」**。
内容は、手洗い、換気、体調不良時の連絡、必要に応じたマスクの着用など、基本的な感染対策を改めて確認するものだった。
ワクチン接種を求める文言はなかった。
接種の有無を報告するようにという指示もなかった。
誰かの名前も、どこにも書かれていなかった。
それなのに、メールを読んだ社員たちの間では、さまざまな憶測が生まれた。
「何かあったのかな」
「最近、感染対策について話題になっていたからじゃない?」
「会社も、いろいろ気にしているんだろうね」
「まあ、みんなが同じ認識を持っていたほうがいいのは確かだよね」
誰も、真帆の名前を口にしなかった。
けれど、何人かは、数日前の昼休みの会話を思い出していた。
真帆が、ワクチンについて調べていると言っていたこと。
接種するかどうか、まだ決めていないと言っていたこと。
そして、感染を防ぐことと重症化を防ぐことについて、何か話していたこと。
記憶は、いつの間にか形を変えていた。
最初は、「真帆さんは、まだ考えているらしい」だった。
それが、「真帆さんは、接種に慎重らしい」になり、やがて、「真帆さんは、感染対策に疑問があるらしい」へと変わっていく。
誰かが、明確な嘘をついたわけではなかった。
けれど、誰かが少しずつ意味を付け加えていた。
そして、付け加えられた意味は、元の言葉よりも速く広がった。
*
金曜日の午後、真帆が給湯室でコーヒーを淹れていると、高橋が入ってきた。
「水野さん」
「はい?」
「ちょっと、いいですか」
高橋は、廊下のほうをちらりと見た。
「最近、何かありました?」
「何か、ですか?」
「いや、別に、具体的に何か聞いたわけじゃないんですけど」
高橋は言葉を選んでいた。
「なんとなく、感染対策の話が、少し大きくなっているような気がして」
真帆は、手を止めた。
「私のことですか?」
「いや、そういうつもりじゃ……」
高橋は困ったように笑った。
「ただ、何というか。みんな、気にしているみたいなので」
みんな。
その言葉が、また現れた。
「私、何か、誰かに迷惑をかけるようなことをしましたか?」
「いや、そういうことではないと思います」
「では、何が問題になっているんでしょう」
「それは……」
高橋は答えられなかった。
そもそも、彼にも、何が問題なのかはわかっていなかった。
ただ、周囲の空気が少し変わったことだけは感じていた。
誰かが不安そうにしている。
誰かが、何かを気にしている。
誰かが、真帆の話題になると、言葉を濁す。
その断片をつなぎ合わせるうちに、高橋自身も、何か問題が起きているのだと思い始めていた。
「すみません。うまく説明できなくて」
高橋はそう言って、給湯室を出ていった。
真帆は、カップに目を落とした。
コーヒーの表面が、かすかに揺れていた。
誰も、彼女に接種を強制していない。
会社から、接種しなさいと言われたわけでもない。
玲奈も、真帆を責めたわけではない。
それなのに、真帆の周囲には、見えない何かができ始めていた。
何かがあるらしい。
けれど、何があるのかは、誰にも説明できない。
その曖昧さが、かえって真帆を不安にさせた。
*
その夜、玲奈は自宅のソファに座り、スマートフォンを眺めていた。
家族とのメッセージを返し、翌日の予定を確認し、ニュースをいくつか読む。
いつもの夜だった。
けれど、真帆との会話が、頭から離れなかった。
自分の体のことだから、ちゃんと考えたい。
真帆は、そう言った。
その言葉は、間違っていない。
玲奈だって、自分の体のことは自分で考えるべきだと思っている。
けれど、感染症は、自分一人の問題ではない。
家族がいる。
同僚がいる。
高齢の親を持つ人もいる。
基礎疾患のある家族を抱えた人もいるかもしれない。
そうした人たちの不安を、無視していいはずがない。
玲奈は、自分がワクチンについて考えたときのことを思い出した。
あのころ、周囲の人たちは次々と接種を受けていた。
家族も、友人も、職場の同僚も。
接種を受けたという話が、日常の会話の中に自然に混じっていた。
玲奈も、自分なりに情報を集め、考え、接種を選んだ。
その選択には、家族を守りたいという思いがあった。
社会の中で暮らす以上、できることはしておきたいという気持ちもあった。
だからこそ、接種をめぐって迷い続けている人がいると聞くと、心のどこかがざわついた。
その人は、何を考えているのだろう。
どんな情報を見ているのだろう。
自分が信じて選んだことを、否定しようとしているのだろうか。
いや、真帆は、そんなことは言っていなかった。
ただ、調べていると言っただけだ。
それなのに、玲奈は、真帆の問いを聞くたびに、自分の選択まで問い直されているような気がした。
もし、真帆の疑問に、自分が答えられなかったら。
もし、真帆のほうが、自分の知らない情報を知っていたら。
もし、自分が選んだことについて、説明できない部分があったら。
自分は、どうすればいいのだろう。
玲奈は、スマートフォンを伏せた。
考えたくなかった。
自分は、必要なことをしてきた。
そう信じていたかった。
だから、周囲にも、同じように考えていてほしかった。
自分の判断が、特別なものではないこと。
自分だけが、不安に負けて選んだわけではないこと。
多くの人が同じように考え、同じように判断していること。
それを確かめられれば、安心できる気がした。
玲奈は、窓の外を見た。
自分は、誰かを傷つけたいわけではない。
誰かを仲間外れにしたいわけでもない。
ただ、みんなが安心して暮らせるようにしたい。
その思いに、嘘はなかった。
けれど、玲奈はまだ気づいていなかった。
自分が安心するために、誰かにも同じ考えを持ってほしいと思い始めていることに。
そして、その願いを、「みんなのため」という言葉で包み始めていることに。
*
翌週、社内の掲示板に、ダイバーシティ&インクルージョンについての社内広報が掲載された。
見出しには、大きな文字でこう書かれていた。
**「一人ひとりの違いを尊重し、誰もが安心して働ける職場へ」**
本文には、性別、年齢、国籍、働き方、価値観などの違いを認め合い、誰もが自分らしく能力を発揮できる環境を目指す、と記されていた。
真帆は、画面を見つめた。
違いを尊重する。
誰もが安心して働ける。
どちらも、もっともな言葉だった。
けれど、今の自分は、どうなのだろう。
ワクチンについて、まだ考えている。
わからないことを、わからないと言いたい。
自分の体について、自分で判断したい。
それは、この会社が掲げる「一人ひとりの違い」の中に、含まれているのだろうか。
それとも、誰かを不安にさせるかもしれないという理由で、口にしないほうがいい考えなのだろうか。
真帆は、玲奈の言葉を思い出した。
自分の体のことだものね。
あのとき、玲奈は、確かに自分の考えを認めてくれたように思えた。
そして、そのすぐあとに言った。
みんなで、同じ方向を向けたらいいよね。
あの言葉も、間違ってはいないのかもしれない。
職場で協力することは必要だ。
感染対策について、共通の理解を持つことも大切だ。
けれど、共通の理解を持つことと、全員が同じ結論に至ることは、同じなのだろうか。
違う意見を持ちながら、互いの存在を認め合うことは、できないのだろうか。
真帆は、答えを見つけられなかった。
ただ、一つだけ、はっきりしていることがあった。
玲奈は、真帆の話を聞いてくれた。
だからこそ、真帆は玲奈を信頼していた。
ところが今、玲奈の言葉を思い返すたびに、真帆は自分の言葉を飲み込むようになっていた。
玲奈が何かを命じたわけではない。
責めたわけでもない。
それなのに。
真帆は、パソコンの画面を閉じた。
人を傷つけるつもりがなくても、人を追い詰めることはあるのだろうか。
誰かを守ろうとすることが、別の誰かを黙らせてしまうことはあるのだろうか。
そして、頼れると思っていた人が、知らないうちに、自分の言葉を奪う側になってしまうことはあるのだろうか。
真帆は、まだ玲奈を嫌いになったわけではなかった。
むしろ、嫌いになりたくなかった。
以前、自分の話を正確に理解してくれた玲奈。
困っているときに、手を差し伸べてくれた玲奈。
あの人は、今も同じ人のはずだった。
けれど、人は、いつも同じ場所に立ち続けるわけではない。
善意のまま、誰かを追い詰めることもある。
正しいことをしていると信じながら、他人の声を小さくしてしまうこともある。
真帆は、心の中で、もう一度その名前を呼んだ。
玲奈さん。
頼れる人だと思っていた。
今だって、そう思いたい。
けれど。
**頼れるはず、だった人。**
その言葉が浮かんだ瞬間、真帆は、胸の奥に小さな痛みを感じた。
まだ、何かが決定的に壊れたわけではない。
玲奈は、今も笑顔で挨拶をする。
周囲の人たちも、玲奈を頼りにしている。
誰も、真帆に何かを強制してはいない。
ただ、真帆が何かを話そうとするとき、以前よりも少しだけ、言葉を選ぶようになった。
その変化に、まだ誰も気づいていなかった。
真帆自身でさえ、それが何の始まりなのか、わかっていなかった。
ただ、職場のどこかで、「みんなの安心」という言葉が、静かに力を持ち始めていた。
そして、その言葉の陰で、一人の人間が、自分の考えを口にすることをためらい始めていた。




